再び経理学校生徒を募集

日露戦争で明らかになった将校不足

 日露戦争では将校が足りなくなった。戦地へ出征した軍人約95万人のうち戦死者と戦傷死者の合計は全軍で6万人あまりにのぼった。その割合はおよそ6.4%である。階級の低い兵卒ほど死ぬことが多いという偏見は捨てたほうがいい。実際に戦う軍隊では上級者ほど危険である。兵卒の死亡率は約5.7%であり、100人いたら6人が死ぬ。これはこれで大変な数だが、それに対して将校の斃れる割合ははるかに高い。
 全兵科・各部の尉官の戦傷死率は8.4%にもなる。上長官(佐官)は階級別の割合では最も高い。12.8%にものぼった。およそ8人に1人である。2番目に高率なのは下士の12.3%であり、いずれも突撃の最先頭に立ったり、危険なところへは率先して進む立場にあったりしたからだ。また、敵の狙撃は指揮者が立ち上がる瞬間をねらった。のちの第1次大戦でも、ヨーロッパ戦場に補充された少尉の平均余命は4日だなどという信じられない記録が残っている。
 歩兵だけに限ると、もっと日露戦場の実相が浮かび上がってくる。戦闘死(即死と戦傷死を合わせた)の比率は佐官では20.9%、尉官も15%というものだった。ただし、この数字の元となった『日露戦役統計』では、大尉が亡くなり少佐に進むと佐官に分類された。だから、戦死進級の中隊長の大尉がここの佐官に含まれている可能性がある。とはいえ、歩兵は階級が上になるほど死ぬ、負傷するという危険が高まることが分かる。
 ふつう、近代戦では戦死者の2倍が負傷者だから、歩兵大隊長や聯隊長は5人に1人が死に、2人が負傷して後送されるという有様だった。当時は「大隊突撃」といって、大隊長が『突撃に前へ!』と号令し軍刀を振りあげれば、各中隊長はすぐに抜刀し後に続いた。なかには聯隊長自らが先頭に立った例も多い。敗戦後、戦艦ミズーリ号上で降伏文書調印に立ち合った梅津美治郎陸軍大将も歩兵第1聯隊の聯隊旗手・少尉として突進中に敵弾に倒れた経験者である。
 要塞攻撃や、野外会戦でもロシア軍の堡塁陣地への突撃は指揮官たちの損耗を増やした。戦役2年目(1905年)の7月には歩兵少・中尉の7割、大尉ですら2割強は1年志願兵出身の予・後備役からの召集者だった。
 1年志願兵とは中等学校卒業以上の有資格者が、将来、幹部になることを志願し、在営中の経費を自弁し、1年間の現役に服する制度をいう。これがのちの昭和時代には幹部候補生制度に発展する。当時は、入営後の1年間の教育期間の成績によって、予備役各科少尉、3等軍吏、同軍医、同獣医、同薬剤官になれた。制度が始まった当初は、予備役1年、後備役5年いう優遇ぶりだったが、1893(明治26)年には条例が改正され、兵役服務期間は一般兵と同じ12年4カ月になっていた。
 この1年志願兵になれた人は豊かな人だった。当時の中学校以上への進学ができた階層であり、入営にあたっては100円以上の自弁経費を出すことができる若者だった。また、将校に任官するにあたって軍装、武装、正・礼装ほか装具一切を揃えるゆとりがなくてはならない。明治36(1903)年度の中学校卒業生はおよそ1万2500人にしか過ぎず、満17歳の男子人口は同じく43万5000人でしかなかった。3%にも満たない恵まれた青年たちだったのだ。
 日露戦争開戦時の予・後備役将校数は、予備役約2700名(うち歩兵2041)、後備役同1300名(同前1039)の合計4000名にしか過ぎなかった。そのうち少尉の8割は1年志願兵出身者だった。あとの2割は病気や家庭の事情などで予備役に編入された陸士卒の人や、日清戦争で特別進級した下士出身者だった。これに対して、現役将校数は将官を除いて約6800名である。
 ついでに階級別の在籍者数をあげておこう。当時の陸軍の実相の一つでもある。大佐131名(うち歩兵65)、中佐139名(同前60)、少佐594名(354)、大尉1698名(1003)、中尉2603名(1656)、少尉1598名(940)で合計6763名(4078)だった。歩兵は全兵科将校の60.3%を占めていた。
