鉄道と軍隊(13)─トンネルの話─

戦前鉄道トンネルランキング

 今もあるダイヤモンド社が1936(昭和11)年に発行した旅行ガイドの中に当時のトンネルランキングがあるという。これらのトンネルは大半が峠の下を貫通している。わが国のような山国では汽車の線路は等高線に沿って走る。川に沿い、山裾をめぐり、少しずつ高さを上げていった。それでもいつか峠を越えることになる。
 そうした峠越えのトンネルの前後はたいていが急勾配である。もうこれ以上、登れないというところから一気に隧道を穿っていくというのが戦前の方法だった。いまのように長大なトンネルを掘る技術も資金もなかったからである。

上越線の清水(しみず)トンネル(9702メートル)

 上越線は上州(上野国=群馬県)高崎から、越後(新潟県)長岡までの幹線である。その開通まで高崎から線路は西に向かった。江戸時代の中山道である。難所の碓氷峠を越えて軽井沢、上田などを通り信州(長野県)へ通じ、そこから越後へ北上したのが信越線。それを短縮して一気に新潟県に出るための路線になる。
 この清水トンネルによって、それまでの上越北線と南線がつながった。これが1931(昭和6)年のことで、従来、東京から新潟まで長野経由で11時間余りかかっていたものが7時間少しに短縮された。しかも、峠の釜めしで有名な横川と軽井沢の間の碓氷峠のアプト式を使わなくてすんだ。この輸送量の増大はたいへん有り難いことだった。勾配もゆるく、おかげで長大な貨物列車も走らせることができた。
「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」で始まる川端康成の『雪国』に登場する上越国境のトンネルがこの清水トンネル。この長いトンネルを知っていても前後に大きなループ線があることは案外知られていない。螺旋(らせん)を描くような鉄路をループ線というが、1982(昭和57)年に上越新幹線が開通してから馴染がなくなった。同67(昭和42)年に複線化された時、下り専用で新清水トンネルが掘られた。これは13.49キロにもなる長いものだが、上り専用となった旧来の湯檜曽(ゆびそ)ループは残っている。ループ線は国内では珍しい。
 興味深いのは、東京湾にある「ゆりかもめ」である。レインボーブリッジは夜の眺めも素晴らしいが、その高さは半端ではない。下を大型船が通るため(海面から50メートル)だが、「ゆりかもめ」はその高さに取りつくために一周するという路線になっている。
 長大なトンネルがあることは電化を促進させる。煙にまかれる乗務員、機関士と機関助士の苦労は並大抵ではなかった。熱気と熱い煙で気を失ってしまうこともあった。思い出話の中に、あまりの苦しさに後部の炭水車の石炭の中に顔を突っ込んだというものがある。冷たい空気がわずかでも石炭の隙間にあったからだそうだ。上越線も水上と石打にはそれぞれ電気機関車が待機して、トンネル内はこれが牽引した。

丹那(たんな)トンネル(7804メートル)

 前にも書いた静岡県熱海(あたみ)から函南(かんなみ)に抜ける丹那トンネルである。箱根火山のふもとを通る難工事。しかも地上の丹那盆地は地下水がみなトンネル内に流れ落ち、異常な渇水に見舞われた。しかし、三島までの距離は12キロも短くなり、何より最大勾配が10パーミル(1000分の10)に抑えられる。もちろん機関車は電機であり、牽引出力は2.5倍から3倍にもなった。補助機関車の付け替えも不要になり、時間短縮も30分、経費の節減もできた。難工事については詳しくは前回の記事を参照されたい。

笹子(ささご)トンネル(4656メートル)

