鉄道と軍隊(16)─弾丸列車計画/機関車と客貨車

機関車の軸の数の話

 弾丸列車計画の蒸気、電機機関車はもちろん完全に国産だった。初めての標準軌間に使う機関車である。初めて英国製の小さなタンク機関車を見て、「陸蒸気(おかじょうき)」と驚いたのが1872(明治5)年のことだった。それからわずか半世紀、国産機関車は設計・生産され実用化されていた。
 大陸に渡り、外地の線路を狭軌に変えて戦った。ロシアの東清鉄道はアメリカなどの標準ゲージより広い5フィートもあった。そのままでは機関車が走れないので、上陸した日本軍は鹵獲したロシアの貨車を手で押すしかなかった。
急いで欧米に機関車を発注しても時間がかかる。経費も増える。そこで2本の線路の片方を外し、間隔を狭くして3フィート6インチ(1067ミリ)に変えた。しかし、これにも無理があった。ポイントはスムースに働かず、ターンテーブルでも重量が片方に偏って脱線事故なども多発したらしい。
 また、厳しい寒気が訪れる冬の間、それまで日本人が経験したこともない事故があった。機関車の水槽や給水パイプなどが凍結、破裂もした。これらもロシアの技術を盗むことで解決してきた。それにしても、機関車の国産とは難しいものだった。
 蒸気機関車を形式別に分けることは知られている。機関車には小さな車輪と大きな車輪がある。まず、小さな先輪(せんりん)、大きな動輪、キャブ(運転台)の下にある、やはり小さな従輪(じゅうりん)になる。
これを数字とアルファベットを組み合わせて表示する。たとえば、1-C-1といえば、先輪が1、動輪は3つ、従輪が1つということになる。わが国最初の陸蒸気である1号機関車は1-Bである。
 1911(明治44)年になると、6700型といわれる国産機が初めてできた。これは従輪がない2-B-0というものだった。この時代、狭軌の鉄道では強力な機関車を造るためには、従輪をつけて大きな火室をもつボイラーを載せるのが常識になっていた。
従輪がないということは、つまり火室が小さい、石炭を燃やす火床が狭いということである。火床が小さくては十分な火力が得られない。蒸気を作りだす力が弱いということになり、それだけ非力な機関車ということになる。
 これからは齋藤晃氏の『蒸気機関車の挑戦』の記述に多くを負うこととする。日露戦争後に当時の「官鉄」の基本方針は旅客用には2-B-0、貨物用は1-D-0だった。
それというのも、当時の設計陣は従輪を付けると動輪にかかる重量がそれだけ減ることを問題にしていた。ちなみに車体の重量を軸数で割って「軸重」というが、これが機関車の牽引力に当然関わってくる。
軸重が重ければ、それだけ線路への粘着力が増えるというわけだ。その代わり軸重が増えれば、それだけ頑丈な路盤が必要になるし、レールの規格(1メートル当たりの重さ)も上げなくてはならない。
そんなこんなで、とにかく機関車の重さが同じなら軸を増やすのは軸重が減るということで、機関車の牽引力が小さくなるということだ。

機関車のボイラー

 ボイラーは前に煙突があり、後ろには火室がある。火室は運転席に突き出していて、蓋を開けて火床に石炭をくべる。燃え上がるためには空気の流れがあり、後ろ(火床)から前に向かって登り坂のように傾いていることはすぐ分かる。
すると、その最も下の端は動輪の中心線近くにまで下がる。すると、従輪がない機関車の場合、火床の中の火格子は動輪の間、つまりフレーム(枠組み)の間に落としこむことになる。
 この車輪の間の幅を決めるのは線路のゲージである。車輪幅が1067ミリしかないから、火床の幅がせいぜい70センチくらいしかとれなかった。すると2.2平方メートルの火格子をつくれば長さが2.7メートルにもなってしまう。
そんなに奥深いと、機関助手がどれほど投炭訓練をしようと奥まで石炭が届かせるのが難しい。それが標準軌(いわゆる広軌=1435ミリ)になれば、火床の幅は107センチになる。そうなれば奥行きは2メートルですむ。また、長さをそのまま2.7メートルにしておくと、火床面積は5割増しになり、かなり高出力になる。
 これが従輪をつければ、火格子を広くすることができ、ひいては大きなボイラーを載せることが可能になる。狭軌の機関車でも、従輪を付けることで(ひいては軸重が分散されても)大きなボイラーを付け、高出力を出すことが可能だった。
 1917(大正6)年には、横浜線(東神奈川~八王子)の原町田と橋本の間を3線化した。標準軌に変えたタンク機関車B6を走らせてみた。
火室は幅広になり、ボイラーのパワーは1.4倍になった。実験は成功だったが、1919(大正8)年には、国鉄は狭軌のままでゲージを変えないという大方針を立てた。やはり国力の限界というか、改めての鉄道設備の全国的な大改築をするほどの金がないということだった。
 わが国の機関車は狭軌鉄道の中で従輪を付けて出力を上げる方向に進んだ。C53、C54、C55という大型テンダー機関車(炭水車付き)が次々と投入されていった。

