戦う近代日本・日清戦争

兵站勤務令の制定

 1889(明治22)年、『野外要務令草案』が作られた。また、91年(明治24)年には、『野外要務令』が制定され、『兵站勤務令草案』も発表された。この兵站勤務令は5つに分かれていた。『戦時輜重兵大隊勤務令』、『弾薬大隊勤務令』、『架橋(がきょう)縦列勤務令』、『輜重監視隊勤務令』と『兵站糧食縦列勤務令』の5つである。
 手元にある野外勤務令の中の歩兵大隊大行李の編制を見る。荷物駄馬9頭(以下同じ)、炊事具駄馬8、糧秣駄馬13、予備駄馬2の馬は合計で32頭。「尋常糧秣」は精米6合、塩もしくは梅干、魚菜類若干。「携帯糧秣」が「糒(ほしい)」2日分、ただし1日分は3合。食塩若干、状況によって糒の代わりに「乾麺麭(かんめんぽう)」ないし精米とある。また、単位ごとの携行糧食の分類と保有日数が示されている。それによると、携帯糧食は2日分、大行李1日分、兵站縦列3日分の合計で6日分になる。
 尋常糧秣は野外炊事具を使って給食する。各大隊には「戦用炊具」といわれた竈(かまど)と鍋がある。歩兵大隊では大行李の中の炊事班が調理給食を行なっていた。各師団では、前に書いたように6日間分をもち、軍の兵站縦列が大行李への補充のために3日分をいつも保管していた。
 ここで給食のシステムをまとめれば、兵站監の隷下の兵站縦列(中隊規模)が大行李の使う尋常糧秣を補給する。大行李が各中隊の炊事班に食材を供給し、それを戦用炊具で調理した。できあがった食事を各兵に支給するということになる。こうした食糧を運搬する大行李の中の「糧秣駄馬」は主食駄馬8頭、副食駄馬3頭、馬糧駄馬2頭の合計13頭が編制になっていた。この歩兵大隊大行李には、歩兵のほかに輜重兵下士が1名、輜重兵卒が4名、輸卒が60名くらい配属されていた。

日清戦争は初めての大動員だった

 日清戦争では、近代日本始まって以来の大規模動員が行なわれた。国内各地の聯隊や大隊が海を越えて出征していった。その動員計画は、ち密かつ膨大なもので、全国各地の駅から鉄道を使って乗船地へ向かうことになった。東京の近衛師団は東京の青山(師団司令部所在地)から広島まで569.96マイル(およそ900キロメートル)を44時間で移動した。同じく第1師団でも群馬県高崎の第1歩兵旅団第15歩兵聯隊は629.79マイル(同1000キロ)を50時間で移動した。第2師団の歩兵第5聯隊は最長区間の青森・広島間の1020マイル(1600キロ)を78時間あまりで走り抜けている。近衛・第1・第2・第3師団と第4師団は広島・宇品に向かい、第6師団1次隊は熊本・門司の120マイル(190キロ)を7時間半で動いた。
 近衛師団の移動した総人員は約1万8000名、馬匹3800頭、それらが61個の列車に分乗し、客車およそ500、貨車1000輛を使った。6日14時間22分で広島に着いている。第1師団は8日半、第2師団は9日半、第3師団は17日10時間、このような長時間の移動は10年後の日露戦争に比べるとひどくゆっくりしていた。動員完結までの時間の違いも大きかったからだろう。道路事情も悪く、人馬が召集された部隊に集まるまでの時間も多くかかったからだ。
 もちろん、広島県宇品港、福岡県門司港、小倉港からはチャーターされた民間船舶が朝鮮へ向けて出港した。その数は2000トン以上の大型船が8隻、1000トン以上の中型船は61隻、1000トン未満の小型船は43隻が使われた。登簿トン数は合計で約13万4000トンだった。
 この時の動員計画は1893(明治26)年に改正された戦時編制によるものである。戦時には現役・予備役・後備役の者で野戦隊・守備隊・補充隊を編成する。また、必要に応じて国民軍を召集・編成することとされた。当時の徴募組織は1888(明治21)年の勅令によって定められた師団司令部条例、旅団同、大隊区同によっていた。師管区は2個の旅管区に、1個旅管区は数個の大隊区に区分されている。のちに大隊区は聯隊区に改められた。
 開戦の決定とともに、兵站糧食縦列を増やして2個縦列とした。そのほか、動員計画にはなかった部隊を編成しなければならなかった。面倒だがすべてを列挙してみよう。まず、開戦の年、6月からつくられたもの。
 ・臨時攻城廠縦列(大陸式の城壁に囲まれた都市への攻撃が予定されたため)
 ・第1・第2電線架設(がせつ)支隊(兵站総監の隷下)
 ・臨時南部兵站電信部(南部兵站監の隷下)
 ・臨時東京湾守備隊司令官(第1師団長が区処する)
 ・臨時東京湾守備砲兵隊(臨時東京湾守備隊司令官の隷下)
 ・臨時下関守備隊司令部(第6師団長の隷下)
 ・臨時長崎守備砲兵隊(長崎守備歩兵大隊長の隷下)
 ・下関水雷布設部(下関守備隊司令官の隷下)
 続いて9月以降には、第1軍所属の予備砲廠、同じく第1軍の臨時攻城廠、第2軍所属の臨時攻城廠がそれぞれ1個、第2軍兵站電信部が編成された。また、軍馬の徴発、買い入れなどに役立たせるために各師管区の中に1個ずつ臨時予備馬廠を開いた。大本営所属の臨時測図部(地図を整備する部隊)もおくことになった。

