鉄道と軍隊(21)─弾丸列車と幻の機関車

機関車の開発

 1940(昭和15)年といえば皇紀2600年、神武天皇が位に就かれて2600年という。ゼロ戦がどうして零式艦上戦闘機かというと、この年に制式化されたからだ。2600の末尾をとった。それまでは日本号を使って、明治38年式小銃とか大正11年式軽機関銃などといっていた。それが大正天皇の皇太子が天皇になられると(大正15年=昭和元年)混同するおそれがあり、皇紀を採用したものである。
「弾丸列車」は予算の裏付けを受けて具体的計画が立てられた。着々と準備は進み、英米蘭を相手にした戦争が始まって4カ月、ついに新丹那トンネルの掘削が始まった。すでに15年の記念式典にあわせて計画された東京オリンピック。そのメイン・スタジアムの建設でも必要な鉄骨が集まらなかったという状況でよく建設に着手したものだ。工期は15年と見積もられた。当時の国鉄内の気分では、東海道だけはとりあえず開通しても、さらに前途は長い、機関車製造はそう急ぐことはないというものだったらしい。当時の鉄道記者の思い出である。
 当時の日本内地の大型蒸気機関車といえば、3気筒のC53と2気筒のC59だった。C59は最新の機関車だったが、20年前に製造されたC51のボイラーを大型化しただけだった。これは大きな怠慢だった。欧米では、この20年間で機関車の製造技術は大きく進歩していた。1925(大正14)年にアメリカから輸入したC52くらいしか外国技術に触れたことがなかった。
 では満鉄のパシナは参考にはできないか。でも最高速度は時速135キロでしかない。ふつうの運転では120キロ程度が最高である。水平で直線の区間では150キロで突っ走りたい、そういう新幹線用機関車には遅すぎる。その頃、満鉄にはパシハという機関車もあった。1930年代の後半は世界的に機関車技術が進歩した時代である。国内の狭軌鉄道と異なって、標準軌間を使っている満鉄はそうしたことに敏感だった。

満鉄のパシハ

「あじあ」は当時としては背伸びした列車だったから、パシナを標準的な急行用の機関車にすることはできない。すでにパシコはあったが、それを増産するより新しい技術で新しい急行用機関車を製造しようとパシハを開発した。動輪直径は1850ミリと小さくし、ボイラーはパシナとパシコの中間の大きさとし、輸入鋼材を使わなかった。ボイラーの圧力もパシナより1平方センチあたり1キロ下げた。
 ただし、この機関車パシハには技術的なハイライトがあった。それは動輪ばかりかすべての車軸の軸受けにローラーベアリングを装着したことだ。今では誰もローラーベアリングなど珍しくもないが、当時はその小さな歪まない鋼鉄の球を造るのは大変だった。これの採用で、アルコ社で造られた機関車は2D2の軸配置で動輪直径は73インチ(1854ミリ)で、最高速度時速142キロを出した。いままでの常識では直径1インチ1マイルだった。73マイルとは約117キロである。それが30キロ近くもスピードが上げられたのは軸受けのおかげだった。
 ローラーベアリングは軸を小さな鋼鉄球で取り囲む。抵抗は減り、軸を軽やかに回すことができる。1937(昭和12)年にこれを採用したのはアメリカだが、それと同じころに満鉄はこれに飛びついた。ヨーロッパ諸国より早い実施だった。
 ところが大変なのはこのガタが許されない精密さだった。足回りの工作精度をとにかく上げるしかない。動輪の軸の間隔と、動輪どうしを結ぶ鉄棒、カップリング・ロッドの長さはまったく一致させるしかなかった。
合わなければ回転がぎくしゃくしてしまう。当時のわが国の工作精度は一般にひどく低かった。まともな工作機械は高価だったし、検査器具にも大枚をはたこうという気持ちもあまりなかった。ガタのきたような中古プレス機や同じような旋盤を欧米から買い付けてきていたのだから、仕方もない。
 とうとう第1と第3動輪のクランクピンにはローラーベアリングを使うことを諦めることにした。少しのガタなら適当な遊びを作っておいて、そこで吸収するためである。どうにもならない「貧しさ」がわが国技術の底にはあった。同じように戦車の砲塔を旋回するためには、このローラーベアリングが最もいい。ターレット(砲塔)の下部を支える円筒形の受けはベアリングが最適である。軽く操作することができる。これがわが国の戦車にはできなかった。代わりに丸い鉄材のコロを敷きつめた。ボールに比べると工作は容易だが、どうしても重くなるし、摩擦も増える。人力で回転させる軽戦車の砲塔はコロで支えられていたのが実態である。
 それでもパシハは成功作だった。航続距離も大きく伸びて、860キロも走り続けることができた。それまでの機関車は平均しておよそ300キロを1日で走った。860キロといえば東京と広島間である。パシハは17両が造られ、急行「はと」などを牽引して満洲を駆けた。
 国鉄の技術者たちは当然、満鉄に資料を要求した。1.85メートルの動輪にローラーベアリングを使う、あるいは2メートルの動輪にこれまでと同じにプレーンベアリングを使うか。どちらが良いのかといったことだけでも大変な価値があった。

