日露戦争・小銃、野砲、機関銃の製造

小銃の配当

 開戦時に約25万挺あった30年式歩兵銃は、うち20万挺が各野戦師団に配当された。定数は各師団1万5037挺、うち歩兵隊は兵卒用に9600挺である。30年式騎兵銃も約3万挺あり、騎兵隊、輜重兵隊が携行した。しかし、兵器本廠の保有数は歩兵銃5万2000挺、騎兵銃1万2000挺しかなかったので、後備諸部隊、兵站諸部隊、補充隊などはこの新鋭銃を持つことはできなかった。
 そこで、動員された後備歩兵隊、同工兵隊は保管されていた村田連発銃(22年式)、後備騎兵隊と同輜重兵隊は村田騎兵銃(22年式5連発・銃身が短くチューブ弾倉も短い)を配当された。輜重輸卒には4人あたりに1挺の村田歩兵銃(単発18年式・口径11ミリ)が支給され、戦時中の師団新設のための臨時特設部隊の歩兵・工兵は村田歩兵銃、騎兵・輜重兵には村田騎兵銃(単発)が渡された。小銃弾は6.5ミリと8ミリ、11ミリと3系統になり、そのぶん補給は複雑になった。それぞれの生産ラインは廃止できず、手入具などの調達・備蓄・追送・配布なども当然のことである。
 兵卒は銃の手入れ用具や交換部品も支給された。部品は「携帯予備品嚢(のう)」にまとめられ、兵卒に支給されていた。以下はその部品の名称と働きである。
 撃茎(げきけい・実包の雷管に激突して発射薬を発火させる先端が尖った太い針)、撃茎発条(コイル・スプリング、撃鉄を引くと解除された弾性で撃茎を突き出す。疲労による折損が多かった)、撃茎駐螺(ちゅうら・撃鉄に加えられた力を撃茎に連接する)、同発条(撃鉄を引いた後に復元する)、蹴子(しゅうし・空薬莢をはね出す)、抽筒子(ちゅうとうし・空薬莢を薬室から抜き出す)、弾倉発条(弾倉から実包を上部に送る)という多様なものだった。しかも、そのそれぞれには同じ番号が刻まれていた。微妙な摺り合せは工場で生産されたときに、熟練した職工が一つ一つ「やすり」で仕上げていたからである。
 これらの生産を受け持ったのは小銃製造所だった。現在も3自衛隊の補給統制本部がある東京都北区十条・王子付近は、元々そのほとんどが陸軍用地である。古い時代、幕末から火薬製造所が置かれたのも理由がないわけではない。まず、高台にあって人家が少ない。現在でも東北・上越新幹線の高架線路から見れば、目の上に台地の線が見える。上野忍ヶ丘から続く丘陵地の上に十条台はある。江戸時代を通じて畑地がほとんどだった。台地の下には滝野川の流れがあり、すぐ荒川に続いている。製紙業が発達したのもそのおかげである。水運の便もよく、それでいて人口が少ない。まさに火薬や兵器を製造するのに最適な立地だったのだ。
 そこで働く職工数は日露開戦の直前1903(明治36)年末で男工3800名あまり、女工200名あまりだった。当時、所長は砲兵中佐南部茂時、高級所員は南部麒次郎砲兵少佐、ほかに村田綱次郎陸軍技師(高等官)などがいた。村田技師は村田経芳(つねよし)の子息である。このほか、戦時になると高等工業出身者、帝国大学出身工学士で出征中の野戦部隊にいた者を探し出して戦地から召喚し、製造所に配属したこともあった。こうしたところが陸軍人事の硬直性を示すもので、貴重な技術者や医師資格を持った者も第一線の歩兵少尉で命を落とす者も珍しくなかった。小銃製造所もなんとか所長以下将校、技師など10人が集められた。
 中堅幹部は工長(技術下士)出身の技手(判任官)や上等工長(技術准士官)だった。彼らはそれぞれ工場長として鍛工場、銃身場、機関場、銃床場、修理場、旋工場を統率した。これに事務職として雇員や臨時傭人を配属していた。小銃の製造能力は初期の日産300挺から最後には10倍の数にも達した。職工だけで1万人という規模にもなった。新しく採用した職工は見習い期間をおいて、熟練者が中心になって教育し働かせた。