兵站監と隷下部隊

 全野戦軍の兵站を統括するのは野戦兵站総監になる。このときの野戦兵站総監は参謀本部次長として名高い川上操六中将(1848~1899)であり、兵站事務、運輸通信事務、野戦監督事務、野戦衛生事務を統理(統一しておさめること)した。大本営の総監部には参謀・運輸通信長官・野戦監督長官・野戦衛生長官や管理部長などの職員がいた。これらは平時職からそのまま戦時職に移行した。たとえば陸軍省経理局長が戦時補職として野戦監督長官になり、衛生部長が同じく野戦衛生長官になった。運輸通信長官は、鉄道・船舶・車馬などで行なう運輸と電信・郵便の事務を統理する。監督長官は野戦軍に関しての会計事務を統理する。衛生長官は野戦軍に関する衛生事務を統理した。
 野戦軍では師団の上に軍がおかれた。この軍ごとに兵站監部がある。長官は兵站監で、その下には参謀長・兵站監部・兵站輜重と兵站司令部があった。兵站監部は憲兵・法官部・監督部・軍医部・兵站電信部で構成された。監督部は糧食や馬糧を担当する糧餉(りょうしょう)部と物資の調達業務や現金を扱う金櫃(きんき)部に分かれた。
 兵站輜重はその編成は多様だった。現地軍の実情に合わせたためである。戦闘序列によって第3師団と第5師団は第1軍軍司令官山縣有朋大将の隷下にあった。その表を見てみよう。軍参謀長は小川又次少将、砲兵部長黒田少将、工兵部長矢吹工兵大佐、第3師団長は桂太郎中将、第5師団長は野津道貫中将である。この第1軍の兵站監は陸軍少将塩屋正圀、参謀長は歩兵中佐竹内正策。塩屋少将は砲兵出身、のち中将に昇任、日露戦争では留守第7師団長を務めた。以下、( )内は団体の個数になる。
 野戦砲廠(2)、野戦工兵廠(2)、砲廠監視隊(2)、輜重監視隊(4)、衛生予備員(2)、衛生予備廠(2)、患者輸送部(3)、兵站糧食縦列(2)、それに兵站司令部(1)という構成だった。砲廠監視隊は技術系統の勤務者が多い砲廠を護衛する部隊である。衛生予備員というのは戦地定立病院ともいう。師団隷下の部隊である野戦病院とは違っている。あとになると兵站病院に統合されることになった。

