鉄道と軍隊(28)─戦時の鉄道(2)

「餅は餅屋」鉄道に任せた軍

 さまざまなお話がある。戦時の実態のさまざまを回顧する有名鉄道記者の著作から拾ってみよう。青木槐三氏の『国鉄』(1964年・新潮社)からである。これに解説を加えてみたい。
 
 軍事輸送の伸びは先にも書いた。1938(昭和13)年には200万トン、14年190万トン、15年580万トン、16年1050万トン、17年1430万トン、18年2425万トン、19年には1600万トンだった。大東亜戦争開戦3年目の18年が最大だが、この年の2月にはソ連のスターリングラードで侵攻していたドイツ軍が壊滅し、同じくわが軍も南方戦線のガダルカナル島から残った兵力をようやく収容した年になる。
 軍隊の移動量は、昭和13年から500万人、つづいて600万人、700万人、そして同17年には850万6000人と上りつづけ、18年と19年には1000万人を超えた。うち続く外征軍への補充、新設部隊の拡充、部隊の改編など既定の正規の動員計画では間に合わなくなり、場当たり的な「臨時動員」を続けた結果である。
 鉄道は旅客輸送によって収益を上げてきた。格安の貨物輸送ではとてもまともな経営状態が保持できるわけがない。16年ごろから食堂車がだんだんと廃止されるようにもなった。
「食堂車といっても、そのメニュは、パンにスープ、肉にコーヒーは昔のままの名を止(とど)めてはいたが、それはメニュの上だけのことで、パンは芋や、どんぐりの粉のはいったものだったし、それだとて農林省にお百度踏んで入手したものであったし、コーヒーはうすい茶色をしたのみ物、肉はえたいの知れぬソーセージ、スープはじゃがいもの汁に、なると一片が浮いていた」
 このような貧しい食事をするにも1時間ほど待つのは当たり前だった。丼物も出したけれど、それも外食券がなくては食べられなかった。外食券とは生活統制の一種であり、衣料切符などと同じく、各家庭に配られた店舗に入るための切符である。こうした戦時の暮らしの不便さはだんだん語り部も少なくなってきた。現にいろいろな資料を見ても、なかなか不明なことが多い。
 簡単に説明すれば、昭和16年4月から施行された制度である。主食の配給制度(1日成人男子で2合5勺=約375グラム)にともなって、外食するとその分が減らされなければならなかった。そこで重さを明記した券を外食券食堂で出せば、その分の主食を提供されるシステムである。食堂はそれを地区役所に出して、あらたに供給を受けた。
「駅の売店などでも、寒天に食紅をつけ、サッカリンで味をつけた羊羹、脱脂乳に甘味をいれた代用牛乳、甘味の水だけを冷凍させたアイスキャンデー、梅肉を仁丹の大きさにかためた梅肉丸、しかも仕舞には売る物がなくなって箒(ほうき)から塵(ちり)とりまで売ったりした」
 しかも軍との連絡会議では、鉄道省の旅客課長は軍人から「黙れ!」などと暴言を吐かれる始末にもなった。昭和16年ごろのことである。鉄道は客車不足であまり混雑するので、客車と電車と連絡船を1隻造りたいと輸送力増強会議で軍に申し入れた。軍は「貨車を造れ、時局認識の不足な奴だ、鉄道は貨車だけ造って軍の貨物を運んでいればいいんだ」と主張するばかり。戦時とはそういうものだった。

