機関銃の製造と用法
水冷式マキシムと空冷式ホチキス
『日露戦争当時、日本陸軍は機関銃を知らなかった』という俗説が長く信じられてきた。ところがそれはまったくの誤りである。大正時代には日本陸軍の白兵主義が大いに喧伝(けんでん)され、昭和の初めにも国民性の優秀さとからめて主張された。質量ともに劣った装備で勝利を得たのは精神力と白兵の力だということが陸軍上層部から言われ出したのである。
実態はまったく逆で、日本兵はしばしば戦意も低く、小銃と機関銃の威力で勝てたという局面がしばしば見られた。そのことに危機感をもって実態を受け止めた上層部が、ロシア軍にしか機関銃はなかったと言い始めたのが、誤認の始まりだった。
元来、火力の信奉者だったフランス軍、プロシャ軍の忠実な弟子だった日本軍は「機関砲」が大好きだった。小銃弾と同じ弾薬を使う機関砲は1890(明治23)年にマキシム式機関銃を輸入したのが始まりといっていい。それ以前にも、幕末の頃から多銃身回転式のガトリング砲を採用し、海軍は艦上で使える連発砲を次々と買い込んでいた。以後、混乱を避けるため機関銃に用語を統一したい。
1895(明治28)年には、日清戦争で獲得した台湾の領収に向かった近衛師団に口径8ミリの機関銃を携行させた。2個の歩兵旅団に各4隊(24挺)ずつ配属した。ただし、当時のマキシム式機関銃は分解して駄載する方式ではなく、2輪車に載せて運んだ。そのため悪路に悩まされ、マラリヤの流行で隊員も次々と倒れ、合計6隊に編成変えをしなくてはならなくなった。合わせて36挺が戦闘に参加した。
『日清戦史』によると、6月25日に行なわれた「新竹」の防衛戦闘では、小銃弾の消費5600発に対して機関銃隊は6挺で1200発あまりを撃っている。このマキシム(当時、馬式と表記した)機関銃は水冷式であり、「砲身及閉鎖機ノ後坐」式という火砲構造だった。
機関銃のメカニズムは複雑である。小銃なら手動で行なう装填・排莢・再装填を自動で行なう。しかも、その発射速度は毎分500~600発というものである。人間の手に代わる動力を何に求めるかが19世紀半ば以降の開発者たちの最大の技術的なネックだった。アメリカ人ハイラム・マキシムは発射反動にそれを求めた。1884(明治17)年には造船業者のアルバート・ビッカースが出資して、マキシム・ガン・カンパニーが設立された。これからは、軍事史家兵頭二十八氏の記述に多くを頼って説明しよう。
機関銃の連発能力
銃弾が撃発されると多くのエネルギーが生まれる。銃口から飛び出す前進運動エネルギー、薬室の中では薬莢を後ろ向きに吹き飛ばそうとする反動エネルギー、銃身内で急速に膨張する火薬燃焼ガスの圧力。銃身に伝わる熱や、銃口から生まれる音もエネルギーの一つに数えられる。マキシムはこの発射にともなう反動エネルギーを使うことに選んだ。
まず、銃身が動くようにした。銃身の末端にある薬室をしっかり閉じておけば、空薬莢は自分の反動力で銃身全体を動かそうとする。この銃身が後退している途中にカムのような仕掛けを作っておいて、その働きで薬室が開放されるようにした。そこまで薬室を閉じておいたのは小銃でもお馴染の「遊底」といわれる部分である。カムの働きで銃身が後退を止めても、遊底だけは後ろに動き続ける。その遊底の最先端には鉄の爪が付いていて、空薬莢のリム(起縁部・掴まれやすいようにしてある溝)を掴み後ろに引き出す。それをエジェクター(蹴出子)が横から弾き飛ばす。遊底が後退を止めるとバネの力でまた元の位置に戻ろうとする。そのとき、布ベルトに並んだ次の弾丸を薬室に送り込む。
これを実現させたのは精密な精度をもつ工作機械と薬莢の材質である。連発と高速の動きに耐える。高い圧力を受けて膨張しても破裂しない、薬室に密着して完璧にガスシールの働きをし、それでいて役目が終われば粘りつくこともなく、滑らかに後退する。これにはカートリッジ・ブラス(真鍮)といわれる特殊な真鍮の開発、西洋冶金学の成果が生かされていた。
