鉄道と軍隊(18)─南満洲鉄道についての雑学
戦前日本の国土
1910(明治43)年の韓国併合により、正式の領土(統治区域)は内地・朝鮮・台湾・澎湖島・樺太に確定する。内地にはその存在が古来の日本領土であり疑うものがないものがある。
○小笠原諸島(文久元年に幕府が開拓について各国公使に通知する)
○沖縄(明治5年に琉球国王を藩王として領土であることを確認)
○千島(安政元年に択捉島を日本領土、得撫島(うるっぷとう)以北クリル諸島をロシア領土とする。「樺太千島交換条約(明治8年)」によりクリル群島、すなわち得撫島以北の18島を領土とした)
○大東島(明治18年沖縄県に編入)
○硫黄島(明治25年東京府に編入)
○魚釣島(尖閣列島、明治28年沖縄県知事に標杭建設)
○南鳥島(明治31年東京府に編入)
○沖大東島(明治33年沖縄県に編入)
○竹島(明治38年島根県に編入)
○沖ノ鳥島(昭和6年東京府に編入)
○台湾と澎湖島(明治28年の下関条約により日本領土)
○新南群島(昭和14年台湾高雄市に編入・現在、南沙諸島といいベトナム領)
このほかに租借地があった。租借地は領土に準ずる統治権がある。もちろん、契約期間中のことであり租貸国の潜在主権がある。関東州は中国本土との境である山海関の東であることから「関東」と
名づけられた。ここの租借期間は1898年から99年間に延長された(大正4年、大隈内閣の21カ条要求の内容の一部である)。また、第一次世界大戦の結果による、ドイツ帝国のもっていた膠州湾租借地もあった(大正9年から同11年まで)。
委任統治区域も存在した。いわゆる南洋群島である。これは国際連盟の委任に基づいていた。1933(昭和8)年にはわが国は連盟を脱退したが、ここでの統治は続けられた。
ほかに一部統治区域といわれる地域もあった。満鉄付属地帯の行政権をわが国が取得した。線路の周辺や鉄道施設、駅舎や駅前広場など、すべてがわが国の統治下に入った。ただし、行政権のうち、軍事・外交・裁判・警察などを除いてすべてを満鉄に行使させた。また、日本人以外の民事・刑事裁判権は中国側がもった。
租界といわれる居留地もあった。租界の複雑さは、中国の領土であり、中国の主権下にあったが、実際の行政、警察や衛生、道路や建築、課税等はわが国が行なった。警察については「領事館警察」という名称がしばしば聞かれる。これは内地の警察官とは異なって、内務省の管轄ではなく、外務省の機関だった。
1939(昭和14)年当時、諸外国との共同租界が上海にあり、わが国だけの租界が天津、漢口にあった。
内地は約38万2000平方キロメートル(以下同じ)、朝鮮が同22万1000、台湾が3万6000、澎湖島130、樺太3万6000、合計67万5000。租借地である関東州が3500、南洋群島が2100、南満洲鉄道付属地が290、総計で68万1000平方キロメートルだった。内地が全体に占める割合は約56%、朝鮮が同じく32%、台湾5%、樺太も5%、関東州0.5%、南洋群島0.3%、満鉄付属地は0.04%ということになる。
1936(昭和11)年『帝国統計年鑑』によれば、租借地関東州には内地人が約12万人、朝鮮人同2000、中国人83万4000、他外国人1000人だった。同じ年の満鉄付属地には内地人10万7000、朝鮮人1万6000、中国人24万7000、その他外国人は2000人という記録がある。満鉄、その関連会社にいかに内地人(日本人)が多く勤めていたことがわかる。
南満洲鉄道株式会社
旅順、大連を中心とする関東州は1906(明治39)年、関東都督府が統治を始めた。長官が都督(ととく)という名称であるから、当然、兵権をもった。陸軍大将もしくは中将が任じられた。1919(大正8)年には関東庁となり、行政官庁となった。軍事をもつのは関東軍司令官である。関東庁のトップは文官の関東長官という。
