鉄道と軍隊(6)─我田引鉄
日露講和条約での鉄道問題
第1回講和会議(1908年8月10日)では外務大臣小村寿太郎はロシアがもっていた東清鉄道南満支線、すなわちハルピン(哈爾濱)より南の線路をすべて割譲せよという要求を出した。この他の日本側の条件は、
(1)韓国からのロシアの撤退
(2)満洲からの日露両国軍隊の撤兵
(3)日本が遼東半島租借を行なうにことについてのロシアの承認
(4)賠償金の支払い
(5)樺太の割譲
などの多くにわたっていた。わが国はこのほかにハルピンから遼東半島南端の旅順までの鉄道路線を管理下に置くことを主張した。このことはすでに6月30日に閣議決定されていた。条件中でも最重要事項と認識されていたのは間違いない。資料によれば、野戦鉄道提理部が上陸した前年の7月には小村の構想に入っていたという。ロシア軍の南下を防ぐには鉄道を押さえるのが一番である。このことは次に再びロシアがリターンマッチ(復讐戦)を企てた場合にも有効になる。
8月16日、ロシア全権ウイッテは反論した。割譲は日本軍が自国の狭軌企画に改めた昌図よりも南だけなら認めようというのである。つまり、ブーツ・オン・ザ・グラウンド(軍靴が踏み込んだ地)ではなく、運行実績がある所までだとウイッテは主張した。全線を手に入れることで満洲の安全度を高めようとする日本と、影響力を維持し続けようとするロシアの、満洲の戦後経営をめぐる対立でもあった。鉄道の譲渡は兵力配備にも影響する。場所によって違いはあるが、鉄道周辺の土地の管理権の問題があり、そこへ警備のために兵力を派遣することは当時、国際的な慣習でもあった。のちに悪名高くなる関東軍は平時の軍ではあるが、独立守備隊などをもつ鉄道施設などの警備を任務とする現役部隊である。
ウイッテの強い抵抗にあった小村は全線割譲をあきらめた。ハルピンと長春の間、自然境界になる第二松花江を境界として折り合いをつけようとした。しかし、ロシアはそれも認めず、長春(寛城子)から以北はロシア、以南は日本と支配権を分けることで妥結することになった。ただし、小村はここでしたたかさを見せつけた。ロシアの主張を認める代わりに吉林と長春の間の「吉長線」の敷設権を受け取ることにした。この路線はロシアが清国からすでに受けていた未完成のものだった。地図を見れば分かる通り、長春から東へ伸びるコースである。この路線こそ、開戦前から韓国の会寧を結ぶように計画された路線(吉会鉄道)に接続する重要なものだった。つまりハルピンから綏芬河を通りシベリア鉄道に接続するロシア側の東清鉄道の平行線となる鉄路の建設計画の一部である。
ロシアの「勝者もなければ敗者もない。一寸の土地も1コペックの金も渡さない」という強硬な主張。さらには再戦までほのめかされては日本側も主張を続けられなかった。戦費も枯渇し、軍隊も増やせない、国民生活は破たんの限界まで達していた。諸外国への戦時公債も発行できない、陸軍兵力はこれ以上の動員は不可能であり、増税によっての財源確保も望めない。政府と軍部はその現況を正確につかんでいた結果である。
結局、樺太の南半分の割譲、ロシア近海での漁業権の承認などで講和を妥結することになった。このなかで長春以南の鉄道の運行管理権と吉長鉄道の敷設権の獲得はのちの満洲経営に大きな力を発揮した。このとき、マスコミの煽動にのった民衆は各地で講和反対の暴動を起こした。いまも教科書に載る日比谷暴動や名古屋、大阪でも起きた講和反対の暴動は「市民運動をマスコミが煽動する」といったよい教訓になる。
賠償金30億円、樺太ばかりか沿海州の割譲までも東京帝大教授をはじめとして大衆は要求した。無能・弱腰の政府と国賊小村を非難する声は高まった。相次ぐ会戦の勝利、日本海海戦の大勝利と戦局は優位にある、それが譲歩とは何事ぞとマスコミは大衆の不満を代弁する論陣を張った。戦争継続のためには人、モノ、金を必要とし、国家全体の収支計算ができなかったとしか言いようがない。