1887(明治20)年8月に陸軍は「マキザム砲附属弾薬」を「ヂャーデンマヂソン商会」から購入した記録がある。当時、横浜には第一埠頭のそばに、兵器輸出を得意とする英国のジャーディン・マセソン商会があった。9月には、おそらくそこから1万5000発の機関銃用の実包を買ったのではないだろうか。この商会の代理人は武器輸入商だった大倉喜八郎(1837~1928)だった。大倉は越後国新発田の生まれ、幕末から武器の輸入に着目し、つづいて軍需品の調達・輸送、鉄道・建築物関係の土木工事などで富を蓄えていった。のちの大倉財閥の創業者である。
この1887(明治20)年には、22年式と俗称された村田連発銃(口径8ミリ)の製造を始めるようになった。『偕行社記事』によると、1892(明治25)年には国産8ミリ弾薬を使うために特別に発注した
機関砲4門をコピー生産するために東京砲兵工廠は受け取っている。約200門を製造したとされている。この一部が先に述べた台湾領収の戦闘に使われたことは、まず間違いはないだろう。
ところが、精妙な反動利用式のマキシム機関銃を造ることは難しかった。それは、この反動利用式の機関銃の製造上の技術レベルがとても手に届かないものだったからだ。遊底などの可動部品の加工精度がとても真似できるものではなかった。手動である小銃の遊底とはまるで出来が違うのが機関銃だった。100分の数ミリといえば素人が目で見たり、手で触ったりしてすらも気がつかない数字である。それが機関銃の死命を制したといっても言い過ぎではない。わずかの誤差が薬莢の貼り付きをもたらし、薬室にちぎれた空薬莢が残ってしまう。そうなると悲劇である。手入れ具にあるペンチやヤットコで破損した薬莢を排除し、再装填をするといった連発銃どころか単発すら難しいものになる。
造りやすかったホチキス銃
こうしてたどり着いたのが、小銃部品並みの仕上がりでも作動するガス圧利用式である。フランスのホチキス社が開発した機関銃こそそれだった。製品に許容された誤差が100分の1ミリならば、それを加工する工作機械は1000分の1ミリといった精度で造られていなければならない。こうした精密な工作機械は、当時、目の玉が飛び出るほどの価格だった。
『外国では機械1台の値段が数千円、日本では200円から300円以下というものだった』とは、南部麒次郎中将の後世での回顧談である。少数の超熟練工を集め、やすりで細かいすり合わせをさせて、どうやら小銃を完成させていたのが当時の砲兵工廠だった。ガタが来たような中古の舶来旋盤工作機械などではとても反動利用式の機関銃など造れなかったのだ。そこで、陸軍は正式にライセンス契約を結んだフランスのホチキス社の機関砲を採用することとした。
ホチキスはガス利用式である。連発の原動力は銃身の中を膨張しながら進む銃弾推進薬の燃焼ガスだった。銃身の下にはガスの筒があり、銃身の穴から漏れるガスをそこに入れる。筒の中のピストンをガスは強力に押す。押されたピストンは、弾丸が銃口を離れた直後に遊底と銃身の結合を解除する。遊底はマキシムと同じように後退しながら空薬莢の抽出を行ない、次弾をくわえて薬室に送り込む。ただ、給弾方式には違いがあって、マキシムのようにベルトではなく、挿弾鈑(そうだんはん)といわれる薄い金属でできたプレートを使った。1連は6.5ミリ弾なら30発である。これを射手のほかについた挿弾手が銃の左手から次々と挿入していく。
