兵站の定義について

言い換えができなかった兵站という用語

 戦後、軍隊ではないとしてスタートした自衛隊、兵や軍という言葉は決して使われなかった。その代わりいろいろな言い換えを考えた。警察予備隊の初めのころ、歩兵は兵という言葉を使ってしまうと軍隊になる。そこで普通科と呼ぼう。砲兵は特科だ。工兵は施設科、憲兵は警務科、騎兵はなくなったが機甲科にすれば兵は使わなくてすむ。輜重兵は物資を運ぶのだから輸送科にしてみよう。そういった工夫がされて現在につながっている。もちろん、すべての言葉の言い換えなどは面倒なもので、特車といわれたタンクはいつの間にか戦車となったし、管区隊は師団となり、混成団は旅団となった。
 階級名も同じ工夫がされた。1950(昭和25)年に発足した警察予備隊では警査(兵)、警察士補(下士官)、警察士(尉官)、警察正(佐官)、警察監補(いまの将補)、警察監(同じく将)とした。査というのは明治初めに採用された巡査の言葉からきている。これを1等・2等・3等と細かく分けた。ただし当初、3等警査と3等警察士もなかった。現在の3等陸尉(少尉)が作られたのは1952(昭和27)年3月からになる。補というのは「次ぐ者」ということで、いまも警察官には警部補というランクがある。これは警察予備隊だから元の身分が警察官だからそれでよかった。
 次いで保安隊(1952年)と海上保安庁の海上警備隊が別々に存在していた。防衛2法といわれた防衛庁設置法と自衛隊法が1954(昭和29)年6月に国会で可決された。これで陸・海・空の3自衛隊が発足する。階級名も昔ながらの将官、佐官、尉官が復活し、下士官も曹で統一され、兵だけは士となった。ただし、陸自には軍曹はなく陸曹がいる。海自は兵曹がいなくて海曹といい、空自には空曹という名称がある。軍隊ではありませんが、似たような武装組織ですといった思い入れがあったに違いない。ただし、律令体制(8世紀)からの伝統ある大(つかさどる)、中、少(助ける)といった3区分が士官には使われず、1・2・3等となっていることはよく知られている。
 自衛隊らしい名称は、海空自衛隊も事情は同じで駆逐艦やフリゲートは護衛艦と言い換えられた。空自の対地攻撃機は支援戦闘機などと今でも言われている。兵器とは言えないから武器といい、陸自の戦略単位の名称も初めのころは昔の軍隊をイメージしやすい師団を使えず管区隊といった。駐屯地の警備などにあたるのは警衛隊であり、衛兵隊ではない。
 しかし、どんな言葉でも言い換えができたわけではなかった。今でも自衛隊で堂々と「兵」が使われている。それは「兵站」という単語である。適当な新しい言葉が見つからなかったらしい。兵站とは単に補給、輸送、整備などという狭い範囲の考え方の集合体ではないからだ。元の言葉は英語のロジスティクス(Logistics)である。自衛隊ではこれを「後方支援」と訳語を使うからだろう。職種(これも言い換えだが、兵科のことをいう)でいえば、輸送、衛生、武器、需品などの専門家で構成される後方支援連隊(師団)、後方支援隊(旅団)という部隊がある。英語の名称では連隊はロジスティクス・レジメントであり、隊ではユニットを使っている。
 防衛研修所の定義によれば、「兵站」を『戦争を遂行するために必要な人的戦闘力と物的戦闘力を造成・維持・発展させ、もって戦争手段を提供する軍事活動をいう』としている。
 自衛隊ではこれをさらに具体化して、補給・整備・輸送・建設・衛生・人事および行政管理とする。
 具体化といっても、われわれ普通人にとってはこれだけでは分かりにくい。そこで陸軍が行なっていた説明を参照してみよう。日本帝国陸軍にとっては、戦地へ出動している野戦軍と国内の策源地との間に、必要とする物資の物流ラインとシステムを構築・維持することをいった。まず、物資の調達やその保管・管理、搬送・配送などを行なう拠点の確保がある。次に、搬送手段(船舶・鉄道・車輛・馬など)、それらを支える通信連絡網、必要な設備や機材、これらを実際に運用する人の組織(部隊・機関)などのシステムの全体を「兵站」とまとめていた。
