鉄道と軍隊(10)─自動連結器への交換(1)─

連結器(カプラー)

 どこでも次の数字が使われている。1925(大正14)年、国鉄の連結手1810名、うち1年間の死傷者は537名にのぼった。29.7%である。およそ3人の1人が命を落とし、あるいはけがをする。どうしてそんなことがあったのか?
 貨車でも客車でも、車両と車両の間に連結や解放(外す)のたびに人が入っていたからだ。毎年数十の人命が失われ、数多くの人が重傷を負っていた。
 機関車や客車、貨車をつなげるには連結器(カプラー)が必要である。明治の初め、英国式技術の導入から始まったわが国の鉄道は、アメリカ技術の北海道を除いて、みな連環(リンク)連結器、螺旋(らせん・ネジ)連結器といわれる物を車体の前後に付けていた。同時にバッファーといわれた緩衝器も車両の左右に付いていた。
 いまもヨーロッパの鉄道車両の多くはこれである。車両の片方にはリンク連結器、もう一方にネジ連結器が付いている。ネジは必ず隣の車両のリンクに面するようにしてあって、ネジ連結器の太い大きな鎖を向かい側のフックにかける。その上でリンク連結器をさらにつないで二重連結として安全性を高めるものだった。
 連結器に要求されるのは、牽引するときの力を伝えること、それと確実性である。機関車が貨車を牽引する貨物列車なら、機関車とすぐ後ろの貨車に最大の引張力がかかる。とりわけ上り勾配や、加速するときには大きな力がもっとかかる。そのため、これに耐えるだけの強度がなくてはならない。大事故につながりかねない連結器が破壊される事態は絶対に避けなければならない。下り坂や、機関車が減速するとき、あるいは後ろから押すときは推進力を受けるからこれに耐えられる強度が必要になる。リンクは引っ張ることはできるが、押すことはできないから緩衝器が取り付けられている。
 構造は単純だが強度が低いのが欠点である。おかげで列車を長大にすることが難しい。輸送力が高まらない。連結や解放の時にはリンク(太い鎖)を持ち上げなくてはならない。当時の国鉄では20キロにもなる装置だった。

当時の連結と解放の様子

(1) 緩衝器どうしをくっつけて、やや内部のバネを圧縮した状態で車両を止める。
(2) 片方の車両の格納用フックにかけてあるリンクを、相手側フックにかける。
(3) リンクの中間にあるネジ機構は、ハンドルを正面から見て右に回すとリンクは短くなり、左に回すとゆるんでくる。およそピンと張るところで連結が完了した。
 旅客列車は軽いので、けっこうきっちりと締め付ける。列車全体に機関車の牽引力がすぐに伝わっても危険がない。
 ところが、重量がある貨車で編成された貨物列車ではゆるくしておく。その方が列車が動き始める時に楽だからだ。自動連結器になった今も、その事情は変わらない。筆者が子供のころに見に行った時など、貨車の列の前の方から、順々にカタ、カタ、カタ、カタと連結器が引かれる音がしてきたものだった。最後の緩急車(車掌が乗っている)まで音が来ると、貨物列車はゆっくりと走り出す。

自動連結器への一斉交換

 1925(大正14)年7月、この螺旋式連結器を、人手が減るアメリカ製のシャロン、アライアンスなどの自動連結器に取り換えた。おかげで連結手の死傷は翌年からほとんどなくなってしまった。ところが、数万両もあるような機関車や客車、貨車などのすべてを取り換えることは大変な費用がかかる。しかも計画を立て、列車運行に妨げがないように工事を効率よく、なるべく全国一斉に実行しなければならない。だから、アメリカは早くから自動連結器を採用していたが、ヨーロッパでは一部の高速列車を除いて、今も連結器は昔のままである。
 交換することが難しいのは、機関車も客車も貨車も走っているからだ。車両は列車を編成して走っているから、たとえ何万両あろうとも一斉に、しかも短い時間でやらなければ輸送が止まってしまう。その損害は全国ではたいへんなものになるだろう。付け替えも正確に行なわれていなくては大事故を起こしてしまう。
 では交換の対象になる車両がどれほどあったか? まず、3500両の機関車があった。客車は8600両である。これらは数が少ないから困らない。問題は5万2000両の貨車だった。貨車は米から野菜、石炭、木材などなど多様な種類の荷を積んでいる。1つの貨物列車は、車両ごとに行き先が違っている。列車は途中駅で決められた貨車を切り離し、あるいは増結して走り続ける。
 5万2000両もの貨車が、ある日時にいったいどこを何両が走っているのか。新しく付け替える自動連結器をどこに、何個ずつ集めておくのか、これが大問題だった。どうすればいいか。鉄道省では会議が開かれたが、なかなかアイデアは出るものの決定には至らない。
 ところが1人の工作技師のヒラメキの一言で実行方法が決まった。 「付け替える自動連結器を貨車にぶらさげておけばいい。走らせておいて、決まった日時にその場で古いタイプと交換すればいい」
 外出して、どこの店で食事をするかと悩むより、弁当をもっていけばいいという理屈である。こうして大難問は解決した。
 7月1日から10日までに8600両の客車の交換ができた。貨車は本州と四国は7月17日、九州は7月20日の午前零時から24時間を貨車の運行をすべて止めて交換を行なうことにした。7月17日は当時の調査で、1年中でもっとも貨物輸送が少ない日だった。作業員は6000人があてられた。外国の鉄道関係者も見学にやってきた。また自動連結器のメーカーも映画を撮影して、偉大な実験を世界中に知らせようとしていた。
 一切は手落ちなく実行された。こうしてわが国の国鉄の優秀さは世界中に知られることとなった。

天才・島安次郎と空気ブレーキ

 この偉大な連結器交換を企画・推進したのは鉄道院理事工作局長だった島安次郎(1870~1946年)である。島は1918(大正7)年にアメリカから帰ると、輸送量の増大と連結手の死傷をなくすという目的で自動連結器の採用を進めることにした。
 島は和歌山県和歌山市の出身で、実家は有名な薬種商だった。東京帝国大学工科大学を卒業し、1894(明治27)年に私設鉄道の関西鉄道に入社する。旅客サービスの改善を進めた。
 関西鉄道が1907(明治40)年に国有化されると鉄道院に入る。鉄道作業局工作課長となり、後藤新平の指示で広軌化への研究を行なった。その後、満鉄の筆頭理事を経て、1925(大正14)年には汽車製造の社長になる。のち、広軌の「弾丸列車計画」にも加わった。それは戦争で挫折したが、東海道新幹線は島の長男・秀雄によって企画された。
 島の大きな遺産は、もう一つある。それは列車のブレーキを「真空ブレーキ」から「空気ブレーキ」に替えたことだ。新幹線もそうだが、高速で走らせることよりも、列車を危険なく止めることの方が難しい。列車を速くするのも、本数を増やすにも、列車の車両数を増やすにも、それらすべてはブレーキにかかっていると言える。
 ブレーキは機関士が全部の客車のブレーキを1カ所から制御することが理想だった。はるか昔は列車の中に「緩急車」を入れて、そこで制動手がブレーキをかけた。汽笛の合図が決まっていて、それを聞いた制動手はいっせいにハンドルを回した。それがすでに明治20年代には、全部の車両を制御する「貫通ブレーキ」が普通になっていた。
 次回はこのブレーキについて語ろう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2016年(平成28年)7月27日配信)