軍隊と学校(1)―予備員教育と学校(1)
はじめに
学校においての軍事訓練という視点から明治時代をとらえれば、
明治時代は「兵式体操」の時代でした。「兵式体操」とは私たちが
想像する体育の「普通体操」と並んで、明治時代の学校の体操科の
二大教材の一つなのです。
兵式体操は国民教育の確立をめざした明治19(1886)年の
「学校令」制定といっしょに採用され、大正2(1913)年に学
校体操教授要目の制定にいたるまでつづけられました。
この兵式体操の推進者は森有礼(もり・ありのり)という初代の
文部大臣でした。森は1847(弘化4)年に鹿児島の城下士の家
に生まれ、藩校造士館、洋学所だった開成所で学び、1865(慶
応元)年には選ばれて留学生となり、英国ロンドンに出かけました。
1868(明治元)年に帰国し、外国官権判事(ごんのはんじ)、
議事体裁取調御用などを務めますが、過激な「廃刀令」を進言し、
免官されてしまいます。その後、外務省の少弁務使として渡米、帰
国して外務大丞、清国公使、外務大輔なども歴任、1879(明治
12)年には英国公使として条約改正交渉にもあたりました。
明治初めの民間啓蒙団体『明六社』を主宰したり、外務関係に足
跡を残したりしましたが、教育行政官としてもリーダーシップを発
揮します。明治7年にはアメリカからホイットニーを招いて商法講
習所(のちに東京商科大学、現一橋大学)を開設しました。英国に
いた時には渡欧中だった伊藤博文と教育を論じて共鳴され、188
3(明治16)年に帰国するや文部省御用掛となります。そして明
治18年には内閣制度発足と同時に、初代文部大臣となり教育体制
を中央集権的・国家主義的に整えました。小学校令、中学校令、師
範学校令、帝国大学令などを次々と施行します。いまも残る近代学
校制度の基本は森によって創られたといって言い過ぎではありませ
ん。
兵式体操はのちに説明するように、「性格気質の鍛錬を重視する
国民教育」という非軍事的なものでした。軍事技術を教え、軍隊の
予備教育を行なうというより、軍隊的動作や鍛錬、思考法を徹底し、
近代国家の国民としてのバックボーンを造ろうとしたというもので
す。
学校での軍事訓練を管轄したのは当然文部省でした。同時に、徴
兵制度を基にする国民軍を育成する陸軍とは当然、関係が深くなり
ます。学校での軍事訓練に対しての軍の期待とはどんなものだった
か、軍がどんな役割を果たしたのか。それが問題になります。そし
て、同時に学校の軍事訓練を教育の側の主体である文部省がどのよ
うに把握したか、そして展開させていったのかも気になります。そ
して、軍と教育の側の間にはどのような関係が見られたのかについ
ても明らかにしたいものです。そのことをこれからお話ししていく
つもりです。
『歩行に慣れ、筋骨堅固なる者を』
フランス陸軍歩兵大尉シャノアン(1835~1915年)は驚
きかつ、呆れてしまった。シャノアンはシャノアーヌとも言われる。
のちに帰国して大将、陸軍大臣も務める。有名なユダヤ人将校につ
いてのドレフュス大尉事件に連座して辞職する。1835年生まれ
の正規フランス陸軍将校であり、幕府から教官団長として招かれて
いたのだ。
来日は慶応2年12月8日(太陽暦では1867年1月13日)、
すぐに伝習が始められた。横浜太田陣屋から江戸に移転した訓練場
で大尉は呆然としたのである。士官候補生として幕臣から選抜され
た若殿様(旗本)や若旦那様(御家人)たちは、ろくに運動ができ
なかったのだ。彼の目の前では、気を付けの姿勢もとれない若者た
ちが、真っ直ぐにも並べずに、ただふらふらと揺れる身体も持て余
して立っていただけだった。
話はもどって1865(慶応元)年3月のことである。幕府軍艦
奉行並だった栗本鋤雲(くりもと・じょうん:1822~1897
年)のところに2人の高級旗本が訪れた。小栗上野介(おぐり・こ
うづけのすけ)と浅野美作守(あさの・みまさかのかみ)である。
2人は軍制改革、とりわけ、それまでの横浜でのイギリス式伝習を
廃止し、フランス軍事学を導入すべきだと主張しにきたのだ。