 将校は陸士出身、あるいは中等学校卒を原則とした。当時の将校が必要とされた素養は、外国語、物理、化学、数学などの外来知識をこなせる能力である。そんな若者は、当時、どれだけいたか。若者の95%は4年制小学校卒業、あるいはそれの中退といった人たちだった。下士官(当時は下士である)養成の教導団でも、当時の最高の高等教育である陸士にはとても教育内容で追いつけるものではなかった。追いつめられていた陸軍は、下士・准士官の優秀者を3500人も特別任用し、少尉にしたが、それも焼け石に水だった。
 また戦時中の特別措置として、1年志願兵の大量養成を行なった。1904(明治37)年6月には前年に現役を終えて予備役曹長になっている終末試験受験(合格すると翌年3カ月の演習召集を受ける)資格者にはただちに召集令状を発行した。入営すると直ちに見習士官勤務を命じ、教官には戦地から負傷などで帰還している現役将校をあてて将校不足に対処せよという内訓を出した。10月には教育総監が『一般将校が備えるべき学識見聞を広く与えるのではなく、その実務を執行できるだけの技量を確実に養成せよ』とも訓令を出した。こうして特別補充で任官した予備役少尉は1600名あまり、うち歩兵は1400名近い数にのぼった。いかに歩兵の下級将校の損耗が激しかったか。
 現役将校である士官候補生も用意された。1905(明治38)年11月卒業の920人(うち歩兵742人)、これが第18期生である。次には第19期生と20期生を合わせて1344名もの士官候補生を採用した。第19期生は中学卒業者1068名(明治40年5月31日卒業)、20期生は幼年学校卒業者だけの276名である(同41年5月27日卒)。
 この人たちは一度も戦場に出ることなく、士官学校生徒で講和を迎えた。この大量採用が大正時代の平時陸軍の人事に大きな問題を引き起こしていく。さらに陸軍は士官候補生の採用数を戦後も増やしていかなければならなかった。

大正時代の人事のネック

 1906(明治39)年、陸軍は平時25個師団整備、戦時50個師団動員計画を立てた。将校になる士官候補生の大量採用を続けるしかなかった。兵科将校の補充はすぐにできるものではない。陸士の卒業から、中隊長は10年、大隊長は15年、聯隊長は20~25年かかるという。中隊長は幹部(将校・准士官・下士官)30人と兵卒150人を率いるポストである。中隊の英語名、カンパニーは同じ釜の飯を食う間柄をいい、キャプテンとはそのリーダーのことをいう。10年かかるのは当然だろう。
 いまの陸自でも、大卒から1年間の幹部候補生教育を受ける。その後、3尉(少尉)任官から2年が経って2尉に昇任、3年後に1尉となってようやく中隊長になる資格の第一歩を踏み出す。いま、陸自普通科(歩兵)の中隊長は3佐(少佐)ポストだが、もっとも早い者ですら1尉を4年半、事故なく過ごさないと3佐にはなれない。大卒後10年と半年である。
 また、大隊長は戦術単位である大隊を率いる。歩兵であれば4個小銃中隊を指揮して、2個中隊を主攻正面にあて、1個中隊を助攻に手配し、手元に予備の1個中隊をもつ。戦機をとらえ、聯隊長の命令を実現化するように努力する。また、部下への給養・補給の責任は大隊長にかかっている。行李という補給部隊も指揮下にある。中隊長としての経験を積み、戦術を磨いた者だけが大隊長になれた。予備役将校ではとても勤まるものではなかった。
 平時25個師団とは、歩兵100個聯隊を必要とする。50個の野戦師団ならば200個聯隊、その大隊数は600個である。中隊数はその4倍であり、小隊数は12倍になる。つまり、7200人の小銃小隊長を必要とする。毎年の1年志願兵による予備歩兵少尉が生まれる数は1000人くらいだった。問題は、戦時になって動員をかけても、その全員が応召するわけでもないことだ。兵役で予備役幹部になるような高学歴者は社会の中で重要な地位にある者も多い。官吏(国家公務員)や公吏(地方公務員)、大きな企業の社員などであれば、組織から『召集猶予願い』が出されることも多い。
 昭和の初め、大動員がかかり召集令状はたいへんな数が発行された。しかし、その得員率(在郷軍人名簿登載者中のどれだけが実際に応召可能かの数字)は陸軍省担当者によれば、おおよそ6割にしかならなかった。
