日露戦争を目指して

陸軍の拡張へ

 日清戦争(1894~95年)で当時の日本円に換算して3億4400万円の賠償金を得た我が国は、次の戦争に備えた。独・仏・ロシアの三国干渉から得た教訓とは世界は強欲であって、力を持つものだけが正義だという残酷なものだった。さらに南下するロシアの勢力は生命線もおびやかすものと考えられた。
 賠償金のうち約7900万円は戦費、臨時軍事費の補?に向けられた。5400万円が陸軍の拡充に、1億2500万円が海軍の建艦費などに回された。また、5000万円が来る戦争に備えての備蓄となった。それまでの陸軍省の歳出経常費のうち、軍事費は毎年、約1100万円あまりだったものが、日清戦後から1903(明治36)年までは約3倍の3200万円に増えた。正確な比較は難しいが、およそ1円を現在の1万円とみると、その巨額さが理解できるだろう。一般会計に占める軍事費の割合も、平均して27%あまりが39%になり、国民総生産に占める割合も2.27%から3.93%へと大きくなった。
 陸軍の拡張は1898(明治31)年の常備団隊配備表の改正で始まった。これまで近衛師団の充実は後回しにされて、通常師団に比べて実質6割しか戦力がなかった近衛師団もほかの師団と同じ編制とされた。さらに加えて、6個師団と騎兵旅団、野戦砲兵旅団をそれぞれ2個新設するとした。
 野戦砲兵の火力も充実し、騎兵の増加は機動力と情報収集能力を向上させ、工兵の兵力も増え、築城・架橋・通信などの技術力も高まった。陸軍の伝統だった火力重視は新しい連発小銃の採用、新型速射野砲の開発・整備として花開いた。野戦騎兵旅団と砲兵旅団の新設は、大きな機動兵力と大火力を運用しようとする新しい編制思想の表れだった。
 新設された師団と歩兵聯隊の数を見よう。北海道の第7師団は、すでに戦時中に屯田兵を基幹とした臨時旅団から正規の常設師団に昇格していた。ほかの第8から第12までの5個師団は1898(明治31)年には増設がされた。歩兵聯隊は20個にのぼる。開戦時には近衛を含めて合計13個師団になっていた。師団は司令部に2個歩兵旅団(4個聯隊)、騎兵聯隊、野戦砲兵聯隊、工兵大隊、輜重兵大隊になる。師団騎兵聯隊は乙編制といわれ3個中隊である。砲兵聯隊には野砲(輓馬)、山砲(駄馬)の2つがあり、第5、第8、第9、第10、第11、第12の各師団が山砲を装備した。第7師団は混合、ほかの師団は野砲編制だった。山砲は野砲を軽量化して、分解して馬の背に載せたり、人力でも運べたりするようにした砲である。道路が整備されていない戦場に向いている。砲兵聯隊は2個大隊で各3個中隊、合計36門の砲を装備した。工兵大隊は3個中隊だった。
 近衛師団と第1師団の所管には騎兵旅団、野砲兵旅団がそれぞれ1個ずつあり、近衛師団には鉄道大隊も1個おかれていた。騎兵旅団は甲編制といわれた4個中隊の騎兵聯隊2個があり、野戦砲兵旅団は3個野戦砲兵聯隊(合計108門)である。このほかに要塞防衛のための要塞砲兵聯隊が5個と4個大隊があった。そして、長崎県対馬には警備歩兵大隊がおかれている。外地に派遣されている部隊は台湾に2個守備混成旅団、基隆、澎湖島に各要塞砲兵大隊、韓国駐箚部隊、清国駐屯軍などがあった。これらの外地にある部隊は、みな内地の師団から交代で派遣された。台湾守備混成旅団は2個合わせて11個の歩兵大隊を持っていたが、近衛と第7師団を除く11個師団から送られた部隊である。つまり、44個の歩兵聯隊から1個中隊ずつ選ばれた混成大隊だった。