 1930(昭和5)年といえば、陸軍が新しい「昭和2年度動員令」を策定したすぐ後のことだが、『兵站綱要』には次のように書いてある(元は旧漢字カタカナ混じりのもの。現代語に書き直す)。 『作戦軍と本国における策源とを連絡し、その連絡線に所要の設備を施し、必要の機関を使用し、これによって軍需をみたし、障害を排除し、それによって作戦軍が目的を遂行できる様々な施設や、その運用をいう』
『陣中要務令』には「兵站勤務」の項がある。これを見ると、さらに理解が容易になるだろう。これも分かりやすく箇条書きにする。
(1)馬匹、軍需品を前線に送ること。
(2)補給作戦に必要がない人馬、物件の収容とそれらを後方に送ること。
(3)交通する人馬の宿泊や給養と診療その他を行うこと。
(4)野戦軍の後方連絡線の確保をすること。
(5)戦場に遺棄された軍需品の収集と修理・再生すること。
(6)戦地においての諸資材の調査利用と民生へも関与すること
 実際に砲火を交えている戦場の後ろには、こうした広大で奥行きもある複雑なシステムが広がっていた。損耗した人員と軍馬の補充は常に行なわれた。内地の留守部隊の教育隊からは補充の兵員が続々と送られる。軍馬も送られてくる。負傷兵や傷病馬は前線から後送されてくる。当面する戦場の実態に合わなくなった装備・資材も転用や保管のために戻ってきた。移動途中の人馬もいる。そのための兵站宿舎や病馬廠、病院なども設置する。輸送路である鉄路や道路、水運路なども警備、維持、確保が必要である。遺棄され回収された軍需品、鹵獲品、兵器や装具、糧秣(りょうまつ)などもあった。修理・再生する貨物廠や兵器廠といった施設もある。糧秣補給は兵站勤務員ばかりか移動する人馬へも用意しなくてはならない。
 このように、兵站は単に人を送り、物を運べばいいというような簡単な話ではない。軍隊の活動、それは主に戦闘だが、部隊の行動に支障がないように必要な時と場所に必要とされる人と物と、それらに必ず付きまとうサービスを合わせて配分することをいう。
 陸上自衛隊の需品科の仕事を「宿屋のオヤジ」だという説明の仕方がある。食わせて、眠らせ、服を着せるという役割を上手にたとえたものだ。給食設備、野外入浴セット、野外洗濯機、浄水機などの需品科部隊の主要装備は災害派遣などでも知られるようになってきた。これらの仕事は昔の陸軍では主に経理部将兵の仕事だった。物資や弾薬を運ぶのは現在では主に輸送科が行なっている。昔は輜重兵の業務になる。輜重兵は輸送を任務とし、配分を行なうのが経理部の担任とおおよそ理解してもいい。
 いくら陸上自衛隊が軍隊ではないといっても、いったん戦えば、昔の陸軍となんら変わらない事態に出会うことだろう。病人も出るし、負傷者や死者も出る。弾丸は撃てばなくなるし、トラックや戦闘車輛も
損傷する。食糧や燃料、水の補給は止められない。衛生環境や装備も整えるのは当然である。これらについては、自衛隊は過去のPKOなどの実績から多くを学んできている。これまで1件の重大な事故が起きていないのは、その賜物であり、われわれ国民もそのことは誇ってもいい。
 近頃の安全保障法改正にからめて、戦争に巻き込まれる恐れがあるなどと安易に発言する人がいる。ところが、実際のところ、戦争を支える兵站は複雑かつ面倒なもので、他の国家機関や民間企業との協力関係が不可欠なものだ。だから、自衛隊だけで戦争ができるというものではない。軍人は、あるいは自衛官は戦争をしたがるなどと語る人もいるが、戦争をよく知る自衛官は現在のような体制で安心して戦えるとは思っていない。

海外派兵を支えた「動員」

 昔の陸軍では軍隊が戦時態勢をとり、編制も変わり、物資も十分に用意される状態を『動員』といった。部隊の定員は大きくふくれ上がり、装備品も十分に支給され、軍需品が大量に必要になる。平時定員と戦時のそれの間を埋めるのは予備役や後備役の将兵の召集である。陸軍は1927(昭和2)年の兵役法から現役2年、予備役5年4カ月、後備役10年という服役制度をとった。予・後備役に編入された人たちは厳重に管理され、毎年、「在郷軍人名簿」の記載も実態に合わせて改訂されていた。もちろん、演習召集や観閲点呼などという行事もあり、戦闘員としての戦力維持も図られている。
