鉄道と軍隊(17)─南満州鉄道の列車たち

特急「あじあ」

 1932(昭和7)年、「五族協和」を理想とする満洲国が造られた。まず、メインの鉄道は大連と新京(長春)の間である。距離は701.4キロメートル。内地では下関と岐阜(700.2キロ)の間に匹敵する。当時、超特急「つばめ」はそこを約12時間で走っていた。
 戦後になっても、少し前まで東海道・山陽線の寝台特急「はやぶさ」は、同じ区間を9時間55分で走っている。それよりも1時間半近い速さで駆け抜けて行った。満鉄の特急「あじあ」の速さがしのばれる。しかも、全経路を蒸気機関車が牽引し続けたのだ。
 特別急行列車を走らせようとする計画は早くも建国の翌年に満鉄の役員会で決まった。それまでの急行「はと」の所要時間10時間半を一気に2時間も縮めようという計画だった。
 編成は手荷物郵便車+3等車×2+食堂車+2等車+1等展望車の合計6両編成。定員は292名、増備車として展望室がない1等車があった。客車の全長は24.5メートル、台車は3軸であり、スウェーデン製ローラーベアリング付きで抵抗を減らし55トンの重量を支えた。その名は「あじあ」。塗られた色は淡い緑で下方には白線が1本入っていた。流線型の車体はドイツ製の高張力鋼材で造られ、
金具類をアルミニウム、マグネシウムを使って軽量化を図った。また、張殻(ちょうかく)構造といい、木造時代からの伝統で車体強度を台枠(だいわく・車体の下を支える長方形の枠)に90%をもたせていたものを、大枠と外板に50%ずつ割り振っていた。このおかげで車体重量は67トンから55トンに減らすことができた。

特急牽引機関車パシナ

 牽引する機関車は満鉄最大の旅客用機関車パシナ型である。機関車の軸配置ごとにアメリカでは愛称を付けたが、先輪2+主動輪3軸(すなわちC)+従輪1の形式をパシフィックとした。満鉄はその頭文字をとって、パシナと名付けた。同じように満鉄には貨物列車牽引用として大型蒸気ミカイ型などをもっていた。ミカはミカド、その1-D-1の軸配置は明治の昔、世界で初めて「ミカド(帝)の国」から発注を受けた形式だったから、そう名付けられた歴史がある。
 パシナは「あじあ」のために設計された。その開発決定から3分の1くらい設計が進んだところで「流線型」にされることが決まった。わが国の技術力を誇示し、新しい国家の文化的なイメージを印象付けようというものが狙いだった。欧米諸国でもこのころ、空気抵抗を意識した流線型というものが大いに流行していた。上から下までカバーをかけてしまうようなもので、当然、重量は増えた。整備点検の手間もかかった。それでも恰好のいい淡緑色のスマートな芋虫のような「あじあ」の写真を見ると、感嘆の気持ちでいっぱいになる。
 困難もあった。給炭は自動化された「メカニカル・ストーカー」である。炭水車の下から伸びた給炭管の中には回転するスクリューが仕込まれていた。機関助士による手のスコップによる投炭では間に合わないからだ。これらの設備が重くなり、その上、乗務員室も覆うカバーがある。そこで、従輪を2軸とする2-C-2(ハドソン)も検討されたが、初めてのことで心配があったためである。それを給炭装置のエンジンをテンダー(炭水車)側に移すなどをして解決することもできた。
 外形デザインも国際的な高い評価を受けた。レイモンド・ローウィーというデザイナー(煙草のピースの考案者)によれば「世界で最も美しい機関車である」とされた。先頭の外形を決めるために風洞実験も行なわれた。その結果は、近頃の新幹線のような「あひるの嘴(くちばし)」が最適と分かったが、蒸気機関車ではとても難しかった。頭を丸めた形で我慢するしかなかったが、その仕上がりは自慢していいものだろう。
 1934(昭和9)年、満鉄で設計されたパシナは自社工場で3両、納期から9両は内地の川崎車輛で造られた。同じころ、わが国鉄もC53型が1両、試験的に流線型カバーを付けた形に改造された。鉄板を叩きだし、微妙なカーブをつくる手間を省いたために、妙に平面的な雰囲気ばかりでデザインの冴えは見られない。その後のC55型も同じである。
 パシナの動輪直径は2メートルもあった。いま、東京駅構内の動輪広場にある国鉄最大のC62型機関車の動輪の直径は1750ミリである。当時のアメリカ技術では動輪直径1インチで1マイルの速度ということから考えると、2メートルの動輪では時速127キロメートルが可能ということになる。
 パシナのキャブ(運転台)搭乗体験者の話では最高運転速度は時速110キロとされていた。水平区間では常時100キロ、110キロに達し、試運転では135キロも出したという。当時の日本の技術は主にアメリカを志向していたが、復活ドイツの機関車技術にも目を向けていた。ドイツの最新鋭機関車は、いまも鉄道模型マニアでは人気の01型である。先輪直径は1メートル、時速130キロを出していた。パシナも01と同じく2気筒、動輪は2メートルだが、ボイラーの直径、伝熱面積もパシナが大きかった。
 火床面積は01が4.41平方メートルに対してパシナは6.25平方メートルで大きく引き離している。ボイラー圧力は01の方が0.5気圧高いが、総合的にはボイラーの発揮する力はパシナが大きい。シリンダーも大きく、引張力も8%ほど大きかった。軸重は20.25トンの01に対しパシナは24トン。牽引力を発揮するには軸重がある方が有利である。仕様面からすればパシナは一回りも大きい強力な機関車だったことは明らかである。