一見複雑そうな外観をもつが部品の精密度は甘くても済んだ。連発機能を維持するためには「規制子(きせいし)」というガス筒についている部品をひねって、ガスの導入量を加減することで十分だった。しかも、戦前日本を通じてずっと苦手としたスプリング(バネ)の数がマキシムより少なかった。マキシム機関銃の遊底は部品35個、バネ14本。ホチキスは部品28個と7本。この1本でも折れたり、弱ったりすれば連発銃でなくなる機関銃。バネの数が少ないことはリスクをより減らすことだった。強力な特殊鋼であるバネを製造し、ふんだんに供給することは難しい。戦争末期に貨車の廃棄された板バネですら、すぐに軍刀や銃剣になったことを聞かされた人も多いことだろう。
フランス軍がこのホチキス機関銃を採用したのが1897(明治30)年、輸入が確認できるのが翌年、要塞の防御兵器として購入された。1899(明治32)年には東京砲兵工廠では本格的に機関銃の生産が始まった。ライセンス生産とはいえ、一応の国産化である。もちろん、検査器具や組み立て治工具も同時に輸入されたと思われる。開戦時には202挺が保有されていたという。
開戦前の月産能力は、12時間操業で5挺、24時間操業で8挺だった。開戦後のフル操業でも12時間で25挺、24時間で36挺だったという。開戦の直前には陸軍省は機関銃材料400挺分を輸入することを決めた。これはロシア軍が機関銃を要塞に据え付けるばかりではなく、野戦に持ち出すだろうという情報が入ったためである。結局、東京砲兵工廠によるホチキス機関銃の生産数は627挺に達した。
血であがなったマニュアル
しかし、開戦当初から半年あまり、機関銃の配布はなかなか進まなかったというのも事実だった。それは野砲と同じく、機動力や銃弾の推進力の大元となる軍馬の不足と非力のせいが大きな理由になるだろう。1930(昭和5)年の『偕行社記事』を見ても、当時の苦労が書かれている。歩兵隊には車輛積載、騎兵隊には繋駕式、駄載式として、制式は未決定のまま戦地に送られたとある。このことは重い機関銃をどのようにして運び、地上でセットし、どのように使うかということが確立していなかったということだ。
分解して複数の馬の背に載せるか、組み立てたまま砲車の上に載せて馬で曳くのか。それらの場合、それぞれ何頭の馬を駄載、輓曵にあてるのか。弾薬馬はどれほど必要か、それらの飼料運搬にはどれほどの駄馬が要るのか。また、射撃をするには砲車の上から行なうのか、それとも卸下(しゃか・おろすこと)して三脚架に据えて行なうのか。これらすべてがまったくの霧の中だったのだ。こういった各種マニュアルが西欧先進国にもできていなかった。機関銃の用法は、当時の先進国だった日露両陸軍が、自分の国土から遠く離れ、条件も異なる満洲で血を流しながら確立していったというのが史実である。
確認されているのは戦争の全期間を通じて使われた機関銃は534挺だった。その一部の記録は南山(なんざん)の戦いに残されている。ロシア軍の配備した機関銃は10挺だった。対してわが第1師団には第1機関砲隊24挺、第3師団には第2機関砲隊24挺、各歩兵聯隊には6挺ずつ合計48挺である。戦闘第1日目には銃弾7万8000発あまりを発射した。機関銃数ではおよそ5倍、なかったどころの話ではなかった。
ホチキス機関銃の諸元ははっきりしていない。推定だが全長は1270ミリ、銃身長775ミリ、重量は23.6キログラムである。操作するのは、銃長(指揮官)、藍手(属品箱を持ち整備する)、射手、装填手、弾薬手の6名だった。この重量で反動を受け止め、安定した弾道を確保するのが機関銃である。その全システムは弾薬箱や属品箱、替え銃身などを合わせて50キログラムにもなった。
兵器製造の機関
1871(明治4)年に兵部省の中に「造兵司」が置かれた。輸入された銃器や火砲の管理をするためである。つづいて明治8年には、東京の小石川(現在の文京区春日・後楽園)に砲兵本廠と大阪に砲兵支廠がおかれた。『陸軍職制及事務章程』によると、