関東長官は関東州を管轄し、満鉄の線路を警務上取り締まり、満鉄の業務を監督するとされた。いまも旧い先人が懐かしがるのが関東での暮らしである。在住する内地人のためには、内地と同じ学校制度があり、官立旅順工科大学、同旅順高校、同大連高等商業学校などがあった。ただしこれらは文部省の管下ではない。また私立南満洲工業専門学校もあった。そして有名なのが満鉄経営の私立満洲医科大学(奉天)までもっていたことだ。
満鉄付属地の中心となるのは1192キロメートルの線路の両側62メートル程度の土地と周辺の商業用地や駅、機関庫、工場などの付属施設であった。そして、警備兵力として1キロメートル当たり3名の駐兵が認められた。この権利に応じて置かれたのが関東軍隷下の「独立守備隊」だった。襟に着けた徽章は小銃がぶっちがいにされた上に線路の断面がデザインされ、一目で関東軍の「どくしゅ」隊員であることが分かった。
行政の特徴としては進歩的な面をもっていた。付属地行政は会社の中の地方部が指導し、地方事務所を置いていた。この事務所長の諮問機関として地方委員会を設けた。1922(大正11)年から委員は公選となり、選挙権は国籍年齢性別不問、課金戸数割(行政経費の一部を醵出させた)を負担する成人で、被選挙権は25歳以上の男子だった。女性に投票権があったのである。わが国初めての
女性参政権の付与といえる。
満鉄にはどのような人が働いていたか
「外地に出る」というのは役人や会社員にとって、リスクはあったが大幅な収入増が見込まれる話だった。戦前社会というのは、現在から見たらとてつもない格差社会であり、貧富の違いがひどく大きかった。役人は官公吏ともいわれたが、その構成はひどく大勢の無学歴層と、ごくわずかの学歴所有者、そしてその中でもほんの一握りの超エリートで造られていた。
まず、学歴による区別である。昭和戦前期は大正時代の高等教育の改革で「大学令に依る大学」が増えた結果の「高等教育」を受けた人が多かった時代だった。昭和の初年頃、全国の官吏(いまでいう国家公務員とはいえ、「天皇の官吏」であるから「公僕」のような民間に奉仕するという立場ではなかった)の総数はおよそ70万人。うち、高等官である「奏任官」は1万4000人(2%)であり、「勅任官」
は1200人(0.1%)でしかなかった。あとは「判任官」と雇員、傭人という人たちで占めていた。官吏は高等官と判任官に分かれ、階級では陸海軍中将と相当官の高等官1等から同8等同少尉と相当官にあたり、判任官1等の准士官から同4等伍長・3等兵曹などにあたった。
満鉄が当然、モデルとした鉄道省が管轄する国鉄に例をとってみよう。1929(昭和4)年までは満鉄の監督も行なっていた。鉄道省の官名は独特で、鉄道監察官・鉄道局参事副参事(以上は奏任官)と鉄道手(判任官待遇)といわれた。1935(昭和10)年の数字を見ると、職員の総数は約21万8000人、勅任官25人(0.01%)、勅任官待遇9人、奏任官860人(0.3%)、同待遇者190人(0.08%)、判任官2万4000人(11%)、同待遇者6700人(3%)、雇員8万5000人(40%)、傭人10万1500人(46%)、他有給嘱託が355人となっている。平時の陸軍の兵営で歩兵聯隊の場合、将校と相当官が全体の約3%という高等官比率から見ても、鉄道という現業職場のピラミッド状の階級構成の厳しさがよく分かる。
事務系統の参事はたとえば本省の課長であり、掛長、運輸事務所長や主要な駅長が副参事だった。彼らはほとんどが(主要駅長等は稀にたたき上げもいた)高文(ほんとうは文官高等試験だが、世間ではコウブンといった)の合格者で、今も続く国家公務員1種試験通過者と比べられる。しかし、その実態は現在のそれらキャリア組とも桁違いに恵まれていた。