 開戦当時の平均日給は男工63銭、女工16銭という数字があるが、1円を使いでから見て、およそ現在の1万円とみて男子が6300円、女子は1600円になる。これは民間と比べて少しも低くはない高給だった。民間では平均日給男子で37銭、女子で12銭というのがふつうだったからだ。
 男工が25日間働き、諸手当がつけば手取りで月収18円ほど。妻と子供2人を養っても、1日の米飯代は夫婦で1升、子ども2人が5合として28銭5厘である。30日で8円55銭、長屋家賃が1円20銭(当時の板橋村仲宿の平均)、薪炭費1俵15キロで50銭、味噌・醤油その他が1円50銭としても合計でおよそ12円である。副食費、銭湯代や晩酌の一杯、女房の髪結や床屋代、被服費を払っても十分ゆとりがあったはずだ。子供たちが通う小学校の教員の初任給が12円、夏目漱石の「坊ちゃん」、中学教員の給料が30円ほどである。学歴としては小学校卒業者の職工の給料は高い方だった。
 1万人もの職工を集めた。当時、大阪砲兵工廠でも野山砲や攻城砲を造り、砲弾の大増産も行なわれていた。職工の不足は大阪でも変わらず人集めは続いていた。ついには争奪戦になり、敦賀(福井県)と伊勢湾(三重・愛知両県)を境に互いに募集を限るようになった。幹部も人不足になるのが当然で、看護卒や輸卒として服役していた高等工業卒業者や帝大出身者をまたまた探し出した。一時的に文官技師待遇者として入所させ、威厳を持たせるために階級相応の軍服を着せずに、洋服、フロックコートなどを着用させたという笑い話もある。こうしたことを反省点として、陸軍は戦後、真剣に動員制度を考え直すことになる。
 小口径弾薬の統一化、すなわち機関銃も歩兵銃も騎兵銃も同じ弾薬を使う方が、はるかに効率が良いことは当然である。そうしたかったができなかった。それでも30年式銃の生産は拡大し、前線に送られ続けた。全軍が6.5ミリの30年式実包を使うようになったのは開戦から8カ月後の沙河会戦(1904年10月)のころだった。
 なお、日本陸軍について不当な批判が続けられていることに苦言を呈しておく。戦後、ろくに事実も確かめずに欠点ばかりをあげつらう風潮があった。前にも述べた30年式、あるいは38年式歩兵銃の長さを白兵重視のために決定したといった誤認がある。また主力小銃が自動装填化されず、日露戦後の明治38年に制式化された槓杆式小銃であることを旧式の兵器で戦ったとあざ笑う。
 ではロシア軍はどうかというと、1891(明治24)年式を基本形にした槓杆式小銃をソ連になっても使い続けた。イギリス軍の主力小銃はやはり槓杆式の1939(昭和14)年式リー・エンフィールド小銃だった。ドイツ軍はやはり1935(昭和10)年制式のモーゼルKar98という槓杆式。アメリカ陸軍や海兵隊も大東亜戦争開戦時には1903(明治36)年式のスプリングフィールド槓杆式小銃だった。
 米軍のM1オートマチック・ライフルを世界標準だったと思いこむ人は、世界一の生産力と、その後方補給・兵站能力がそれを支えていたことを知らない。知ってはいても観念としてしか知らないのだろう。あの自動銃は恐ろしいほどの弾薬を必要とした。また、南方の地形・風土では多くの破損があった。米軍のジープはどんな地形でも踏破して前線まで小銃弾や補充の小銃を運んだ。それが米軍の、見方を変えれば浪費としか思えない小銃・機関銃火力の元になっていたのだ。

日清戦争の7珊(センチ)野山砲

 各師団にあった砲兵聯隊には野砲と山砲編制があった。野砲は6頭の馬が曳く「輓曵(ばんえい)」といわれる運用で、山砲は野砲をより軽くし、分解して5頭の馬が背で運んだ。これを「駄載(ださい)」という。軍馬の中でも輓曵する馬を「輓馬」といい、駄載する馬を「駄馬」といった。山砲は道路が整備されていないところや、山岳地帯ではたいへん機動性があった。