全国各地の6鎮台と、兵営のあるところ「営所」、要塞に輸送しやすくするとある。有名な大村益次郎がいずれ西方に乱が起きる、その備えに大阪に兵器工場を置くとしたことも知られている。「兵仗」というのは実戦用の兵器・武器のことで儀式用の「儀仗」と区別してある。
西南戦争後の1879(明治12)年には、大阪砲兵支廠が砲兵工廠に格上げされた。廠長である提理(ていり)は砲兵科の大(中)佐で、製造された兵器は各方面の『庫内』に輸送すると職制にはある。大佐あるいは中佐が廠長ということは、当時の佐官級の定員の少なさ、陸軍が小世帯だったことがうかがわれる。日清戦争後の1897(明治30)年には『砲兵工廠条例』が改正され、東京・大阪に加えて台北(台湾)砲兵工廠が増やされた。
20世紀に入ってからの改正は1911(明治44)年に台北砲兵工廠が廃止されることだ。以後、1923(大正12)年の『造兵廠令』まで大きな改正はなかった。この改正は大規模なもので、集合体としての「造兵廠」という名称ができた。長は造兵廠長官である。隷下に各工廠と長官直轄の製造所を置いた。工廠は東京、王子、名古屋と大阪に置く。直轄製造所は小倉と平壌に開かれた。東京というのはこれまでの文京区小石川であり、王子とは現在の東京都北区王子、小倉は北九州市小倉区、平壌は朝鮮にある。大正時代は軍縮の時代といいながら兵器技術の進展があり、組織はいよいよ規模を広げ、分担業務も細かくなっていく。なお、長官は陸軍中将、もしくは少将であり、陸軍大臣に直隷していた。
これが1940(昭和15)年になると、陸軍兵器廠に改組された。いささか細かくなるが、3月30日付の勅令第209号を読んでみよう。旧字やカタカナはいつものように直しておく。
と、きわめて広範なものだった。さらに兵器廠は独自の「技術に従事する各兵科幹部候補生(航空兵科の者を除く)の教育と、海軍所要の火薬や一般火薬類の製造と修理を行なうことができると書かれている。
また、組織のことを規定してある。
陸軍兵器廠は兵器本部、兵器補給廠と造兵廠から成っている。兵器本部長は陸軍大臣に直隷し、陸軍兵器廠の業務の総責任者である。つまり造兵廠長は兵器本部長に隷属することになった。
最後の改正は1942(昭和17)年である。大臣に直隷するのは兵器行政本部長であり、その下に所在地名を冠する陸軍造兵廠が置かれる。造兵廠の中には課や製造所、研究所と技能者の養成所を置いた。この年には、東京に第1(東京市王子区下十条町)と第2(東京市板橋区板橋町)の各造兵廠があった。また、相模原陸軍造兵廠は神奈川県高座郡大野町に置かれていた。
兵器補給機関
1871(明治4)年には兵器の製造を担当する造兵司に対して、補給は武庫司がうけもっていた。そして同8年の規程では、砲兵本廠の下に武庫と火薬庫があり、各鎮台に支庫があった。1879(明治12)年になると、砲兵方面、工兵方面という聞きなれない名称が出てくる。
改正の内容は1890(明治23)年に各方面についての詳しい解説が出されている(「砲兵方面条例」)。
砲兵第1方面・本署東京・第1、第2師管と北海道
砲兵第2方面・本署大阪・第3、第4師管
砲兵第3方面・本署下関・第5、第6師管
がそれぞれの管轄地域である。師団司令部や要塞司令部の所在地には「砲兵方面支署」を置いて、支署が近くにない旅団司令部所在地には武庫を置き、支署の管轄とする。要するに火砲や兵器弾薬の購買・保存・貯蔵・修理と支給分配はすべて砲兵が行なっていた。
1889(明治22)年の「工兵方面条例」も見てみよう。要塞堡塁砲台や付属する官営物の建築・修繕・監視の工兵事業を担任し、歩兵工兵の工具材料を調達し、工兵所属地を管轄する。歩兵隊の土工具、ツルハシやスコップなども工兵が保管、配分するということだ。工兵方面はその規模が砲兵と比べると小さい。2方面である。本署を東京に置いた第1方面は第1、2、3師管と北海道、第2方面は大阪に本署、第4、5、6師管を管轄した。管内の要塞や重要な砲台については支署を置くこととする。