2人は横浜山手村(現在の港の見える丘公園付近)に駐屯する英
国軍から教育を受けていた伝習のことをやたら悪く言い、士官兵卒
の教育訓練をしっかりしなければという。フランスから正式に教官
団を招くべきだとも主張した。幕府海軍はすでにオランダからの教
官団を長崎に招き、士官の教育を立派にやってのけていた。それに
比べれば、陸軍はレベルが低いというのだ。
実はこれには裏があった。幕府の衰退が大きく目立ったのは長州
戦争からだった。英国は薩英戦争で薩摩と親しくなり、これに対し
てフランスは幕府に接近を図っていた。2人の革新官僚はフランス
から軍事援助を引きだし、さらには借款(しゃっかん)をして幕府
を建て直そうと構想していたのである。
もともとフランスに親近感を抱いていた小栗は翌日、すぐにフラ
ンス公使レオン・ロッシュに面会を求めた。こうして幕府陸軍はそ
れまでの英国式伝習からフランス式に切り替えることになった。
慶応2年11月2日には老中から直参に達しが出された。口語体
に書き直しておく。
「お目見え以上・以下、当主・子弟・厄介に至るまで、15歳か
ら35歳までの者は吟味の上、フランス国よりお雇いになる教師か
ら、三兵伝習を仰せ付けられる」
御目見以上とはいわゆる「殿様」といわれた旗本のこと、以下と
は「旦那様」と呼ばれた御家人のことをいう。当主だろうが、子弟
だろうが、独り立ちできない「厄介」という身分だろうが、とにか
く志願せよということである。厄介というのは当主の弟などで、養
子の行先もなく、ぶらぶらしている人を指した。もちろん、甥が当
主にでもなれば、なおいっそう立場は辛い。新しい職ができるとな
れば、勇んで応募もしただろう。
三兵というのは歩兵・騎兵・砲兵のこと。シャノアンが率いてき
た教官団にはそれら各兵科の将校・下士官がいたのである。のちに
なって、降伏することや、艦船の引き渡しを拒んで北海道に向かっ
た榎本武揚の脱走艦隊の中に加わった者もいた。
シャノアンはそうした「吟味(試験)」を終えた士官候補生たち
の訓練を見た。シャノアンが驚き、呆れたのは、そうした武家貴族
の若者たちがろくに走れない、動けないことにあった。それどころ
か身体がひどく固く、まともに腕ももちあがらない。それが陸軍士
官になろうと志願して入隊した者たちの実態のひとつだった。
以下、シャノアンが幕府へ提出した意見書を分かりやすく書き直
してみよう。
「これらの人をすべて兵卒にするということは、歩兵ならばほと
んどその希望通りになってしまうだろう。横浜にこれまで派遣され
ていた兵卒のうちには、戦場の実際に立てば、その疲労に耐えがた
い者が多いことだろう。(中略)歩行に慣れ、筋骨堅固なる者は都
会ではなく田舎育ちであるから、庶民から育ってきたものを選ぶべ
し。都会(江戸)に住むような人は従順であることが少なく、苦痛
に耐える者もいない。加えて、駐屯地周辺に家があって、妻子まで
ある兵卒を規律通り行動させるなどはとても難しいことである」
ほんとうの戦争からはるか離れ、平安な暮らしを送ってきた旗本
や御家人はとても軍隊の暮らしに耐えられるような人たちではなか
った。「従順ではない」というのは、プライドばかり高く、上司の
指示に素直に従わないということである。ひ弱で、我慢ができず、
それでいて気位ばかり高い。体力があれば、まだ鍛えればいいし、
その訓練を通して学ぶこともあるのだが、体力までろくになかった
人ばかりだらけなのだった。
人は幼い時から運動し、走り、跳び、力を出すことによって人と
しての体力を付けている。それが江戸の武士たちは働きもせず、身
の回りの物すら運んだことがない。これでは、とシャノワンがため
息をついたこともよく分かる。
江戸時代の人々の身体
日本人の体格は歴史を見ていると、大きくなったり、小さくなっ
たりしたようだ。江戸時代はちょうど、小さくなる時期でもあった。
5尺といえば、1尺を約30.3センチとみると、およそ151.5
センチになる。これが庶民の平均に近いのではないだろうか。明治
初めの志願兵だった各藩軍の兵卒の平均身長は5尺1寸だったとい