 その代わり軽量化ゆえに砲弾が届く射程を犠牲にしたものである。野山砲はどちらも同じ弾丸を使った。異なっていたのは発射薬(装薬)の量の多寡(たか)である。山砲は砲身や砲架、尾栓(砲尾の閉鎖機)の強度を下げた。分解すれば5頭の馬で運べる重量にするためには、射程を得る装薬を減らすしかなかったのだ。
 日本陸軍は銅の生産が国内で多いことから、イタリア式の青銅砲を採用した。1885(明治18)年に採用が決まった7珊(センチ)半野山砲であり、翌86年に制式化された。その翌年、明治20年までに全野戦砲兵の装備がおわった。口径は75ミリ、射程は野砲が3560メートル、山砲は2700メートルである。弾丸はイタリアのグレゴリーニ銑鉄、または釜石銑鉄を原料としていた。
 弾種は榴弾(りゅうだん)、榴霰弾(りゅうさんだん)、霰弾の3種類で、陸軍で初めて銅帯式弾丸を使った。榴弾は内部に炸薬が詰められ、信管が作動し爆裂する。弾丸の破片や爆風によって危害を加える。榴霰弾は内部にパチンコ玉のような鉄球がこめてある。空中で時限信管によって炸裂し、前下方を掃射するように鉄球を撃ちだす。霰弾は砲口から発射されて一定の距離まで飛ぶと炸裂し、内部の鉄球を飛び散らせる。狩猟用の散弾銃を考えると分かりやすい。砲兵の自衛戦闘や近距離に密集した敵に使うことがあった。
 銅帯付き砲弾というのは砲身内部(砲腔)の中のライフリングに砲弾を食いつかせやすくするために砲弾の尾部に巻いた銅製の帯をいう。だから砲弾は摩擦で熱せられた銅を砲腔内にこすりつけながら回転してゆく。撃ち終わった砲兵の砲身内の手入れは悲惨をきわめた。今も昔も変わらない。洗杆(せんかん)という長いブラシを洗浄液にひたし、こびりついた銅を剥がし落としていかねばならない。何十回も、ときには何百回もみんなで力を合わせて洗杆を砲口から突きこむのが砲兵の射撃後に必ず行なう手入れである。
 日清戦争では野戦師団の野砲兵聯隊の戦時編制定数は合計で野砲168門、山砲72門、の合計240門だった。この青銅砲は十分に威力を発揮した。清国兵はとりわけ、空中で炸裂して多くの被害を与えた榴霰弾を「天弾」と呼んで恐れたという。

速射野砲

 1890年代になると、列国では速射砲の研究が盛んになった。速射とはそれまでのように弾丸と薬嚢(やくのう・布製の袋に入った発射薬)を別々に砲身に押し込むのではなく、一体化した金属薬莢砲弾(金属薬筒)を使うことをいった。装填時間が短くてすむ。構造は小銃弾を大きくしたものと思えばよい。ただし、小銃弾には発火用に雷管が付いていたのに対して砲弾には「爆管」が中に入っていた。それまでの薬嚢を使う砲の閉鎖機には「火門孔」という穴が開いており、装薬への点火装置である「門管」を差しこまなければならなかった。
 これに加えて砲は砲弾が発射されると飛びだす砲弾の反作用として後退する。元に戻すには人力で押すしかないが、これがいちいち照準をつけ直す必要を生む。もし、砲身が自動で元に戻り、砲の位置そのものが動かなかったら、どれほど楽になることだろうか。陸軍の造兵家なら世界中誰でも夢に描いたものである。原理は分かり切っている。なぜなら海軍の艦載砲では、すでに砲身復座機構は現実化していた。ところが、陸軍の野山砲は艦砲に比べればはるかに軽量であり、機動力を高めるためには、できるだけ軽量でなくてはならなかった。野戦の生地(せいち・整備されていない野原)で馬6頭が曳けなければ野砲ではなかったからだ。
 1896(明治29)年、砲兵大佐有坂成章(なりあきら)は東京砲兵工廠提理(工廠長)に補された。この年9月末から陸軍は新型野砲のトライアルを始めた。場所はのちに陸軍航空の軽爆撃機の学校になり、いまは陸上自衛隊高射学校(現在は千葉市若葉区)がある千葉県下志津原だった。英国アームストロング、独国クルップ、仏国カネーの各社が参加し、陸軍独自の砲も3種類(それぞれ技術系の砲兵将校が設計した)があり、合計10門が試された。