「あじあ」の原動力パシナ

 1936(昭和11)年満鉄発行のパンフから主要な部分を抜粋する。現代語に直し、漢字も変えてみる。

『全長25.7メートル、総重量202トン、動輪1軸上24トンで、日本最初の機関車の総重量23.5トンと比べれば、いかに大きいか分かるだろう。動輪の直径2メートル、全高4.8メートル、全幅3.2メートル、この雄大な機関車が砂塵を巻いて走るときの風圧を避けるため、怪異な流線型の覆いが施されている。気缶圧力は従来のものより10%を高めて、15.5トン毎平方センチメートルとし、細管式を用い、過熱温度を上昇し、熱効率を高め、燃料の節減が図られている。 最大実馬力は2400で、この容量を作るには多大の重量を要し、線路の重量制限を超過することとなるので、汽缶胴はニッケル鋼板、その他の箇所には軽金属を利用し、できるだけ重量を軽減し、トン当たりの馬力を増加した。その他、技術的立場より、種々の改善が施されており、なかんずく材料及び部分品のほとんどが国産品でできあがっていることは前述の通りである』

と誇らしげに書いてある。

「あじあ」のエピソードあれこれ

 1941(昭和16)年10月から満鉄の料金は1キロメートル当たり1等6銭、2等4銭、3等2銭1厘となった。18年4月からはそれぞれ5厘ずつ改定値上げされた。たとえば大連-奉天間は1等28円、2等19円、3等10円70銭になった。大連と新京の間は、それぞれ48円85銭、33円25銭、18円85銭となっていた。およそ1円を2000円と換算すると、いまの10万円弱、6万7000円弱、3万7000円弱と考えるのも興味深い。
 もちろん、「あじあ」に乗るには特急料金が請求された。500キロまで1等6円、2等4円、3等2円と低減された。800キロまではそれぞれ8円・5円・2円50銭である。普通急行料金はこれより安い。300キロまでは、1・2・3等、それぞれ2円50銭・1円50銭・75銭といったところである。
 車両は全部、エアコン完備だった。夏は外気温が35℃でも26℃、零下も当然の冬でも車内は18℃に保たれるようになっていた。客車の窓は完全に締め切りで、高速運転中の機関車からばい煙や粉じんが飛び込むこともなかった。このような空調装置を備えた列車は世界的にも珍しかった。
 一列車あたりの定員がわずか288名である。現在の新幹線は16両編成で1323名だから切符の入手は大変だった。このため発着駅には1往復しかなかった当日の「あじあ」の特急券をプレミアム付きで売るダフ屋も現れた。入場券だけを買ってうまく列車に乗り込み、車内で課徴金を取られて強制下車される人もいた。完全定員制をとっていたからこそである。「あじあ」だけは満鉄総裁でも特急券を買わなければ乗車できず、うそか本当かはわからないが、例外は関東軍司令官だけだったとか。
 次回はさらにエピソードを加え、満鉄の人員・貨物輸送の状況などを書こう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2016年(平成28年)11月9日配信)