鉄道と軍隊(31)―戦時下の鉄道(5)青函・稚泊(ちはく)航路の末路

青函航路の空襲

 1945(昭和20)年6月28日、よく晴れた日、津軽海峡一帯を偵察していったアメリカ機がいた。青函航路上空ばかりでなく沿岸の地形や港湾施設もカメラに収めていったらしい。この結果が、およそ半月後である。
 7月14日、函館の街は突然の空襲を体験する。生々しいインタビュー記事がある。筆者は高名なルポライター鎌田慧氏。『鉄道員物語』の中の「海峡の罐焚き」という記事である。一部を抜粋させていただく。
 語り手は昭和18年4月に「札幌鉄道教習所函館船員養成所」の1期生だった。航海科と機関科に分かれ、この証言者・高橋氏は機関科生徒である。高等小学校を出ると入所した。寮生活で旅館に合宿、そこから行進して舟町の養成所まで通学する。連絡船は国鉄の管轄で、彼らは他の乗組員と同じに国鉄の傭人だった。日給は1円だったという。
 授業は機関部の教育が7割、一般船員教育と軍事教練の毎日である。「貨物はほとんど石炭だったもんです。北海道の石炭を中央にはこぶ青函連絡船は大動脈だ、これを切られれば重大事だ。外地にいる軍人以上の使命がある、とよくいわれました。客船はわたしがはいったころ4隻だった。貨物船はそのあとどんどん増えて、8隻になりました」
 非番で寮にいた高橋氏たちは突然の航空機の音に驚かされた。朝9時だった。東の方から飛行機がやってきた。空襲警報もなかったから、みな味方のものだと思い込んだ。手を振ろうと寮から飛び出したら、バリバリっという音がして市電通りが掃射された。「敵だ!」と叫んで、みな食堂のテーブルの上に畳を積んで、その下にもぐりこんだ。
 ここでは危ないというので、函館公園に行ってコンクリート製の橋の下に隠れた。あっちこっちで爆弾が炸裂する音がした。真っ黒な煙が上がり、松前丸が攻撃されていた。
 最初に沈没したのは貨物船の第4青函丸である。客船の4隻、翔鳳丸、津軽丸、飛鸞(ひらん)丸、松前丸も沈み、貨物船の第2、第3、第4、第10青函丸も海底に横たわった。第1、第7、第8青函丸以外はみな手ひどい被害を受けるか沈んでしまった。空母から発進した艦上攻撃機、爆撃機、戦闘機のべ800機による波状攻撃だった。
 翌15日には生き残った第1青函丸もブリッジだけが海面上に見える姿にされた。青函連絡船はこうしてほぼ全滅した。8隻が沈没し、2隻は擱座炎上、残る2隻(第7、第8青函丸)も中破して航行不能になった。殉職した連絡船乗組員は150人といわれる。犠牲者は全部で死者425人、負傷者は72人という資料もある。

集められた船舶の運命

 大動脈の修復はされなくてはならない。稚内と樺太大泊港を結んでいた亞庭丸(あにわまる)、宗谷丸も青函航路に投入された。また、前回述べた関釜連絡船から景福丸、昌慶丸、壱岐丸の3隻も青森港に集結を命じられた。
 ところが、その集結も簡単にはいかなかった。当時では鉄道連絡船は、国内でも珍しいほどの大型船だったので、小さな漁港などでは燃料や水の補給が難しかった。地方港にせっかく入っても、「連絡船が見つかると必ず空襲があるから」と出ていってくれと港湾当局から拒まれる始末だった。寄港地で燃料や水・食糧などが調達できなければ船はさまようしかない。
 出航準備に手間取り、7月28日にようやく島根県大社港から隠岐の島へ向かった天山丸、景福丸、対馬丸は航海中に米機に発見された。天山丸は攻撃を受け沈んだ。この同じ日、京都府の宮津港で回航準備中の昌慶丸も空襲により海底に着座する。こうして沿岸を夜間航行を続けるなどの苦労をして函館にたどり着いたのは景福丸と壱岐丸の2隻だけにすぎなかった。しかも、それは8月の20日と22日になった。平時なら2日間の行程を2週間以上もかかっての結果だった。
 亞庭丸は8月10日に艦上機の攻撃で沈没した。朝鮮の羅津にあった対馬丸は機雷に触れた。航行の自由を失ったのが10日、ソ連軍侵攻の知らせを受けて自沈したのが13日である。こうして関釜・青函・稚泊の3大定期航路は終焉の時を迎えた。敗戦の玉音放送の2日前のことだった。