大衆もマスコミも知識人も事実を知らず、判断せず、勝手な思い込みでよく間違いを起こすという貴重な教訓でもある。
10月31日、日露講和条約第6条に従って、日本側代表満洲軍参謀福島安正少将とロシア満洲軍参謀次長オラノフスキー少将の間に、日露鉄道線路引渡順序議定書が調印された。これによってロシアが管理していた昌図以北、長春以南の東清鉄道南満州支線の一部は日本側の手に渡ることになった。
桂・ハリマン協定
当時、アメリカの鉄道王といわれた人物がいた。彼こそはユニオン・パシフィック鉄道、パシフィック・メール汽船会社などをもつエドワード・ヘンリー・ハリマンである。彼は自社所有の鉄道や船舶で世界一周路線を築こうとするほどの大資産家でもあった(いささか荒唐無稽の妄想でもあった)。彼はポーツマス講和条約が交渉中の9月、静かにわが国を訪れていた。
9月6日、ハリマンを歓迎する晩餐会がアメリカ公使の主催で行なわれた。招かれたのは伊藤博文、井上馨といった元老、首相の桂太郎、曾根大蔵大臣、大浦逓信大臣、珍田外務次官、松尾日本銀行総裁、添田日本興業銀行総裁などの政財界の大物ばかりだった。ハリマンは日露戦争の戦時公債を500万ドルも引き受けてくれた人物である。戦費は15億円ともいわれたが、その多くは戦時外債でまかなわれた。うち1000万円以上を個人で受けてくれた人物であればこその大歓迎だった(当時の円ドル換算レートは1ドル=2円だった)。
その翌日の夜はお返しの首相主催の晩餐会である。これまた閣僚を中心にした華やかなパーティーだったが、あいにく日比谷で暴動が起きた。首相官邸にも暴徒が押し寄せてきたので会は中断された。さらにはハリマンの宿泊場所は日比谷公園前の帝国ホテルだったのは皮肉な巡り合わせといえる。しかし、ハリマンは長春以南の鉄道についての共同経営を政府に申し入れ、10月12日には桂首相との間に予備協定覚書を調印することになった。
当時の財政状況ではせっかくの路線も維持できないという判断があった。ロシアは依然として満洲北部に駐兵し、いつでも再戦の機会をねらっていたとも思える。そうであるなら南満州支線は最重要な戦略手段だった。財政逼迫の折から、ハリマンの申し出は仕方なく応じることしかできなかっただろう。
ところが小村が反対したのである。論拠は日露講和条約にあった。南満州支線については清国の承諾が必要であること、日露両国が協議して戦後経営にあたるといった条項があることを指摘した。小村にしてみれば、せっかく獲得した利権を単独で手に入れられないという屈辱的な協定の内容には耐えられなかったのだろう。結局、政府部内では桂・ハリマン協定は破棄されることに決めた。
協定の完全破棄がハリマンに通告されたのは翌年(1906年)1月のことだった。前年末の日清満洲善後条約が結ばれ、そこに第三国による南満州支線への資本投下が認められないことが明記されたからである。ハリマンはなおも満洲への野心を諦めることなく、シベリア鉄道や東清鉄道の買収についてロシアに働きかけもした。1909(明治42)年にハリマンは成功を見ることなく急死する。それは彼の娘婿であるストレート・ハリマンが清国から錦愛鉄道の敷設権を獲得する直前のことでもあった。
日清満洲善後条約
日露戦争は清にとっては戦場を提供しただけの戦争だった。日露両国とも主戦場はあくまでも外国である。そこでの戦後処理には当然、主権地が戦場になった清国が大きく関わってくる。教科書も一般の知見もそこに及ばないから、この条約も知られることが少ない。これは日清戦争でも、あの悲惨だった台湾領収戦争の詳細がいまも伝わっていないこととも関係する。戦争は始めることも大変だが、終わってからの処理も大仕事だった。ポーツマス条約にもある通り、日露両国が南満州支線長春以南の権利譲渡についていくら話し合っても、主権国である清国が認めなければ国際的にはまったくの無効である。