 新宿から走り出す中央本線は武蔵野の平野を直線で走り抜ける。立川から八王子、高尾と江戸時代の甲州街道に沿って線路は敷かれた。もともとは東京と京都を結ぶ大幹線とする予定だったが、山また山の難工事が予想されたことから、東海道が主流になった。
 難所は笹子峠である。江戸時代でも荷車も通れず、人がようやく越えられる、そんな難所だった。しかし、わざわざ坑口近くに水力発電所を建て、アメリカから輸入した掘削機を動かし、ズリ(山を掘って出た土砂)を運ぶのにも電気機関車を使い、1902(明治35)年に完成した。着工は1896(明治29)年である。信州や甲府からの生糸を大量に短時間で運ぶことができるようになった。

石北(せきほく)トンネル(4329メートル)

 北海道の石狩国と北見国を結ぶ石北線の国境トンネルである。北海道は地名の名づけ方が先住民の言葉にルーツがあるもの以外は困惑させられない。他にも石狩国と十勝国を結べば「狩勝(かりかち)峠」などが分かりやすい。このトンネルができるまでは、札幌から網走に行こうとすると大変だった。まず滝川から根室本線に乗り換え帯広に行き、池田で網走本線に乗り換えて北上するというコースだった。それが旭川から北見(当時は野付牛と言った)へまっすぐに北上できるようになった。最短でも13時間半かかったものが、トンネル開通後は9時間52分で行けるようになった。

猪鼻(いのはな)トンネル(3845メートル)

 四国には大きな脊梁山脈が走っている。讃岐(さぬき)平野(香川県)の丸亀(まるがめ)・琴平(ことひら)から吉野川沿いの池田へ出る阿波街道が讃岐と阿波(徳島県)の国境を越えるのが猪ノ鼻峠である。その峠の真下を貫通するのが猪鼻トンネル。1929(昭和4)年に開通した。

第6位 冷水(ひやみず)トンネル(3259メートル)

 九州の石炭産出地筑豊炭田の中を貫流する筑豊本線にある。筑前国(福岡県)と豊前国(大分県北部)を結ぶ鉄路である。筑豊炭田の石炭を九州南部、西部に運ぶために建設された。八幡製鉄所や若松港(いずれも北九州市)に石炭を運ぶことがメインだったために、1901(明治34)年に直方平野の南端の町長尾(現在は桂川・けいせん)まで開通した。その後、1929(昭和4)年になってようやく、このトンネルができて、原田(はるだ)まで開通する。北九州市の折尾から原田まで鹿児島本線ならば67.8キロ、対して55.3キロと12キロ余りも短縮した。
 炭鉱が力を失うと博多を通らないだけに優等旅客列車も走らせにくくなった。昭和60年までは新大阪と佐世保の間を結ぶ寝台特急「あかつき」が走っていたが、いまは完全なローカル線になっている。この路線は江戸期の長崎街道に沿っていた。長崎に到来した南蛮貿易や鎖国下のオランダ貿易の品々が運ばれたルートでもある。幕末のオランダ医師、シーボルトの江戸への紀行もこの道を通ったという。

第7位 欽明路(きんめいじ)トンネル(3117メートル)

 岩国(山口県)から徳山の間で山陽本線は海岸線に沿って走り柳井(やない)を通っている。1934(昭和9)年にこれを短縮するために岩徳(がんとく)線が建設された。欽明路トンネルの掘削のおかげである。以後、山陽本線はこちらになった。欽明路峠は、「きんめいじだお」と読む。トンネルの東口になる柱野(はしらの)は江戸期の山陽道に面した市場町だった。
 岩国と櫛ヶ浜(くしがはま・徳山の東隣)の間はそれまでの65.4キロから43.7キロと3分の2になった。しかし、この長いトンネルの機関車の煤煙問題で戦時中の昭和19年には旧線が本線に戻り、岩徳線に格下げされる羽目になる。今尾氏によれば、戦時中の輸送力増強を望む声から、新線にもう1本のトンネルを掘るより、旧山陽線を複線化した方が経費も安く済むといった事情もあったらしい。
 トンネルの話題をさらに次回も進めたい。経済と戦争は大きな関係があり、さらに経済と鉄道は密接につながっていた。次回は呉線なども紹介しよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2016年(平成28年)9月14日配信)