巨大動輪とドイツの「05」

 齋藤充氏の『蒸気機関車の挑戦』によれば、動輪径を検討したメモがあるという。それを参照しよう。1750ミリの動輪をもつC53が時速95キロを出した時と、2メートルの動輪径をもつパシナが時速110キロを出した時の条件をそのまま150キロで運転した場合にあてはめてみたという。すると、回転数をそのままにして必要とする動輪の直径は、それぞれ2760ミリ、2720ミリとなった。どちらもおよそ9フィートである。それほどの大きい動輪は歴史上でも1台しかなかった。ゲージは7フィート(1778ミリ)という超広軌である。大きな1軸だけの動輪の間にボイラーが挟まれているという形式だった。それを近代蒸気機関車の動輪の上にボイラーが載るといった形にしたら、とてものことに安定感など得られるわけもない。
 このころドイツには「05」といわれた高速機関車があった。ベルリン-ハンブルクの間、約290キロを5両の軽い客車を牽いて平均速度120キロほどで走った。連続で出せる高速は時速140キロだった。この機関車の動輪直径は2300ミリ。これから換算すると、150キロを出すには2460ミリの直径が要るとなった。同じころ、日本と同じく狭軌(1067ミリ)の南アフリカにも大型高速機関車があった。その動輪直径は1830ミリで、それを標準軌に換算すれば2460ミリとなる。そこから新しい機関車の動輪直径は2450ミリとしようと、いったんは決まったらしい。
 しかし、実際に残るデザイン図を見る限り、動輪直径は「05」と同じ2300ミリになっている。「05」とはどんな機関車だったか。1930年代の初めにはドイツでは「01」型が走り始めた。最高速度は130キロである。1932(昭和7)年にはドイツ国鉄当局はメーカーに対して、250トンの列車を牽き最高時速175キロを出す機関車の計画を出すように要求した。「05」はその答えの1つだった。エンジンは3気筒、動輪直径2300ミリ、軸配置は2C2、ハドソンと呼ばれた形式でボイラーは20気圧という強力さである。
 1936(昭和11)年から「05」が牽く特急が走り始めた。4両の軽量客車と食堂車の5両編成で列車は平均時速約120キロで走った。蒸気機関車が牽引する定期列車の速度記録は英国からドイツ
に移った。最高運転速度は150キロで、最高速度は175キロといわれた。最高速が速ければ運転時刻が遅れても途中で取り返すこともできる理屈だ。これがさらに最高速度200キロを出すように命令された。ドイツの国威発揚である。そして、英国からは疑わしいと抗議されたが、200.4キロというきわどい数字を残した。

HC51、日本の「05」

 Hというのは新幹線を表す。50以上は旅客用の機関車の分類である。軸配置は2C2のハドソンである。3気筒エンジンを積んだ。
 このHC51はドイツの05に比べると、要求されたものはいささかきつかった。列車の走行距離がせいぜい300キロの05と、1000キロ近いHC51、05は列車重量が250トンだったのにHC51は450~700トンである。走行距離を伸ばすのはテンダー(炭水車)を大型化して多くの石炭と水を積めばいい。また、停車回数を増やせばいい。列車重量を増やすには、牽引力を増やすことで対応できる。つまりパワーアップである。
 軸配置は05もHC51も2C2のハドソン、3気筒、ボイラー圧力は20気圧、動輪直径は2300ミリとまったく変わらない。牽引力を増やす工夫は大きさである。軸重、つまり全体の重量を車軸の数で割ったものだが、05の19.5トンに対して28トンとかなり大きい。満鉄のパシナも24トンだったからさらに重い。3気筒のシリンダーも大型化している。05の直径450ミリを570ミリにし、ストロークも660ミリから700ミリへと太く、長くした。容量はおよそ1.7倍である。ボイラーもこれに対応してアメリカ型の燃焼室付き、火床面積でも1.7倍、伝熱面積で1.53倍、過熱面積で1.83倍ととにかく力が出るようにすべて大きい。
 それらを支えるのは炭水車(テンダー)である。6輪のボギーで石炭20トン、水50トンを積む。これまでの機関車の2倍以上あった。運転時の重量は機関車160トン、テンダー117トンに達し、合計277トンはドイツの05の1.3倍、わが国最大のC62の2倍以上になる。
 計画書類と図面しかないのでこれ以上の詳細は分からない。たとえばローラーベアリングである。工作上の難しさはパシハで知られていた。しかも、アメリカでもドイツでもプレーンベアリングでも十分、140キロや150キロといった高速運転は実現している。
 高速運転の問題は動輪の回転数である。しかも左右両方のシリンダー(2気筒)、3気筒なら3つ目が車体の中央に置かれる。回転数が上がることは、それらすべての中で激しくピストンが動くことだ。ドイツの01型は時速130キロで毎分345回転、05では150キロで同346回転である。これに対してわが国のC59で時速95キロに同190回転、満鉄のパシナで110キロ同292回転という経験しかなかった。
 パシナの高速運転実験では速度136キロで回転数は360に達した。すると激しい震動と車体のねじれがあったという。これを克服するには、動輪の軸受け、ピストンやバルブギア(これらは往復運動に関わる)、そして回転運動にするクランクロッドなどの工作、設計などで難問があった。発揮する力が大きくなればそれだけ、車体、車台(フレーム)にかかるトルクや応力も増えてくる。経験もない。見本も少ない。技術陣の意気は高かっただろうが実際のところ、製造、運転になったときにどれほどの物ができただろうか。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2017年(平成29年)1月11日配信)