運賃や営業制度の改変

 昭和17(1942)年4月のことである。大正時代から28年間にわたって据え置きになっていた基本運賃が28%も値上げされた。その理由は臨時軍事費へ繰り入れる財源調達のため、利用を抑制すること、浮動購買力吸収のためと説明された。臨時軍事費とは正規の予算作成手続きを経ないで、戦費としてとにかく支出するものである。「戦いに勝つために」、ひたすら前後の見通しもはっきりしないまま戦争に使う金のことだった。
 この反面には、職工通勤定期券の発売範囲が広げられ、その割引率も最高で87.9%にも引き上げられた。旧い名称の「職工定期」も「工員定期」と改名される。それは「産業戦士」の優遇のためとされた。軍関係の、あるいは軍需企業の工場に通勤する人たちへの配慮になった。工場近くの駅の設備、改札口の拡充やホームの拡幅、延伸、さらには待合室の改良、トイレの増設も優先的に行なわれた。
 2年後、昭和19年4月には、「戦時財政措置」としてキロ当たり3銭5厘の戦時特別賃率を乗車券金額に加算した。これによって20%の値上げになった。同時に等級倍率をさらに大きくした。すでに1等車はなくなっていたが、2等運賃は3等の2倍だったが、それを3倍に引き上げた。とにかく旅客の利用を抑制しようという工夫でもあった。
 鉄道関係者の論考によれば、昭和20年の旅客運賃水準は上がり、昭和18年から19年にかけて公定米価と比べると、「米1キログラムで乗車できる距離が、16年当時の22.4キロから12.5キロに激減、明治末年並の高水準になった」という。
 この時期には、鉄道の運賃は「運送の対価」ということより、戦時の財源調達という税金と同じ効果が期待されたり、利用の抑制や輸送調整の手段として利用されたりするようになった。ではその効果があったかというと、実は「ヤミ物価」の横行が始まって、利用抑制効果は期待ほどでもなかったという。
 いまもグリーン車の利用料金や新幹線、在来特急・急行などは「地帯区分」で設定されている。昭和17年4月には「近距離利用を排除する」という目的で、急行料金の地帯区分をこれまでの3地帯から2地帯に減らした。400・800・801キロ以上というのが従来の3区分、それを400キロ以上と以下と2区分にするようになった。この結果、近距離急行列車に乗るには、運賃改定もあって、3等車で一挙に2倍になってしまう。
 昭和18年7月には特急という名称がなくなった。第1種急行と第2種急行という区分がされた。これは特急には号車別定員制があり、急行は自由席だったのを、第1種にも座席定員以上の乗車を認め、急行でも列車指定制をとるようにし、列車ごとに平均乗車を図るためのものだった。それでも1種も2種も料金格差はこれまで通りだった。
 昭和19年4月からはとうとう、一般乗客の利用制限のために「輸送規制制度」が全国的に導入された。100キロを超える区間の乗車券は、軍と公務客を優先して発売した。一般の乗客は乗車証明書を出さねば切符も買えなくなった。この証明書は勤務先や官公署の旅行証明書である。私用の旅は警察署が窓口になって旅行証明書を出した。100キロといえば、東京から東海道線で湯河原までが99.1キロである。熱海は104.6キロ。上野から東北線で宇都宮が109.5キロになる。定期券も乗り越しができなくなった。短い区間の切符をわざわざ降りて買うのである。
 こうなると、「世の中は星に錨にヤミに顔」といわれる状態になる。星とは陸軍、錨は海軍であり、ヤミは今もあるダフ屋、そして顔とはコネである。よく戦前社会を国民はみな忠君愛国の心にあふれ、すばらしい社会だったなどと誇張する人も多いが、実態はあまり今と変わらないのがほんとうのところだろう。
 ただし、この制度自体は警察側の対応の不手際が多かった。まず、威張る。権限を持たされると底辺の人ほどそれを振り回すことがある。嫌がらせをいう。それでいて高級軍人の家族などには低姿勢、そういう投書などが残っている。戦後の警察嫌い、軍隊への嫌悪感などはこうしたあたりにも原因がある。
 このシステムは一部区域にしか行なわれず、のちの『旅行票』制度に引き継がれた。旅行票は乗客の住所、氏名、利用希望区間、旅行目的を各駅にいる「鉄道調整官」に提出し、その審議を受けて発行された。そして事務の簡素化を図るという目的から、東京駅から51キロ以上の駅との相互発着について「東京電環」共通着駅制度が始まった(20年4月)。いまの「山手線内行き」均一運賃の始まりである。山手線内、総武線までも含めて、どこの駅でも同一運賃というシステムは今も続いている。
 利用のしにくさでは「手荷物託送制度」が昭和19年4月に廃止されたことも大きかった。乗客と同一列車で運ばれる手荷物は無料だった。いまの航空機と同じシステムである。昔は鉄道チッキといって、大型荷物は郵便・荷物車に積み込まれ下車駅では無料で引き渡されていた。それが廃止になった。

最後の働き

 昭和19年7月、閣議で将来ある子供たちは都会から地方へ疎開させようと決めた。東京都からは37万7000人、横浜、川崎、横須賀からは9万5000人、名古屋6万9000人、大阪18万人、神戸・尼崎から5万5000人、北九州1万5000人、合計79万4000人が親から離れて疎開生活を送った。これを学童疎開といった。
 一般人の疎開もあった。東京に大空襲があったのが昭和20年3月、東京から400万人、大阪155万人、名古屋85万人、神戸40万人、川崎21万人、横浜42万人と合計760万人が地方へ散っていった。これに使われたのはおよそ25万両の貨車だった。この疎開は大きな輸送だった。東京の人口も戦前の650万人から、昭和20年3月には240万人に減ってしまった。
 国鉄の戦時の最後の様子は回を改めて次回にしよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2017年(平成29年)4月19日配信)