 召集業務を直接担当するのは各歩兵聯隊区にあった司令部だ。たいていが大佐を司令官として、徴兵検査、在郷軍人の管理などをする課に分かれていた。聯隊区司令官は動員担任官の一人として師団管区の責任者である師団長の指示を受けた。市役所や町村役場には専任の兵事係がいて、名簿の作成や改訂を業務としていた。召集令状の保管責任者は市では市長であり、町村では警察署長である。
 動員計画は参謀本部の作成する年度作戦計画にそって毎年作り変えられる。国際情勢を分析し、起こりそうな武力紛争を想定し、その際の使用兵力を決めておく。動員には(本)動員と応急動員があった。動員にはおおよそ2週間から3週間を必要とした。応急動員は動員の完結を待たずに対敵行動をとることに必要な一部要員(主に戦闘部隊)だけを充足させる。戦闘部隊を戦時編制にし、補給関係の諸隊は後から送る。これは3日間で完結させることになっていた。これとは別に、緊急時に行なわれる警急編成があった。平時の人員装備のままだが、とりあえず対敵行動をとれる態勢にする。応急派兵などともいわれたが、これは8時間で編成が完結した。
 1937(昭和12)年7月7日に北京郊外盧溝橋で起きた日支両軍の衝突は突然のことだった。もともとは条約に基づく権利で正当に駐屯し、演習を行なっていたわが陸軍の支那駐屯歩兵第1聯隊の部隊に対して何者かが実弾を撃ってきた。参謀本部は不拡大を主張したが、当時、平津地区には1万2000人の在留邦人がいた。平津地区とは北平(北京)と天津を合わせた地域をいう。この居留民を保護するのは当然である。しかも、中国軍は素早く兵力を移動させてきた。しかも、7月28日には通州で守備隊と居留民が合わせて142人が虐殺されるという事件も起きた。
 この時、動員が行なわれた。7月12日にはまず、朝鮮に駐留する第20師団と内地と満洲の航空部隊に動員が下令され、編成された臨時航空兵団が動き出した。27日、広島の第5師団、熊本の第6師団、姫路の第10師団に動員令が下された。
 このうち第20師団は充足人馬動員といわれる平時編制を定数通りにする規模のものである。朝鮮の第20、21の両師団は正規師団とはいえ、現役兵は内地の師管区からの割り当てにそった差し出し人員であり、いわゆる基盤がない植民地である。したがってふだんから治安維持に何とか対応する兵力しか備えていない。平時編制を満たすだけで手いっぱいだった。戦闘力も低く見積もられ、正規野戦師団の5割程度とされていた。
 第5と第6の両師団は応急動員だった。戦列兵だけを戦時定数にして送り出した。このとき、部隊の構成は現役兵と召集兵がほぼ同数であり、補給、衛生、輸送などの後方部隊は順々に定員が充足されていく。戦力はやはりフル編制の野戦師団の8割ほどになる。
 第10師団で行なわれたのは本動員である。このころの平時編制は人員が約1万2000人、馬匹1600頭だった。それが2週間あまりで約2万5000人、馬匹8000頭というものになる。結果的に、内地の3個師団だけで兵員が20万9000人、馬匹5万4000頭が動員された。
 この人員、馬匹、軍需品が各地から大移動して軍港に向かった。輸送機関の主なものは鉄道、当時は国鉄といわれた国有鉄道、いまのJRである。この運行計画を立て、民需を圧迫し過ぎないように調整する。参謀本部にはこの計画を立てるための鉄道輸送、船舶輸送、統制の専門家がいた。また陸軍省にも調整部署があった。列車の旅をする人員には行く先々で弁当を調達する。こうした場合、民間業者をあてにするのが普通である。そのゴミの処理もする。急病人やけが人への対応も必要だし、軍馬も輸送することになるから馬の世話もある。
 こうしたことから当時、軍隊が国外に出征するのはたいへんなことだった。少しでも計画と実行に狂いがあってはならない。陸軍では、『一兵、一馬の(召集された部隊への)到着』も厳密に管理されていた。この動員の担任者とされた各部隊の将校たちには身体を壊す人も多かったという。動員のそれぞれの種類に合わせた計画の立案をし、厳密な検閲までも毎年必ず受けていたのである。
 動員と兵站とは密接な関係があった。そして、戦うには兵站が必ず必要なものだった。
 次回は、戦後の通説、陸軍の「兵站軽視」といった批判が必ずしもあたらないことを説明しよう。
(あらき はじめ)
(2015年(平成27年)12月9日配信)