稚泊航路

 いまはロシアによって占領された樺太の南半分の中心都市は大泊(おおどまり)だった。稚内と大泊を結ぶ定期航路は砕氷貨客船亞庭丸(1927年から)と同宗谷丸(1932年同)によって運航されてきていた。先の函館空襲で亞庭丸は攻撃は受けたもののかろうじて修理が完了、青函航路に就役していたが、8月10日、米軍機の爆撃によって青森港内で炎上沈没した。
 この航路は8時間で北海道と樺太を結んでいた。1940(昭和15)年10月から昼間しか走らせなくなった。浮遊機雷を発見してからである。昭和17年以降になると、米軍の行動も活発になり、潜水艦も見られるようになった。公務による旅行以外は禁止され、運航時刻を非公開にするなどの措置も取られた。
 悲惨だったのは昭和20年8月9日以降である。知られているようにソ連軍の不法侵攻があった。有効期間内の中立条約を一方的に破棄したソ連軍。当然、樺太国境を越えて進撃を始めたのである。住民たちは内地への避難を望み、宗谷丸は稚内へ人々を運んだ。20日ころには避難民が続々と大泊港に詰めかけ、この輸送には軍民共同して最大限の努力が注がれた。
 最後の日本船航行は宗谷丸だった。連合国司令部は23日に日本船の航行を全面的に禁止したのだ。この日、宗谷丸は定員の6倍にもあたる4500名もの乗客を乗せて大泊港を22時に出航した。翌日24日の早朝に稚内港に入った。これで多くの人がソ連兵の暴行や略奪、抑留から逃れることができた。樺太に残された人々の引き揚げの開始は昭和21年12月からだった。

女川湾の海戦

 鉄道とは関わらないが、同じように8月9・10日に空襲を受けた港があった。あまり知られていないので書いておこう。近現代史の権威、秦郁彦氏も詳しく調査されている。
 その港は先の震災でも被害を受けた女川(おながわ)港である。ここでは日本海軍海防艦「天草」が奮戦の後に沈んだ。他に喪失が確実なのは、標的艦大浜、掃海艇33号、駆潜艇42号と武装商船第2金剛丸、運油船重興丸、特設駆潜艇第6拓南丸などである。戦没者は157人にのぼった。そして「天草」と刺し違えるように死んだ1人の英国海軍士官がいた。1917年生まれ、ロバート・ハンプトン・グレー大尉である。
 英国海軍士官が三陸海岸で戦死する。初めて知る方もいるだろうが、戦争末期にわが沿岸を荒らし回った機動部隊は米英軍混成の第3艦隊である。指揮官はウィリアム・ハルゼー大将であり、空母12隻、軽空母6隻、艦上機定数は1070機という大勢力だった。空母12隻の中にはヴィアン英国海軍少将が指揮したフォーミダブル、インプラカブル、ビクトリアス、インデファティガブルといった4隻の英国空母が含まれていたのだ。
 英国海軍航空隊が装備していたのはコルセアやヘルキャットといった戦闘機、アベンジャー攻撃機といった米国供与のもの、そして英国製のシーファイヤ(空軍戦闘機スピットファイヤの空母搭載型)やフェアリ・ファイヤフライ複座戦闘機などだった。もちろん主役は米式装備であり、グレー大尉もまたコルセアに搭乗して女川港を襲ったのである。
 一方、海防艦「天草」は歴戦のフネだった。海防艦とは船団護衛用に急速建造された小型の、対潜・対空装備ももった欧米風には護衛駆逐艦ともいうべき存在である。「天草」は昭和18年の末に就役し、マリアナやトラックへの船団護衛に従事し、敵潜水艦1隻撃沈の戦果もあげていた。19年秋には小笠原諸島の父島港で機雷にふれ損害を受けたが修理も完了、20年2月には伊豆半島沖で米機の攻撃を受けて多数の死傷者を出した。その修理を終え、三陸沿岸航路の守りに就くべく宮城県にやってきていたのである。
 天草の武装は12センチ単装両用砲×3、8センチ高角砲×1、25ミリ3連装機銃×5、25ミリ単装機銃×4といった在泊艦船中、最強といっていいものだった。
 グレー大尉もまた歴戦の勇者である。カナダのブリティッシュ・コロンビアに生まれ、バンクーバーの大学に進み、1940年7月に大学を中退してカナダ海軍に志願入隊した。このあたりが「学問を中断させられ学徒出陣させられた」と喧伝されるわが国の大学生とは異なるところである。グレーはその年末には操縦資格をとって少尉に任官、空母フォーミダブルに乗り組んだのが1944年8月のことだった。
 その時期はといえば、ノールウェイの沿岸にドイツ戦艦ティルピッツが隠れていたころである。グレーはこの攻撃にも参加した。対空機銃陣地にも果敢な銃撃を繰り返し、自らも損傷を受けたことはしばしばだった。