さらには戦時中に日本の臨時鉄道監部が建設した安奉鉄道、新奉鉄道についても清国との協議が必要だった。ロシアの撤退にともなって日本が進出する。そのことは当時の国際常識でもあったが、南満州に進出する日本にとって清国との交渉は重大事であったし、今後を支える鉄道は重要なアイテムだった。
政府は10月27日、偶然にもその日はハリマンがアメリカで覚書実行延期の通告を受けた日だったが、日清交渉にのぞむ方針を立てた。
(1)南満州支線とその附属線(営口線や旅順線など)についてのロシアからの権利譲渡
(2)吉長鉄道建設のロシア権利の譲渡
(3)安奉鉄道、新奉鉄道の経営の承認
これらの鉄道関係の条件ばかりではなかった。鉄道経営の附帯として、撫順、煙台炭鉱の採掘事業を認めさせる。満洲の主要都市の開市・開放を求める。さらには鴨緑江右岸、つまり満洲側の森林伐採権も認めよということが含まれていた。それは実は清国が過去にロシアに認めていた利権でもあった。森林資源が欲しかっただけではない。森林を伐採すると道を通し、資材を運び、鉄道も建設できる。
11月2日、ここでも全権に任じられ、横須賀を出航したのは小村寿太郎であり、交渉相手の代表は袁世凱(えん・せいがい)である。袁世凱は当時、直隷総督として北洋軍閥の大物だった。1901(明治34)年に李鴻章が亡くなり後継者の地位にあった。袁世凱の主張は次の通りだった。
(1)東清鉄道の租借期間は36年でロシアと締結したが、ここまでの3年間を引き、残りの33年間とする。支線の南満州支線も同じとする。
(2)営口線は撤去。
(3)新奉線は清国に売却せよ。
(4)安奉線は日本に5年間の租借は認める。
(5)吉長鉄道は日本に借款優先権は認めるが、建設は清国があたることとする。
小村は当然、厳しい口調ではねつけた。安奉、新奉の両線については南満州支線と同じ条件で経営させること、吉長鉄道は日本に有線敷設権があることを認めよとした。25日には鉄道問題についての協議が始まった。安奉鉄道は清国も基本的に譲歩することになった。袁世凱は鉄道が商工業にも利用できるよう改良することを認め、撤兵後の2年間に限って改良工事を行なうことで合意した。改良工事が終わってからは15年間にわたって日本の経営権を認めることとなった。
延長60キロにも満たない新奉線については厄介な事があった。重要な京奉鉄道の最終区間でもあり、英国の利権も関係していたからである。1898(明治31)年に英国は清国と京奉鉄道借款契約で新民屯より東方への延長線について敷設優先権を手にしていた。小村が奉天から遼河東岸までの経営権移譲についても袁世凱が認めなかったのは、その英国との関係もあったからだった。
12月17日には鉄道関係の協議はおおかた終わった。ただし、この英国との関係がからむ新奉線についてだけは解決しなかった。そのころ国内の情勢は政府も国民の不満を抑えきれず、桂内閣は退陣することになった(21日)。おかげで新奉線問題では小村も踏ん張り切れず妥協することとなった。22日になってようやく善後条約が結ばれ、新奉線は清国に売却され改築と運営は清が行なうことになった。遼河以東の改築資金の半分を日本側からの借款とすることで合意した。
吉長鉄道問題も難航したが、結局清国の言い分を通し、清国が建設にあたることになった。ただし建設費の半分は日本の借款になる。こうして長春以南の支線管理権は日本側のものとなり、これが国策会社南満州鉄道株式会社設立の動きになっていく。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2016年(平成28年)6月1日配信)