 現在と違って社会全体の保健・衛生環境も貧しかった。身体の具合が悪い、慢性的な病気にかかっていて軍隊勤務不能という例が多い。大正時代のデータによれば、官吏の平均寿命は52歳、陸軍士官は46歳、海軍士官は42歳という数字もある。士官学校を卒業しても、同期生で少佐になれた人は全体の4割くらい、あとは中尉・大尉で病気にかかり、あるいは大ケガが治らずに予備役編入というのが普通だった。
 歩兵ばかりを例にとったが、現役将校も毎年どれだけ育てるかというのは人事当局をずいぶんと迷わせたものだった。陸軍省では平時25個師団、戦時50個師団にふさわしい将校数を予想した。
 そのため、明治39年から15年間にわたる士官候補生採用計画を立てた。1907(明治40)年から毎年783名を6年間にわたって採用するというのだ。中学校等から隊付候補生になる者516名、それに中央幼年学校卒業者267名を採用予定という数字がある。
 当時の陸軍の構成を知る上で、兵科別の採用数を知っておくことも大切だろう(1913=大正2年)。歩兵は463名(全体の約59%)、騎兵55名(同7%)、野山砲兵142名(同18%)、重砲兵29名(同4%)、工兵46名(同6%)、輜重兵48名(同6%)である。興味深いのは工兵も輜重兵もほぼ同じ数だということだ。ただし、輜重兵には幼年学校出身者が1名もいない。輜重兵将校は全員が中学卒だったのだ。
 ところが、戦後の不況、反陸軍感情などで常設師団が増えることはなかった。たちまち、陸軍は増えすぎた現役将校たちの扱いに困ってしまう。1914(大正3)年には、前年比27%近い削減をし、574名の採用に減らしてしまうことになった(大正6年5月卒業、536名の第29期生)。翌年の30期生だけは632人と持ち直すが、以降400人くらいが続き、300人台、ついに1930(昭和5)年卒の42期生は最低の218人しか卒業生がいないという時代になる。
 1917(大正6)年になると軍事費削減の政策がとられるようになった。陸軍は佐官の定員を増やした。とくに歩兵中尉・少尉を32名削減して、大尉級を36名増やし、佐官を7名、将官1名を増やす。その代わり、他の兵科は一様に大尉級を減らし、大佐が増えたのは重砲兵と輜重兵だけだった。これはつまり、歩兵の少尉・中尉が余っているということだ。
「准尉」を作ったのも、こうした少・中尉削減の一環の施策だった。この准尉というのは昭和期の准尉=准士官と同じではない。当時の准士官は特務曹長である。准尉は少尉と同じ階級であり、立派な将校だった。ただし、中尉には進級できない。これによって、少尉や中尉の現員を減らし、穴があいたところに准尉で埋めていこうとしたわけである。
 この時代の中隊の将校定員を見ておこう。歩兵聯隊は全部で12個小銃中隊である。この各中隊の士官候補生出身中・少尉の定数は2.2人、准尉は1.8人だった。合計で4人、ただし陸士出は聯隊全部で2.2×12=26.4人となる。この4人で初年兵と2年兵の教官となり中隊長になる修業をしていた。この率を低くした理由に注目してほしい。
 陸軍の進級は海軍に比べて遅かった。なぜなら、海軍は艦内の編制だけをみても、兵科将校のスタートは分隊士であり、大尉の分隊長は1名、その上の科長は1名である。これに比べて、中隊長1人に対して、戦時の小隊長要員である陸軍の少・中尉は3人から4人だった。せめて2人にしなかったら、大尉になることも難しかったのである。
 他兵科・部隊も見てみよう。関東軍の隷下にあった独立守備隊歩兵中隊は陸士卒2名に准尉1名、騎兵中隊は陸士卒2.4名に准尉1.6名になっている。野砲兵中隊は学理的な知識が必要なので陸士卒3.3人に准尉1.7人、山砲兵中隊も同じく3.3人に准尉0.7人、工兵中隊・鉄道聯隊・航空大隊も3.1人と准尉0.9人という比率である。電信隊が3.1人と2.9人と現場の熟練者が多くなっている。
 興味深いのは輜重兵大隊の4.2人と2.8人という比率である。中隊の付将校が7人にもなる。これは現役の輜重兵は少ないけれど、短期間(おおよそ3カ月)在営して後は帰休する輜重輸卒の教育が多いからである。なお、この准尉制度はわずか2年間しか続かず、かわりに少尉候補者という下士からの登用制度ができた。

ねらわれた経理部