う記録がある。154.53センチになる。いまでいえば、小学校
高学年の平均値に近い。女性はほとんどが145センチ前後だった
のだから、これまた小学校中学年のそれである。
だからテレビの時代劇や映画で出てくる人々の様子は当時の本当
の姿とはまるで異なっている。映画に出てくる馬は現代のサラブレ
ッドやアラブ種の血を引く大型馬であり、在来の和種の当時の馬は
もっと小さい。福島県相馬市の「野馬追い」をテレビでは戦国絵巻
などと紹介するが、ほんとうの戦国時代の騎馬武者は絵画で見て、
骨格から復元された馬の様子から想像すると、とてもあんなもので
はなかった。
それに何より、当時の人は今の私たちのように大手を振って、大
股で歩くことはなかった。それぞれの階層によって、身なりや持ち
物ばかりではなく、歩き方や手の使い方までみな異なっていたのだ
そうだ。
「ひかがみを伸ばされた」という言い方があった。昭和戦前期の陸
軍の兵営の中である。失敗をした下士官が特務曹長に呼ばれて叱ら
れていた。帰ってきて同僚の下士官に「いやあ、えらくひかがみを
伸ばされた」とこぼした。ひかがみとは膝の裏のことをいう。そこ
を伸ばすとは、直立不動の姿勢を長くとることをいった。伸ばされ
る、ひたすら姿勢を正して、お説教を謹聴するという様子を表して
いる。つまり、ふだん日常の生活では、庶民は膝を曲げて歩き、立
っているときも同じだったのだ。
幼いころから厳しい農作業を手伝わされた農民はみな前かがみで
背を曲げ、両手を握って腹の前にそろえていたらしい。走ることが
あればもちろん、ナンバ歩きである。右手と右足が同時に出る。重
い荷車や大八車をひく姿勢も同じである。前かがみになって梶棒を
握り、もたれるようにして力をこめて歩いた。
大名行列でも同じ。宿場の出入りでは「髭のやっこ」が毛槍を振
って威勢をつけた。あれもナンバ歩きで体をさばいていた。戦場で
の武士の動きを示す戦国時代の絵にも、ナンバで走る刀を担いだ武
士の姿が見える。
大工はいつも肩に道具箱を担ぎ、左手は法被(はっぴ)の中にい
れていた。これも手は決して振らない。そういう習慣がなかったの
だ。町を歩く商人も手を前垂れの下に隠し、足を踏み出したりせず
に細かい歩幅で歩いたりしていた。
現代の俳優にそうした史実を強制したらどうなるだろうか。おそ
らく不自然で、リズムもとれず、見ている私たちにとっては違和感
が残るだけに違いない。
「体学」の必要あり
シャノワンの建白書をさらに読んでみよう。歩兵隊の項目である。
「日本の兵隊には練体法を教えることが大切である。もともと身体
を動かし、使うことが好きではない人に、屈伸自在、動作を活発に
させるためである」
横浜太田村の訓練場では何をしていたか。そこに書かれている。
「号令をかけて、頭を左右に振らせたり、上下に振らせたり、手を
回させながら走らせる、あるいは後ろ向きに走らせる、片足で走ら
せ、仲間と手をつながせて走らせ、膝で進ませ、2人を組ませて手
を取り合って引っ張り合いをさせ、高いところから跳び下りさせる
など、いろいろな種類の運動をしている」
いまでは保育園や幼稚園で日常行なわれている「体育」であるこ
とがよく分かる。また、小学校低学年体育では、こうした基本の動
きや体力づくりなどが主な教材になっている。
シャノワンはこうして幕府の要路に基本的な訓練の必要性を根気
よく説いた。また、所轄官庁だった陸軍所の担当官たちも、長州戦
争という実戦を体験すれば、このことの重要性はよく分かっていた
のだろう。『仏蘭西歩兵程式(1867年)』、『新兵体術(教練)
(1868年)』などの出版がされたように、体操が軍隊教育の基
本とされたのである。また、『生兵教練は新兵入営後7日間を経過
しなければ行なわない。この7日間はひたすら新兵に柔軟体操だけ
を行なわせる』という新兵教育もここから始まった。
次回は新しい学校で子供たちは何を学んだかを調べてみよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2017年(平成29年)6月28日配信)