日露戦争の兵器と装備

完成された連発銃・30年式

 兵卒たちが生命を託した小銃。それには2つのタイプがあった。1つは歩兵銃(ライフル)と、もう1つは銃身を切りつめた短い騎兵銃(カービン)である。日本陸軍は日露戦争には30年式歩兵銃と同騎兵銃を主力装備としてのぞんだ。2つの全長と重さはそれぞれ1275ミリ、4050グラムと、より短く軽量にした963ミリ、3300グラムである。全長の差と軽量化は主に銃身長の795ミリと480ミリの違いが生み出した。機関部や銃床部分はまったく変わらない。
 ほかに外観上の細かい違いでは、歩兵銃は銃身の上部をおおう木部が長く、騎兵銃はそれが省かれている。負い皮(スリング)を付ける留め具が騎兵銃は銃床の左にあって斜めにして背中に負いやすくなっていた。初期の生産品は銃剣を付けることができなかった。騎兵は騎兵刀という長大なサーベルを左腰に吊るからである。銃剣まで同時に装備するのはなんとも不便だったからだ。
 どちらも5連発で、機関部の遊底から右に直角に飛び出した槓杆(こうかん)を操作して、実包の薬室への装?、排莢をくり返す。いわゆるボルト・アクション方式である。連発小銃というと第2次大戦時代
の自動装填機構のオートマチック・ライフルを連想する人がいるが、この連発銃とは、それまでの1発ずつ実包をこめる単発銃と区別した名称である。この30年式歩兵銃と騎兵銃が、厳しい実戦を経て改良されたのが大東亜戦争までの主力38式歩兵銃だった。重量や全長、そのほかはほとんど変わらない。
 右側に突き出した槓杆を垂直に立てると遊底を後ろに動かすことができる。遊底を前に押し出すことで、弾倉の一番上の実包を薬室に押し込める。すると、遊底の内部のスプリングが撃針をロックする。遊底を閉じて槓杆を右に倒せば撃発状態になる。30年式歩兵銃では、遊底後部に引手(ひきて・副鉄)がついている。発射可能な時にはこれが14ミリくらい露出した状態になる。この引手を右へ4分の1回転をさせると安全装置がかかった。引手が垂直に立つので照準操作ができなくなるために撃発ができなくなった。
 5発入りの弾倉は箱型尾筒という形式で、外からは見えない。実包は5発ずつが金属製のクリップでまとめられて慣れれば一挙動で込めることができる。弾丸は弾倉の内部で左右に分かれてジグザグに入った。左に3発、右に2発である。これが改良型の38年式では逆になったから注意を要する。また、弾倉の下は「底鈑(ていはん)」といわれる薄い金属でできており、ボタンを押すことで簡単に取り外せた。戦闘後の残弾を抜く時にはとても便利だった。戦う軍隊は安全には神経質なほど気を配る。この残弾抜きは戦後の戦争映画などでは面倒なので、絶対に再現しない史実である。戦前の映画では必ずこの動作があった。戦場に立った軍人には常識になっていたからこそ、それを必ず実行しなくては経験者の観客が納得しなかったのだろう。

両軍実包の違い

 両軍小銃の大きな違いはそれぞれの弾丸口径だった。ロシア軍の1891年式3リーニア(1リーニアは2.54ミリ)は7.62ミリ、わが軍は6.5ミリである。この小口径弾が採用されるまでには多くの議論があった。6.5ミリ弾への極端な評価は、「これでは威力が低く不殺銃」だというものだった。敵兵を1発で殺せなくては軍用銃の意味はないというものだ。
 しかし、弾丸の初速が高まり、その衝撃力は敵の突進してくる騎兵の乗馬の大腿骨を粉砕することができた。戦闘時の射撃距離は300メートルから200メートル。また、敵が負傷すれば、後方に担架で運ぶためには4名の敵兵が働く。その装具などを運ぶためにさらに2名が必要になる。要は敵兵を一時的にでも戦闘不能の状態におけばよい。長く苦しい療養期間を取らせ、治っても不具にするようなものより、はるかに人道的な銃弾だという主張がされた。
 しかし、本音を言えば資源の節約ということも考えられる。列国の採用する7.62ミリや7.92ミリという大口径銃弾と比べると、弾丸に使われる銅や鉛、ニッケルの量が格段に減るのだ。また、真鍮製だった薬莢の小型化も図れる。弾頭は貫通力を高めるために純鉛の本体に銅80%、ニッケル20%の白銅をかぶせたものだった(弾頭だけの重量は10.5グラム)。大国ロシアの7.62ミリ弾は全重量25.8グラム、弾頭重量は13.7グラムにもなる。21.5グラムの30年式に比べれば1発ごとの重量差は4.3グラムだったが、この差は補給上でも大きな利点になった。日露戦争の一会戦でも数百万発の小銃弾が消費されたのである。