 さて、余った将校、とりわけ歩兵科の将校をどうするかである。陸士で育てなかった兵科は憲兵科である。憲兵将校は他兵科からの転科者で補充してきた。また、たたき上げの下士官、准士官から少尉候補者(1年間、士官学校や憲兵学校で教育した)出身者を将校にしてきた歴史がある。そして、兵科ではない経理部である。経理部はもともと兵科からの転科者を受け入れる制度があった。部隊の激しい行動には向かない、ただし軍務に就くことはできるといった人が勧められて経理官になった例が多い。
 もともと陸軍経理官はヨーロッパ軍隊の制度から来ている。軍隊経理も一般経理と同じかというとそうではなく、部外業者との交渉や契約、軍の不動産などの管理、戦時給与のことなど、軍事一般に通じていなくては困ることになった。そこから軍経理官の必要性がいわれた。経理官には高級経理官要員と現場実務要員と2つのコースがあり、明治の昔は監督コースと軍吏コースに分けられていた。それが時代の流れにつれ、海軍と同じく候補生課程を作るようになった。こうして、下士・准士官から、生徒から、大学・専門学校出身者からという3つのコースができあがった。
 ところが、この候補生課程に目を付けられたのだ。兵科将校とはもともと軍事については専門知識があり、これに経理学校で会計面や実務教育をしさえすれば面倒な主計候補生制度は不要だという論議が起きた。そして、経理学校の候補生課程は閉ざされた。さらには軍縮の流れの中で、経理官は大学・高専の卒業者と下士・准士官からの登用と2つのコースになってしまった。
 戦時にならなければ経理官は不足することもなかった。まず、戦死することは珍しかった。平時の軍隊現場の勤務は3個大隊に2名、聯隊本部に高級主計という1名、それに師団司令部の経理部勤務者くらいにしか過ぎない。戦時編制になっても各大隊に1名、本部に2名というくらいで、兵科将校のように人員が急膨張するわけでもないと考えられたのだろう。また、現場部隊の経理室勤務はそれこそたたき上げの実務の練達者が多かったのである。
 そこで、経理部はまたまた昔に逆戻りし、大学・高等専門学校からの「見習主計」という制度をとった。政策的なことは大卒経理官に、現場の実務は下士・准士官からの登用者にというわけである。この制度は1935(昭和10)年に経理学校の生徒募集が再開するまで高級経理官の養成制度として続いてしまう。それが1926(大正15)年から始まる乙種学生制度だった。大学の法学・経済・商学部を卒業した者をただちに見習主計に採用し、3~4カ月間の教育で中尉相当の2等主計に育てる。この1期生の入校が1927(昭和2)年10月である。
 この制度は1期生5名、2期生3名というように細々と続いた。転科する兵科将校も実際はひどく少なく(大正時代にはわずか30名ほど)、すぐに使えるということから最終的には80名ほども採用するようになった。敗戦までの総員は780名といわれる。
 満洲事変(1931年)から後、陸軍の人気が高まった。昭和10(1935)年頃になると陸海軍は若者の人気を集めるようになった。海兵や陸士に入るには厳重な身体検査があって、とりわけ視力にはうるさかった。どちらも裸眼視力が1.0以上である。ところが、陸軍経理学校、海軍経理学校はそれぞれ0.7と0.2以上だった。陸軍の方がやや厳しかったのは野戦という環境があったからだろう。
 1935(昭和10)年に経理学校の生徒課程(受験学力は中学校4年修了者レベル)の復活が決まると、とたんに入校希望者が殺到した。第1期生は30名の募集に対し、60倍の志願者がやってくる。同じ年度の陸士の志願倍率は6倍だったから、人気のほどがよく分かる。敗戦時までの在学者と卒業者の合計は1200名、卒業し戦列に加わったのは650名あまりだった。その時の経理部現役将校は主計3437名、建技685名であり、合計4122名である。また、幹部候補生出身将校は9000名から1万名といわれている(別の資料では幹部候補生学校卒業者1万3000名ともいう)。
 次回は、輜重兵について語ろう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2016年(平成28年)1月6日配信)