後世の我々が混乱しやすいのは、次々と改正される組織名称である。1897(明治30)年に「陸軍兵器廠」ができる。これは兵器の補給を担当する官衙(かんが)である。この年、製造担当の「陸軍砲兵工廠」ができている。このとき、「陸軍兵器本廠」は東京・大阪・門司・台北と4つもあった。その下部には支廠が置かれた。東京本廠が担当するのは近衛、第1、2、7、8師管、大阪本廠は第3、4、9、10師管、門司本廠は第5、6、11、12師管、台北本廠は台湾島と澎湖島。台湾には当時、各師団から交代派遣されていた台湾守備混成旅団が駐留していた。そうした要地や要塞には「兵器支廠」が置かれていた。
大改正は1913(大正2)年である。4個の兵器本廠を1つに統合した。これはようやく旧砲兵方面思想からの変換といえる。大戦争をはさんで20年以上もかかっての脱却である。大きな組織はなかなか改編が難しい。本廠は東京だけになり、師団司令部所在地と台北、朝鮮の龍山、関東省の旅順に支廠が置かれた。台北は台湾所在部隊、同じく龍山も朝鮮駐留部隊、旅順も関東州警備部隊への対応である。
つづいて1918(大正7)年の改正は師団司令部の中に兵器部ができたことによる。本廠は東京にあり、支廠は東京、大阪、名古屋、広島、小倉と龍山(同12年、龍山は千葉兵器支廠に改められる)に減らされた。師団長の幕僚としての兵器部長(砲・工兵技術系大佐)が支廠の業務を行なうことになったからだ。
「陸軍兵器補給廠」と補給を全面に出した改正は1940(昭和15)年に行なわれた。この「補給」という名称が付けられた理由は、「兵器廠」という旧来の官衙名が同年に発足した「陸軍兵器廠」に名称を乗っ取られたことにある。東京兵器補給廠と所要の地に地名を冠した兵器補給廠ができる。そして、敗戦までの組織は1942(昭和17)年勅令677号に規定されている。その業務は、兵器と兵器材料(ただしどちらも航空兵器を除く)、自動車燃料その他の軍需品の保管、修理、補給と廃品の処分を行なう。所要の地とされたのは、東京、千葉、名古屋、大阪、岡山、広島、小倉、北海道そして平壌だった。
日露戦争の銃砲弾準備
陸軍にはトラウマがあった。1877年の西南戦争においての小銃とその弾丸の不足である。当時は幕末以来の輸入銃の時代であり、その種類も雑多で、口径も異なる弾丸がそれぞれ調達された。その轍を踏まないように日清戦争では、野戦軍主力には村田11年式、18年式の小銃を携帯させ、弾丸の生産・備蓄・配当に十分に配慮した。日清戦争では補充した小銃実包は134万発あまり、野山砲弾は3万4000発だった。
日露開戦時の30年式実包の備蓄は3200万発(約24倍)、野山砲弾は30万発あまりで9倍を用意していた。また、野戦師団・旅団が保有していた実包は6400万発、野山砲弾は28万発があった。これで戦争が続いても、砲兵工廠の生産能力を考えて十分だろうと考えられていた。
ところがである。緒戦の南山攻撃ではわずか1日で歩兵30個大隊、約3000挺の小銃が射耗した弾丸数は220万発にもなった。機関銃24挺もこのうち8万発を発射した。36個中隊・216門の野山砲が撃った砲弾は3万4000発。遼陽会戦では銃弾840万発、砲弾10万6000発あまり。旅順要塞の第1回総攻撃でも撃たれたのは270万発の小銃実包、砲弾は5万発だった。奉天会戦は大兵力と長期間にわたったせいで、小銃実包2000万発、野山砲弾だけで28万発にのぼった。兵器・弾薬の製造といっても、その原材料のほとんどを資源小国のわが国は外国からの輸入に頼らねばならなかった。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2016年(平成28年)2月17日配信)