30年式銃前史

 日清戦争(1894~5年)では野戦師団の歩兵と工兵は村田銃の明治13年(1880)式、もしくは同18年式で戦った。これらは幕末以来の単発銃である。1発撃つごとに筒尾(とうび・銃身の最後部にある機関部)を開け、排莢し、弾頭と薬莢が一体化した口径11ミリの金属薬莢を手で込めた。大陸の寒さと緊張で、手指がうまく動かず、装填に苦労したという話が残っている。
 もう一つの主力だったのは22年式連発銃である。銃身の下にあったチューブ式弾倉で知られる無煙火薬使用の22年式小銃は口径8ミリ、8連発である。この戦争では台湾の領収に進出した近衛師団と第4師団だけが装備していた。大陸で戦った将兵は手にしていなかった。
 11ミリから8ミリへと弾丸が小口径化したのは、もちろん無煙火薬(コットン・パウダー)の採用のおかげである。この火薬は燃焼時間が黒色火薬(ガン・パウダー)に比べて多かった。そのかわり発生するガスの量はたいへん多い。そのため銃身に大きな衝撃を急に与えることなく、弾丸に十分な加速を加えられた。弾丸の衝突速度が速ければ衝撃エネルギーはそれだけ大きくなる。大口径であっても弾速が遅い弾丸よりはるかに有効だった。
 無煙火薬は1885(明治15)年にフランスで発明された。以来、列国はこれを使った小口径・連発の小銃を次々と開発し、実用化した。戦闘射撃の距離は大きくなるばかりだった。敵をより遠くから倒せる、そういった思想を「遠戦主義」と名付ければ、日本陸軍も当然、それの信奉者だった。もともと日本人は戦国時代の昔から、投石、弓矢、鉄砲が大好きで、戊辰戦争でももっぱら火力戦闘を重視していた。西南戦争で銃器や弾薬の補給が続かなかった薩摩軍の白兵斬り込みも、決して好きで行なったわけではない。
 22年式小銃は、アメリカの西部劇に見られるウィンチェスター・ライフルのように銃身の下に並行してチューブ弾倉(前床管という)が付いていた。戦闘になる前に1発ずつ手で8発を込めておく。その後、薬室に1発を装?し、「搬筒匙(はんとうし)」という部品の上にも1発を入れておく。この搬筒匙には、単発と連発モードがあって、ツマミで操作することができた。単発にすることで弾倉からの給弾を止めることができた。連発にすれば、合計で10発が連続発射できることになる。残されている写真では1900(明治33)年の北清事変に出動した歩兵が携帯しているのが確認できる。このときは居留民保護のために列国は多くの兵士を出動させた。そのなかで日本陸軍だけが「時代遅れ」の管弾倉式小銃を持っていると欧米では話題になった。
 この陸軍最初の連発銃については「悪評さくさく」だったとされる。ところが不思議なことに、実戦で使われた台湾領収戦争、北清事変ではとくにこれといったトラブルが報告されてはいない。悪評のもとは、開戦直後に古くなった村田連発銃をもたされた後備歩兵旅団の将兵たちの声だった。しかも、軍事研究家の兵頭二十八氏によれば、その苦情の多くは日露戦争の後、ずいぶん経ってから回顧談だったという。その中身の多くは管弾倉についての苦情によるものだ。それは8発を撃ち尽くしてしまうと、戦闘中には20秒近くもかかる再装?をする暇(いとま)がなく、結局、単発銃になったからだとする。
 しかし、北清事変の従軍記などを見ると、北京の大使館籠城戦の中では、戦闘とはしばしば「撃ち方止め」がかかるものだった。その際に銃弾を補填するゆとりはあった。それに乱射ではなく狙撃を大切にすれば、単発で十分間に合うようである。では、敵が退却中の追撃などがあったらどうか。これはその直前に連発モードに切り換えればよかったという。再装填に立ち止まる必要がないからだ。逃げる敵を撃つ、そのとき連発モードはたいへん便利だったらしい。
 問題は複雑な機関部に入りこむ砂粒だった。大陸の目に見えない細かい砂塵は複雑な機構に不具合を与えた。機関部の動きを滑らかにするための油を入れるポケットもあった。また、現役から離れた後備兵が手入れに慣れていないことも原因の一つだっただろう。そして何よりも、その命中率の低さだった。このことは『偕行社記事』にも載っており、有効射程は300メートル以下だったことが指摘もされている。おそらくそれは銃身長が短かったことに理由があるのではないか。村田連発銃(22年式)の全長は1215ミリ、銃身長は746ミリである。全長は30年式に比べて60ミリ、銃身長も49ミリ短い。装薬(薬莢内の火薬)量と銃身長の関係はたいへん深い。軽量化を目指して銃身を切り詰めれば、装薬は十分に効果を示さず弾丸速度は遅くなる。その結果の命中率不良ではなかっただろうか。