当時の兵役制度

 戦時中に5年間の後備役が10年に延長されるまで、陸軍の兵役は現役3年、予備役4年4カ月、後備役5年だった。徴兵検査を受験する者を「壮丁(そうてい)」といった。これは徴兵検査が行なわれる年の前年12月10日からその年の11月30日までに満20歳になる戸籍法の適用を受ける男子だった。戸籍法の適用を受けるとは日本帝国臣民のことであり、のちになってもある時期まで、外地の総督府の管轄下にある「民籍」の適用を受ける人、朝鮮人や台湾人には兵役義務はなかった。壮丁の生まれ月も注意してほしい。4月2日生まれから始まる学校の学年とは異なっている。また、予備役の4カ月の端数が付くのは、これも予算年度と動員年度の違いによるものだ。現役兵の満期後の除隊は11月30日であり、動員年度は4月から始まる。新兵の基礎教育期間は4カ月であり、その間は一人前の兵員としての能力がない。動員が1月から3月までに起きた時、除隊したばかりの予備役兵卒を召集できるようにするためだ。
 徴兵や召集などの兵事行政は、内務省管轄下の地方行政単位の道府県とは別に、師管区によって行なわれた。師管区の首席徴兵官は師団長である。師管区は2個旅管区、各旅管区は2個聯隊区に分かれた(第1師団だけは8個聯隊区)。ただし、近衛師団長だけは師管区を持たない。ふつう同じ聯隊区に属する若者は同じ歩兵聯隊に入った。郷土聯隊と親しまれたのはここからくる。ほかの特科隊、騎兵聯隊・工兵・輜重兵大隊へは師管区全体から選ばれた。近衛歩兵聯隊だけは全国区からの選抜である。天皇陛下の身近に勤務し、警衛、儀仗に従事する。地方の名士や健全とされた家庭の若者から選考された。名誉とされた立場だった。ただし、近衛騎兵、同野砲兵、同工兵、同輜重兵などはほかと同じ、第1師管区から集められた。また、誤解があるが、予備役に編入されてからの召集は一般部隊へ入営することも珍しくなかった。
 離島の壮丁の徴集(現役か補充兵か、国民兵役か服役の種類を決定する行政用語)の担当区(警備隊区)も説明しておこう。小笠原(第1師管、以下数字は師管番号)、佐渡(第2)、隠岐(第5)、沖縄(第6)、奄美大島(第6)、対馬(第12)、五島(第12)であり、沖縄と対馬以外は麻布聯隊区─小笠原警備隊区、柏崎聯隊区─佐渡警備隊区、浜田聯隊区─隠岐警備隊区、鹿児島聯隊区─大島警備隊区、大村聯隊区─五島警備隊区という関係だった。例外は対馬警備隊区の入営兵は対馬警備歩兵大隊に、沖縄警備隊区の兵は歩兵のみであり、第6と第12師管の歩兵聯隊に分散して配属されることとなっていた。
 また、第1師管区だけは8個の聯隊区に分かれた。これには理由がある。もともと近衛にも師管区があった。1896(明治29)年に聯隊区制度が始まったとき、本郷、宇都宮、佐倉、水戸の各聯隊区を所管した。それが1899(明治32)年に近衛歩兵を全国からの選抜にするときに近衛師管区は廃止され、4つの聯隊区は第1師管区に編入されることになった。それで第1師団だけは8個の聯隊区をもつようになったのだ。北海道の第7師団は人口が少なかったため、第1、第2、第8の各師管区からも兵を集めた。

兵事行政の系列

 それぞれの師管、旅管、聯隊区で2つの府県にまたがる地域を持つこともあった。逆に1つの府県が2つの師管に分かれることもあった。しかし、当時の町村を集めた郡が2つの聯隊区になることは一部の例外を除いてなかった。その珍しい例が北海道にあった。北海道の空知郡が札幌聯隊区であるのに、空知郡富良野村だけが旭川聯隊区に属しているのだ。これは動員・召集の場合を考えた特別措置だった。当時、富良野へは旭川とは官営鉄道で結ばれていたが、滝川から空知川に沿って富良野へ通じる鉄道がなかったからである。
 聯隊区司令官(ふつう兵科大佐)は兵事行政については直接に郡や市を管轄していた。兵事行政については、陸軍大臣─徴兵官の首座である師団長─聯隊区司令官─郡(市区)長─町村長というラインになっている。聯隊区徴兵官は司令官と郡市長や島司が務め、司令官が首座となり、徴募区(市あるいは郡のすべてが1つになった)をとりまとめて管轄していた。
 毎年、徴集される現役兵と補充兵の人員数は陸軍大臣が天皇の決裁を受けて師団長におろす。師団長は聯隊区(警備隊区)司令官に人員を配当する。司令官は徴募区、市や郡に割り当て数を通知した。徴兵検査までの手続きは町村長が戸籍簿から兵事掛を使って適齢者名簿を作る。法律に指定された学校の生徒・学生ならば、戸主がその申請書を提出した。「徴集猶予」を願うためである。できあがった「壮丁名簿」は2月25日までに郡長に提出される。郡長はそれを点検後に徴募区にまとめて聯隊区徴兵署に持っていった。
 徴兵検査はこの徴兵署の管轄だった。身体検査を行ない甲種・乙種の合格者は順序を決めるために籤(くじ)を引いた。現役兵・補充兵・要員超過の3つに分けるためである。現役兵は12月1日に指定された部隊に入営することになった。日露戦争のころの毎年の壮丁数はおよそ40万人だった。甲種・乙種の合格者はおよそ全体の35%ほどで、丙種(身長5尺未満など・約30%)は国民兵役に編入された。ただし、徴集率は14%くらいだった。
 兵事行政の特徴は、いま見てきたように、道府県を飛び越えて直接郡市区町村に直結することである。このことは戦時になると、動員・召集の事務とあわせて大きな負担を郡市区町村の担当者たちにかけることになった。
 四国はその名の通り、律令体制以来、4つの行政区分が残っていた。おかげで第11師団(初代師団長は乃木希典中将)は一般行政と兵事のそれがシンプルな結びつきを示している貴重な例である。つまり師管区は四国全部であり、松山(歩兵第22聯隊)は愛媛県全部、高知(歩44)は高知全県、丸亀(歩12)は香川全県、徳島(歩43)は徳島全県だった。管区と行政区域がまったく一致するのはこの師管区の特徴である。