8月9日の大空襲

 ハルゼーの指揮下に英米連合軍は三陸沖に現れた。東北地区に残る日本の航空兵力と港湾を破壊するためである。釜石は巡洋艦戦隊が艦砲射撃を行なう。航空隊の目標は塩釜、松島、気仙沼、山田、八戸、郡山と東北地方のほぼ全域となるものだった。
 グレー大尉は愛機のコルセアの両翼下に2発の500ポンド爆弾を吊り下げ、夜明けとともに発艦した。目標は離艦寸前に変更された。飛行場攻撃から女川湾の艦船攻撃に変えられたのだ。大尉の最後の言葉は、その目標変更を伝えに来た兵曹長に「ありがとう、あとで会おうよ」というものだった。
 0430(午前4時30分)頃には空襲警報が出た。地上の防備隊員も艦船の乗組員も急いで戦闘配置に就いた。上空を高く敵機が飛んだ。33号掃海艇はこれも歴戦の高等商船出身のベテラン艇長が指揮して港内を移動し、もっとも奥の防備隊岸壁に近づけ、側面をさらさぬように錨を打ち、ロープで固定した。沈んでも上甲板より上が海面上になるための工夫である。天草もまた、湾の中央部から微速で移動、山陰に近づいて停止した。
「対空戦闘!」の号令と共にラッパが吹かれ、「打ち方~は~じ~め~」といった現場に似合わぬ悠長な調子の命令が下った。最初の発砲は天草の12センチ主砲だった。マストには戦闘旗がひるがえり、午前9時の風に大きくはためいた。西側と北側の山の方から英軍機は降下しつつ、機銃、ロケット弾、爆弾を浴びせてきた。東と南側の山肌をすれすれに通り抜けて退避していく機が多かったという。
 9時45分ころ、天草は被弾した。爆弾が2番砲塔近くに命中し、弾薬庫に引火したらしい。機関部員は全滅、退艦を命じるラッパが鳴らされ、乗員は次々と海に逃れた。陸岸までおよそ200メートル、泳ぐ人々に機銃掃射も加えられた。
 当時の英国海軍戦闘機の爆撃は超低空を飛ぶものだった。非常に低い高度で目標に接近する。グレー大尉は部下8機を率いていたが、まっすぐに降下していった。目標に突進する。そのとき、編隊の2番機によればグレー大尉の指揮官機はエンジン下部に対空砲弾を受けたらしい。機体は火を噴き、衝撃で爆弾の1発は落ちたが、大尉はなお直進し残った1発を目標に命中させた。そして、そのまま引き起こしもせずに湾内に落ちて行ってしまった。
 この日、連合軍は2機を失った。1機はグレー大尉、もう1機はクロスマン少佐が搭乗したシーファイアである。少佐は落下傘で降下し、捕虜となり、戦後帰国できた。
 目撃者の証言はなかなかすべてを信じるのは難しい。混乱する戦闘のさなかの出来事である。また、戦後の時間が経っての記憶である。落ちた機体についての証言もさまざまでグレー大尉の乗機をグラマンとする人もいた。
 しかし、明らかなことは日本側に157人の尊い死があったことである。そして1人のカナダ人の学徒兵が戦死したことも事実である。9、10の2日間にわたる空襲で多くの艦艇や小型船舶も沈められた。戦闘力の乏しい船で戦った先人たちの奮闘ぶりを記憶から失わないようにしたい。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2017年(平成29年)5月31日配信)