小銃弾薬の携行量

 弾丸の口径が小さくなり火薬の量も減れば実包全体が軽くなる。日清戦争の村田18年式の実包重量は約46グラムである。村田22年式でも同31グラムだった。それが30年式では同21.5グラムに軽くなっていったのである。
 日清戦争では歩兵が携行するのは各兵が70発(46×70=3220グラム)、小行李に1銃あたり30発、弾薬大隊の歩兵弾薬縦列に1銃あたり100発の合計200発だった。革製の弾薬盒や手入具、実包を合わせておよそ5キログラム。これに18年式では全長580ミリ、鞘も含めた総重量720グラムの銃剣を腰に着けた。13年式銃剣では全長708ミリ、総重量は990グラムにもなった。
 日露戦争では腰の前にベルト(帯革・たいかく)に通した2つの革製弾薬盒を着け、それぞれ5発をまとめるクリップ(挿弾子・そうだんし)を6個ずつ収めた。これらを前盒(ぜんごう)といい、腰の後ろには大型でクリップが12個入る箱を付けた。これを後盒(こうごう)という。合計で120発(2580グラム)これらと別に背嚢の中には30発から60発、小行李には1銃あたり60発、弾薬大隊の縦列に同じく90発で合計1銃あたり300~330発を用意していた。日清戦争時のおよそ5割増しである。
 銃剣は陸軍の解体まで使い続けられた30年式といわれる当時の西欧列国の標準装備に近いものだった。全長525ミリ(鞘に入った状態)、剣長398ミリ、重量690グラムである。30年式歩兵銃の銃口への取り付けはワンタッチで行なえた。そうなると全長は1670ミリになった。対してロシア軍のモシン・ナガン小銃はねじ止め形式で長い銃槍を着けた。銃全長1.29メートルに対し、槍を着ければ1.73メートルにもなった。
 『日本陸軍は白兵信仰だった。火力を軽視し、銃剣だけを頼りに白兵戦を勝ち抜こうとし、そのために長大な38式歩兵銃を採用した』。そうした悪口が戦後長く語り継がれてきた。ところが、30年式歩兵銃が設計・開発されたのは陸軍が火力主義だった時代のことだ。当時のプロシャ式の歩兵操典では、『突撃は敵が退却したとき、勝利の確認のために行なう』とされていた。実際、「偕行社記事」などを見ると、陸軍軍人はロシア兵が突撃をしかけ白兵戦を挑んでくることに驚きと当惑を隠せないでいた。
 『射撃では十分に圧倒した。300メートルから射撃を始め、ロシア兵が斃れるのが目撃された。ところが根を生やしたように逃げない。それまでの訓練では敵は耐えきれずに退却するはずだった。それどころか、将校が抜刀し、先頭に立ち、全員が槍を着けた筒先を揃えて突進してきた。もう不要だとまで考えていた銃剣が、やはり最終兵器になるのだと思い知った』。ある将校の実戦談である。
 白兵戦の出来があまりにお粗末であったことから「白兵信仰」を陸軍中枢が打ちだしたのは1909(明治42)年の歩兵操典の改正からである。当時も今も、歩兵銃の重さは人間の体力上の限界があり、およそ4キログラムだった。戦後の陸上自衛隊の主力小銃だった64式も4.2キロである。38式が重かった、銃剣突撃のために無用な長さだったというのは、戦後、戦前社会への悪口を言う自由を手にした弱兵のインテリたちがまき散らした弱音にしか過ぎない。