戦病死者が戦死者より多かった衛生環境

 のちに詳しく「脚気(かっけ)と兵食」の項で述べることになるが、日清戦争の人的損害は死亡者数2万159名だった。うち軍人・軍属の死亡者数は1万3488名である。さらにそのうちで戦闘死者、戦傷死者は1417名にしか過ぎなかった。死者全体の10.5%である。では残りの9割の死因はどうだったのか。『日清戦役統計』から見てみよう。
 腸チフス患者数2587人(うち死亡率29%)、コレラ4241人(同58%)、マラリア5691人(同5%)、赤痢7213人(同12%)、脚気1万7546人(同6%)、肺炎324人(同16%)、急性胃腸カタル6325人(同10%)である。
 実は、「脚気」は大騒ぎされている割には戦場で脚気と診断されても、死に即つながるというものではなかった。危険だったのは2500人近くが亡くなったコレラであり、700人以上が死んだ腸チフスである。これら伝染病と比べると、死者の絶対数は確かに987名と多かったのが脚気である。しかし、罹患者数が多かった割に死者が少なかったのも事実というしかない。
 ここで、衛生関係の兵站のシステムを整理しておこう。1894(明治27)年6月10日に仮制定された「戦時衛生勤務令」によって定められた表を見ておきたい。戦時陸軍衛生各部の系統は次のようになる。
 平時職の陸軍省衛生部長は明治27年現在、少将相当官の軍医総監だった。これが中将相当官に格上げされるのは1897(明治30)年のことだった。日清戦争時には大佐級の軍医監以下、1等軍医正(中佐級)、2等軍医正(少佐級)と1等・2等・3等軍医(大・中・少尉)が軍医官である。また、薬剤官は最高官等が少佐相当官の薬剤監であり、下士には曹長相当の1等看護長から3等看護長まで、同じく1等調剤手から3等同(伍長相当)までがいた。
 野戦衛生長官の下は2系統に分かれる。まず、軍司令部のスタッフである軍軍医部長、その下には師団軍医部長、混成旅団軍医部長が続き、師(旅)団軍医部長は「隊属衛生部」、「衛生隊」、「野戦病院」を統理した。隊属衛生部とは各聯隊・大隊についている衛生部員である。聯(大)隊本部には2名の、各大隊には1名ずつの軍医がいた。ほかに衛生下士官である看護長や兵にあたる看護手、補助看護卒がいる。衛生隊は衛生関係者の部隊ではなく、各兵科から差し出された戦時だけの部隊になる。担架をかついで前線から負傷者などを後方へ運ぶのが仕事である。野戦病院というのは、そうした建物があるような整備されたものではない。最前線で応急処置をされた患者を、後方の兵站病院に送るまでの処置をする部隊である。病院長は少佐相当官か大尉同の医官だった。
 もう1つは兵站軍医部長の系列である。兵站軍医部長は中佐相当官である1等軍医正が任じられるのが普通だった。その下には、「兵站司令部附衛生部」、「兵站病院」、「衛生予備員」、「衛生予備廠」、「患者輸送部」、「鉄道輸送」、「水路輸送」という各部署がついた。ところで、NHKが製作したドラマ「坂の上の雲」の中に戦地に記者として出かけた正岡子規の前に第2軍兵站軍医部長の森鴎外が軍衣の上に医師の白衣を着て現われた。軍兵站軍医部長が司令部で白衣を着たとは思えない。分かりやすくするための演出だろう。
 1894(明治27)年8月末に鴎外は「中路兵站軍医部長」に補された。9月4日に朝鮮釜山に上陸した。中路というのは、釜山から京城を結ぶ道路のことで延長はおよそ400キロメートルになった。これを中路兵站線といった。鴎外はその兵站監部の軍医部長だった。このとき、鴎外は石黒野戦衛生長官あてに報告書を書いている。まず、道路事情や兵站病院、伝染病舎、患者宿泊所の設置状況だけでなく、兵站線上の飲用水の供給の状況、兵站軍医部の職員配置、仮舎・天幕の設置状況等である。兵站軍医部長の仕事とは、こういう幅広いものであったのだ。

輸送の主体は雇い人夫だった

 日清戦争では兵站部も、野戦部隊でも糧秣輸送の多くは雇いあげの人夫の力が主力になった。各師団の輜重兵は主として歩兵聯隊と行動する野戦輜重兵である。兵站にはほとんど回ることはなかった。10年後の日露戦争では輜重輸卒を多くそろえ、輜重助卒隊なども編成したが、この時には民間人の雇いに頼ることになった。
 その総数はおよそ15万2000人(ただし、うち2万3000人は職工・とび職等)にもなる。外地に出征した現役軍人が8万4000人、予備役5万9000人、後備役3万1000人の合計17万1000人(すべて概数)に対して、その9割近くにものぼる民間人が戦地に立ったのである。
 また、道路輸送の主体は駄馬だった。朝鮮と清国の満洲南部の道路の整備状況はひどく悪く、車両編成部隊は駄馬をつかうことにした。野砲編成の砲兵部隊も急きょ、駄馬による山砲編成に変えることになった。兵站輸送も輓馬による車輛牽引から駄馬に、さらには人夫による運送に切り替わった。おかげで国内の馬の徴発や購入は約3万頭で済んだ。日露戦争時の16万頭あまりに比べると、国内の生産活動にも負担はかけなかったといえる。
 次回は日露戦争についてまとめてみよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2016年(平成28年)1月20日配信)