鉄道と軍隊(27)─戦時の鉄道(1)

貨物輸送の増大化

 鉄道は興隆した。貨物輸送量は1931(昭和6)年の満洲事変から始まる軍需景気によって貨物輸送などが伸びたからである。そして37(昭和12)年の日華事変勃発、さらにその後の戦火の拡大によって軍需物資、動員人員の輸送などでさらに輸送量は増えていった。昭和7年の貨物輸送量は約6740万トン、8年には同7800万トン、9年同8640万トン、10年同8890万トン、11年同9760万トンと順調に伸び続け、12年には同1億650万トンとなった。6年間でざっと60%もの伸び率である。これがさらに大東亜戦争開戦の前年、1940(昭和15)年には1億4570万トンとなる。
 意外なのは、こうした戦時色が濃くなるなかで、小口貨物の営業にも努力がされていたことだ。自動車の普及が高まる昭和10年頃にはトラックによる中距離貨物輸送が進んでいた。そして、国内の中長距離貨物運送の中心は海運だったが、これに国鉄は対抗した。今日の宅配便に近い発想をもち、発送地から駅、運賃、終着地から届け先までを一まとめにした料金を設定する。昭和2年からスタートしたもので「特別小口料金」といった。一般家庭や小さな商店も利用しやすくする仕組みだった。このために昭和4年には特別小口扱い専用列車を、東京の汐留(新橋)と山口県下関の間に走らせた。
 昭和10年には「宅扱(たくあつかい)」といったシステムで集荷配達制度を始めた。12年につくられたのは急行宅扱専用列車という大型ボギー貨車で編成した高速列車を汐留と大阪府梅田の間に走らせた。これは旅客列車なみの15時間で運転された。さらに大阪府吹田と下関の間も走るようになった。貨車の側面には赤とオレンジの太い帯を巻き、大きな字で「宅扱」と描かれていた。『戸口から戸口へ』というキャッチフレーズも使われた。
 
 コンテナ輸送も始まった。昭和6年には1トンコンテナ輸送が11駅の間を結んで走った。12年になると、駅での貨物の集配や列車への積み下ろしの運送業者の効率化が問題となり、鉄道省は「日本通運株式会社」を設立する。「まるつう」の愛称で知られた巨大企業である。

戦火の拡大と鉄道ダイヤ

 ダイヤとは列車の運行を表したグラフである。1942(昭和17)年11月に、全国列車ダイヤの改正が行なわれた。本州と九州を結ぶ関門海峡トンネルの開通に合わせたものである。旅客列車本数はそれほど変わらなかったが、行楽地への列車は廃止されるなど戦時型ダイヤへの変換といえる。
 この改正の柱となったのは、24時制の採用だった。また、本州と九州間の直通列車の運転(トンネル開通による)、通勤列車の増発と観光列車の削減、快速列車の各駅停車への変更、そして何より特徴は輸送力増強のためのスピードダウン化だった。
 24時制の採用は軍の使う時制に合わせるためと、朝鮮・満洲の列車との連絡の便のためである。時刻表も午前・午後の表示がなくなり、午後7時13分は「19時43分」と表示されるようになった。駅頭の時計も、赤字で12から24までの字が加えられた。ちょっと前まで、上野駅の塔の時計もそのままに残っていた。
 本州と九州の間を結ぶ特急ができた。「富士」が下関ではなく長崎を終点にされた。東京と鹿児島間、東京と博多間、同じく門司(現北九州市)までの直通急行列車が新設される。えんえんと走り続ける直通普通列車、東京から久留米や八代、長崎、京都からも長崎、佐世保、鹿児島、出水、大阪と都城を結ぶなどが生まれた。運転距離が1000キロを超えるような列車が走り、夜行運転も2夜に及ぶものもできた。
 逆に特急「櫻」は鹿児島までつながったが普通急行に格下げされた。その急行列車も東京-下関間で10分から20分も時間がかかるようになった。スピードダウンはダイヤに空きができる。優等列車が減れば、それだけ増発される貨物列車が走りやすくなる。
 1943(昭和18)年2月になると、前の改正からわずか3カ月で改正が行なわれた。「陸運非常体制」とキャッチコピーが使われた旅客列車の大削減である。特急「鴎」が廃止された。「燕」の運転区間も短くなる。神戸に行かず大阪で止まった。東京-名古屋間、大阪-下関間の急行列車の廃止、山陰線、日豊線、上越線の急行列車の廃止などがあった。特筆すべきは有名だった伊勢参宮快速もこのときなくなった。この年10月には特急「富士」が長崎行きだったのが博多止まりになってしまった。戦時らしい不便さが高まってきた。
 翌19年4月には「決戦ダイヤ」といわれた大改正があった。1等車、寝台車、食堂車が廃止された。特急「富士」も休止され、10月には廃止される。急行列車も東海道・山陽、常磐、九州、東北、北海道の各線に残るだけになった。私用の旅行は制限され、切符も入手しにくくなるのもここからである。
 10月にはさらに不自由になった。海運が危険になり、石炭などの輸送が船から鉄道に移ってきた。貨物列車の増発が必要になって、旅客列車が次々廃止された。急行列車はまだ走っていた。ところが東京-下関・門司の間は各1日1往復、東京-大阪3往復、上野-青森1往復、函館-稚内1往復と全国で走る急行列車はなんと7本だけになってしまった。
 12月7日、東海地震が起こった。この被害は大きかった。なかでも静岡県天竜川橋梁の被害が大きく、この他でも不通区間があり、徐行運転も全線で行なわれた。このときは二俣線なども活用されたが、戦時の輸送に大きな影響があった。これは軍事機密として扱われ、当時の一般人には知らされなかった。
 敗戦の年、昭和20年1月には山陽線の貨物輸送を増やすために、列車はさらに減らされた。大陸との連絡のために東京-下関間の急行1往復を除いて急行は全国ですべてなくなってしまった。このただ一つの急行列車も東京-下関間を24時間もかかり、明治時代に戻ってしまった。
 そして、この改正以後、全国規模の改正は不可能になった。地域ごとに修正削減をくり返して列車を運転することになった。7月には青函連絡船が空襲によって全部沈められた。朝鮮と内地を結ぶ関釜連絡線も定時運行はできなくなってしまった。潜水艦ばかりか空襲の危険も迫っていた。九州の各地もアメリカ軍の艦載機による空襲が激しくなり輸送はまったく麻痺状態になった。
 昭和17年の旅客列車運行延べキロ数約50万キロと比べて、半減の26万キロにしかならなくなっていた。
 次回は戦時の車輛、運賃制度などをお知らせしよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2017年(平成29年)4月5日配信)