30年式銃の生産と補充(1)

 銃の主要な部分は銃身と機関部である。銃身は連発なので発射速度が高まる。弾丸数が増えるので、当然、発熱と内部の摩耗が増える。銃身内部の施条(ライフリング)がすり減れば当然弾道が不安定になる。発熱によって銃腔(じゅうこう・銃身内部の直径)が拡大すれば、弾頭の施条への食いこみが減り、回転が甘くなってくる。そうした事態を銃腔開大というが、生産に関わった兵器本廠でも実戦を経た小銃を回収していた。
 文書によれば、6.55ミリの腔中検査器が全通しないものは合格。6.57ミリの検査器が通り抜けたものは不良と決めている。つまり、生産時の誤差と実用しての耐久性を合わせて0.05ミリ以内、最大で0.07ミリ以内という銃身製造には恐ろしいほどの精密さを要求しているということだ。
 その命中精度がどれほどのものかというと、200メートルで30発の射撃を行なって、半数が直径30センチメートルの円内に弾着が集中した。200メートルといえば、地上から見た東京タワーの展望台付近であり、その窓に全弾がほぼ命中するということだ。こういう精度が保証されなくては、国民の誰もが、しかも射撃の素人が集められ、短期間で養成される国民軍の制式小銃にはなれなかったのだ。
 銃身よりもなお、精密さを要求されたのは機関部である。単発銃の時代は銃身の腔部につながって、弾薬の装?と遊底の作動部分の尾筒(びとう)と内部で作動する遊底でしかなかった。ところが連発銃になると、銃腔の閉鎖・密閉と同時に撃発と空薬莢の抽出(ちゅうしゅつ)である。装?と排莢は手動で、密着と同時に滑らかな摺動(しゅうどう・すれ動くこと)が要求された。装?、閉鎖、撃発、排莢、再装填といった一連の流れを支える精密さである。これが戦場では『武人の蛮用』といわれる過酷な戦場で、いつも有効に機能しなければならない。しかも、部品は小さい。毎日の分解手入れと破損・摩耗した部品の交換を専門的知識のない一般兵卒が行なうのが軍用銃の宿命でもあった。
 生産にあたったのは東京砲兵工廠の小銃製造所(現在の北区十条)である。開戦時においての歩兵銃の陸軍全体での保有数は以下の通りだった
(いずれも概数。『戦役統計』)
(1) 各師団・旅団には、30年式19万7000、村田連発銃32、村田単発銃11万3000、その他2000、合計31万2000挺である。
(2) 憲兵隊・要塞には、村田連発銃2万8800、村田連発銃600、合計2万9400挺。
(3) 教育総監部・学校には、30年式1600、村田連発銃130、村田単発銃20、その他430、合計2200挺。
(4) 兵器本廠には、30年式5万2000、村田連発銃9万5000、村田単発銃3万7000挺、その他10万8000、合計29万2000挺。
 保有の割合では、全小銃数のうち約40%が30年式、村田連発銃が20%、村田単発銃が24%である。騎兵銃は全保有数が約5万挺、うち30年式が60%、村田連発騎兵銃が20%を占めていた。
 30年式歩兵銃・騎兵銃の制式の制定は1898(明治31)年2月、生産開始は10月。それから1904(明治37)年1月までに28万挺あまりを生産している。平均の月産数は4460挺である。開戦を1カ月後に迎える1月は12時間操業で月産6500挺、24時間のフル稼働では1万挺になった。
 以下、小銃の生産については(2)で細かく説明する。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2016年(平成28年)2月10日配信)