雇員とは中学校3年修了者、もしくは実業学校(商業・工業・農林学校など)を2年半修了した者という程度の採用条件があった。よく誤解されるが、中等学校に入るのに浪人などめったにないのが現在である。それに対して、戦前社会は学校を卒業するのも大変だったし、浪人せずにストレートに進学していくことが普通ではなかった。中学校や実業学校を中途退学する人や、高等学校や専門学校に数年遅れて入学する人も珍しくはなかったのである。尋常(6年間)小学校、高等小学校(自由履修2年)を出て、国鉄に採用され、保線現場や駅、機関庫などで働く未成年労働者も多かった。その中で成績抜群の者で選抜された人も雇員となれた。もちろん、現場の華というべき機関手は憧れの的であり、そのベテランは雇員であることが多かった。そして、鉄道手という待遇官は判任官への重要なステップだった。
事務系の雇員の最高月給は85円、傭人は日額払いで最高が駅手の1円80銭、電化区間の工手が同じく2円50銭くらいだった。それに対して、満鉄に帝大を出て採用されると初任給は80円、私立大学出で76円、専門学校(高等商業・同工業など)70円という具合である。この満鉄の初任給80円は他の一流企業と比べてもかなり高い。これを超すのは三菱合資の帝大工学部90円くらいである。
三菱合資の場合はさらに細かく分けられて、当時の超一流企業の学歴についての見方を表しているので書いておこう。
帝大法と商科大学(いまの一橋大学)80円、商科大学専門部(3年修学で学士号はない)と早・慶、神戸高商(いまの神戸大学経済)が75円、地方高等商業(彦根、小樽、横浜など)、中央・法政・明治が65~70円、私立大学専門部(3年修学で学士号なし)が50~60円、中等学校卒35円だった。昭和の初めに帝大法を出て某財閥系企業に入ったエリートの思い出話によると、初任給80円に1年間で賞与が400円だったという。もし、同じ会社に甲種商業卒(尋常小学校卒後5年修学)で入ったら、初めての給与は月額40円。しかも大卒社員は毎年10%ずつ給料が増えた。入社して5年で月給だけで120円となり、甲種商業卒はようやく60円台、ボーナスも半期で1カ月程度である。
満鉄も半官半民の組織であり、こうした学歴による区別は厳然としてあった。しかも外地勤務は特別加算がされた。高等師範学校を出た中学校教員の場合、4割の手当てが出たらしい。朝鮮や台湾、関東州、満鉄付属地などである。奉天の中学校教員は内地では95円の月給に手当てが75%ついたために月収は150円ほどになっていた。高等官待遇の内地の教頭クラスの給与だった。
同じように満鉄の職員は内地の国鉄職員と比べると、3~4割の加算がついたようだ。ただ、誰もがそうした高給に見合うだけの満足を得ていたかは分からない。じっさい、海外に赴任したいかと聞かれると、
半数ぐらいしか手を挙げないという報告もある。満洲は異国であり、気候風土も異なり、暮らしや文化程度も変わってくる。今も同じようなことがあるのではないだろうか。
関東州へのアクセスルート
なんといっても大連である。大阪商船が運行する大型客船が神戸~門司~大連を結んでいた。定員が800名にもなる5000~8000トン級の客船が10隻もあり、ほぼ毎日運航している。神戸~大連が3泊4日、門司~大連は2泊3日だった。この航路は周遊コースになってもいて、内地の鉄道省線(国鉄)と連帯運輸となっていたから、全国どこの国鉄の駅からでも、船から満鉄に乗り継ぐ場合は切符を買うことができた。
『内鮮満周遊券』や『東亜遊覧券』などが販売されていた。先に述べた満鉄特急「あじあ」は大連を毎日午前9時に発車した。大阪商船の大連航路は午前8時に大連港に到着。埠頭から駅までおよそ2キロ、満鉄はそこに専用シャトルバスを用意した。もちろん、満鉄に乗車する客は無料である。
ほかに鹿児島から長崎を経由して3泊4日で運ぶ近海郵船会社航路、鹿児島から熊本県の三角(みすみ)港を経て大連に向かう大阪商船航路もあった。どちらも国鉄との連帯航路だったので、横浜、名古屋、大阪または神戸、長崎を経て大連に向かう近海郵船は華北の天津や満洲の営口まで航路を延ばしてもいた。
次回は航空路も含めて、満洲へのアクセスルートも紹介しよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2016年(平成28年)11月23日配信)