後備旅団について

 前にも書いたが師団は動員された結果、戦時編制になる。各部隊は戦時編制になり召集された人員が増え、装備も運び込まれる。さらに野戦部隊、兵站、後備隊、留守部隊などを編成する。野戦部隊は人員・装備も充足した戦闘部隊と兵站をいい、これとは別の兵站があることは前にも説明した。留守部隊は留守師団長のもとに勤務する補充隊などの諸隊をいう。それでは後備隊とは何だろうか。
 後備の諸部隊は日露戦争の時には第1次から第2、第3の編成があった。第1次は近衛師団、第1から第6師団で行なわれた。これらは各兵科にわたった。第8から第12までの師団では、後備歩兵聯隊と後備工兵中隊が編成された。第7師団だけは4個歩兵聯隊がそれぞれ後備歩兵1個大隊を編成するだけにとどまった。第1次の後備歩兵聯隊は野戦師団の歩兵聯隊と同じナンバーを持ち、聯隊旗の総(周囲を囲むふさ)が現役の紫に対して緋色だった。そして現役聯隊が3個大隊編制だったのに対して2個大隊つまり8個中隊である。後備歩兵聯隊は3個で後備歩兵旅団を構成した。つまり現役歩兵旅団が2個聯隊・6個大隊に対して、後備は3個聯隊・6個大隊だった。後備旅団の番号は編成を担当した師団の番号を使った。近衛後備歩兵旅団は近衛後備第1歩兵聯隊、同第2、同第3で編成されていた。同じく、後備第1歩兵旅団は、後備歩兵第1、同15、同16の各聯隊である。全部で10個旅団が生み出された。
「花の梅沢旅団」と謳われた近衛後備歩兵旅団は1904(明治37)年11月には2個聯隊編成だったのが、後備野戦砲兵大隊・後備工兵中隊を配属され混成旅団になった。その後、さらに後備歩兵聯隊を1個増やされた。同じように、ほかの旅団も次々と混成旅団になっていった。
 第2次の後備隊は第49から第60までの後備歩兵聯隊(3個大隊編成)で構成された。第3次は第61、同62の2個聯隊(2大隊編成)をはじめとして、第13から第16までの後備歩兵旅団に編合された。
 動員された後備歩兵大隊は合計137個にものぼり、現役歩兵大隊数の156個にもせまる勢いだった。後備騎兵中隊も8個、野戦砲兵も27個中隊、工兵中隊も19個にもなった。このように、日露戦争は用意された現役兵だけの戦争にはならなかった。

長大な補給路とその維持

 ロシアは遠くヨーロッパから単線のシベリア鉄道に補給を頼らねばならなかった。わが国は距離こそ近いけれど、海を越え、やはり陸路の苦労も絶えなかった。結局、それは両軍ともに兵力を集中すること、
軍需物資の補給に大きな努力を必要とすることになった。両軍の前主力を結集して短期決戦を企画しようとも、その必要条件の達成は難しく、速戦即決型の戦争も不可能だった。だから、一定の兵力の集中を待って小規模の会戦をくり返すという戦争しかできなかった。
 兵力を集中しようとしても、長く、不安定な輸送路に頼らねばならない。補給の苦労は大きなものだった。長く続く消耗戦は物資だけではなく、人員の損耗を補充する必要もある。そのための補充隊や教育部隊の整備、要員の養成、人はどれだけいても足りなかった。日清戦争では後方の警備だけをしていればよかった後備部隊も、現役師団と肩をならべて野外決戦に臨まねばならなかった。当時のわが国は厳しい生活環境の中で、30歳にもなれば農山漁村では「中老」といわれていた。後備兵役が10年に延長され、37歳の当時では初老のベテランが戦野で活動したのである。
 次回は、当時行なわれた「壮丁教育調査」から見た陸軍を検討しよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2016年(平成28年)1月27日配信)