 結果は有坂の設計した砲が選ばれた。どうも国産品であることが重視されたということだった。ただ、この1897(明治30)年にはフランスのシュナイダー社が完全な砲身駐退復坐機構を持つ野砲を完成させた。砲身の下にはシリンダーがあり、その中には液体と空気が詰まっている。その液体の抵抗と、空気の圧縮への反発力で後退エネルギーを吸収し、空気の反発力で砲身を元に戻す仕組みである。もっとも、バネではなく空気を使ったことからシリンダーをよほど頑丈に造る必要があった。それがかなりの重量を生んでしまっていた。軍馬の牽引力が弱い日本陸軍にはそれを真似するゆとりもなかったのだ。
 では、31年式とされる日露戦を戦った速射野砲にはどのような復坐装置が着けられていたのだろうか。写真で見ると野砲の砲架から伸びた単箭(たんせん・弾薬車と連結するための脚)の中にシリンダーのような物が見える。また、砲車の車輪には鎖状の物が取りつけられている。これが砲車の復坐装置と言えるものである。兵頭二十八氏はこれを『バネ仕掛けの糸巻き車』という表現をされている。シリンダー(「伸縮機関」と表記してある。以下同じ)の中には強力な皿型のバネが仕込まれていた(「蝸状ばね」)。単箭の両側にはフック(「槓杆」)が出ていて、それは前に引っ張られるとバネを圧縮するようになっている。
 砲車が陣地に進入して放列位置に就くと5人の砲手は発射準備にかかる。装填と撃発を担当する1番砲手はワイヤーを2本取りだす。単箭から出たフックにそれぞれを引っかけると、そのワイヤーを砲車の車軸の下を通して車輪の外縁に装着する。閉鎖機を開けて薬筒を装填し、閉鎖機を閉じる。2番砲手は照準担当である。砲車の長である分隊長の号令で射撃諸元(目標への方位・遠近)を整える。砲車小隊長の号令で「撃て」の命令が下ると、1番砲手は「ハッシャー!」と叫びながら拉縄(りゅうじょう)を引っ張る。「撃て!」と同時に発射されたら砲手たちはたまらない。体勢が整えられないのだ。
 砲身と砲架は固定されている。砲身が激しく後退すると、ワイヤーが車軸のキャプスタンに巻き取られ、バネは圧し縮められる。車輪は回転をとどめられ約80センチで後退は止まる。次はバネの反発力の出番である。フックが元に戻ろうとし、ワイヤーは巻き戻され、キャプスタンは逆転する。それで砲車は80センチを前進し、元の位置に戻るというのが一連の流れである。
 量産型の試製品は1899(明治32)年に完成する。常設師団のすべてに配備されたのは1903(明治36)年2月のことだった。口径は75ミリ、初速は487メートル/秒、(山砲は263メートル同、以下同じ)、最大射程7800(4300)メートル、最大仰角28(30)度、最大俯角5(10)度、砲身長2.2(1)メートル、砲車重量900(360)キログラム、轍間1.2(0.7)メートル。使用する砲弾は榴霰弾と榴弾である。
 戦役中に戦時補充された31年式野山砲の数は次の通りである。戦前の保有数は野砲が642門、兵器本廠保管分が36門であり、戦時補充は門司野戦兵器本廠に77門、出征軍に283門の合計360門だった。戦前保有数と補充の合計数は967門に達した。砲兵工廠の戦時生産数は272門であり、戦地で破損したのは55門、敵に鹵獲されたり亡失したりしたものは10門だった。山砲は戦前支給数と補充の合計で482門、戦時生産は70門であり、破損は10門、被鹵獲、亡失数は5門だった。
 次回は機関銃や輸送兵站の実態などを知らせよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2016年(平成28年)2月17日配信)