弾丸列車計画の機関車まで

 北支事変(後、日華事変)が勃発した1937(昭和12)年7月の近衛内閣の鉄道大臣は中島知久平である。
中島は海軍機関学校出身の機関科将校だった。航空機を国産化するという熱意に燃えて、機関大尉のときに予備役に自ら入った。中島航空機をつくった英雄である。鉄道省の使命は大陸との連絡であると言明し、大陸に向かう東海道山陽の幹線輸送力増強の方針が打ち出された。
 陸軍は当時、まだゲージの分断化を嫌っていた。狭軌で輸送力が少ないから増やせというより、全国の鉄道がバラバラの規格で一貫化しないことの方を恐れたのである。しかし、東海道と山陽に関してだけは、なんとか広軌による新幹線の建設が企画されるようになった。
 客車はアメリカのそれを参考にした。すでに南満州鉄道ではアメリカ製の客車が使われていた。長さは25メートル、郵便車と手荷物車は22メートルと短くされた。これは満鉄の特別急行「あじあ」の反省から生まれたという。どちらも中はがらがらである。それに25メートルはもったいないという理由からだ。
 齋藤氏は要目を著書に載せている。それによれば、1等展望車(イテ)は空車重量50トン、定員19人、1等寝台(イネ)は同じく52.5トン、20人、2等座席車(ロ)同40トン、同80人、2等寝台車(ロネ)同52.5トン、36人、3等座席車(ハ)40トン、96人、3等寝台車(ハネ)43.5トン、66人となっている。
他に食堂車(シ)同50トン、36人、手荷物車(テ)38.5トン、荷物15トン、郵便車(ユ)37トン、郵便物17トンである。
 編成は特急列車(昼行)で、ニ+ハ×5+シ+ロ+イテの9輌で牽引重量425トン、乗客357人(定員の60%乗車)。夜行特急の場合はニ+ハ×3+ハネ+シ+ロネ×2+イネの9輌、同450トン、同270人である。これに普通急行、それにも昼行、夜行がある。そして夜行急行があった。
普通急行はいずれも12輌編成、夜行急行は15輌(732トン・定員524人)というものだった。満鉄の「あじあ」が6輌編成だったことからみても実現したら、当時としても世界的な長大列車だった。
 東京と下関間は特急で9時間、急行で11時間、夜行急行で12時間という。この夜行急行はつい以前のブルートレイン、寝台特急「富士」や同「さくら」よりもやや速い。蒸気機関車が主力だった時代にとてつもない記録だったことは疑えない。
 当時の国産大型機といえば、有名な満鉄の「パシナ」型だった。ただ、最高速度は135キロ、運転速度は110~120キロ程度だったので、直線の平らなところでは150キロで走りたかった「弾丸列車」からみれば力不足である。
 ところで、準国鉄のような南満州鉄道(満鉄)の機関車はどのように育っていったのだろうか。1911(明治44)年には大連郊外に車輛工場を造った。1914(大正3)年からは輸入したアメリカ製の機関車をコピーしながら独自で製造を始めた。この国産化前までに輸入された機関車は257輌らしい。
 内訳は208輌が米国、45輌が英国、特殊なクレーン機関車4輌がドイツ製となっていたという。形式で分けると、1-D(先輪1軸・動輪4軸)の貨物用機関車が108輌(うち40輌が英国製)と最大だった。
近距離区間用の1-C-2のタンク機関車が69輌、混合列車用の1-C-1が35輌、軽量の旅客用2-B-0が4輌、旅客用の2-C-0が30輌、急行用の2-C-1が7輌あった。ほかクレーン機関車である。こうしてみると、輸送の主力は貨物だったことがわかる。
 急行用の2-C-1(軸配置の愛称はパシフィック)とはいえ、動輪の直径は1753ミリでしかなく、ボイラーも細かった。それが面目を一新したのが1919(大正8)年の「パシニ」型の国産化成功である。
 次回はこの満鉄の機関車の機構や技術を調べてみよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2016年(平成28年)10月26日配信)