壮丁教育調査が語る日露戦争:人の動員
壮丁教育調査
戦後になって、あまり知られていないことだが、徴兵検査の行なわれた日の午後には、道府県が行なう「壮丁教育調査」が実施された。国語・算術・公民科の3科目である(昭和時代)。中等学校以上の卒業生は参考とするために、公民科のみを受験したので思い出に語る人が少なかった。高名なある作家の父親などは、丙種になった息子の手を引いて検査場から急いで逃げるように立ち去った思い出は書いても、試験の間、待たされていたことは書いていない。
文部省は義務教育(明治43年から6年制となる)、あるいは自由進学だった高等科卒業生(2年制と4年制の2種があった)の学力の実態や、実施してきた教育課程の効果などを知りたかったのである。逆に軍隊としては、それぞれの壮丁の能力を知り、選兵(陸海軍の別、各兵科・各部への振り分けをいう)の参考にするため、また入営後の教育上の配慮などの情報を得るためにこの調査を重視していた。
日露戦争に参加した兵卒は1904(明治37)年12月に入営した人たち、つまり前年(1903年)12月当時に満19歳以上の若者、そして1904(明治37)年当時に満32歳までの青年だった。現役3カ年、予備役4年4カ月、後備役5年の制度下の服役者である。兵役対象人口は全国でおよそ500万人であり、開戦の前年に徴兵検査を受けた壮丁は約41万人、その8%ほどであった。
教育調査は全国統一された形式で陸軍省が1899(明治32)年度から実施した。これは「普通教育検査」とされて入営兵の教育程度を調べるものだった。それに府県が便乗して独自に教育程度や学力(成績)を調査するようになった。当時の教育ジャーナリズムはこれを大歓迎している。兵種の選定や、入営後の教育に有効であり、文部省も各府県の実態に合わせた教育行政を推進する参考になるととらえていたからだ。
府県のねらいは、まず壮丁の教育程度の種別化の調査だった。役場の兵事掛は詳しく調べているが、文部省の系列ではとてもそれを追いきれていなかった。また、それぞれの種別の徴兵検査の時点での
学校でつけてきた学力がどれほど保存されているか、あるいは進んでいるかを調べるものだった。
教育程度の種別とは、義務教育(4年尋常科)未就学・中退者、同卒業、高等科(2年)卒業、高等科(4年)卒業、中等学校卒業といった区別のことをいう。また、学校教育修了後の社会生活の中で、どれほど学力は減退するか、あるいは増進するかの実態をつかむための検査でもあった。県によっては徴兵検査上に郡視学(府県の教育吏員で学校現場への指導監督を行なう)や小学校長が出張するところもあった。
教育程度と入営兵
1899(明治32)年の『陸軍省統計年報』によれば、興味深い事実が見られる。高学歴者の比率は、明らかに入営兵の方が、壮丁一般の数字より高い。入営兵のうち、「全く読み書きができない者」の比率は10.75%でしかなく、壮丁一般では23.40%にのぼる。日本人は昔から読み書きが誰にでもできたという定説の信奉者には意外な事実だろう。たしかに江戸時代から庶民の識字率は高いといわれてきたが、20世紀の初頭、およそ100年前のわが国の青年の4人に1人は「文盲(もんもう)」だったのだ。
これは昭和はじめの落語家の回想にもあるエピソードを裏付ける。高座にかける落語の演題には、しばしば弱者を笑うものがある。なかでも文字を読み書きできない人が登場する小噺(こばなし)は多い。
落語そのものが大都会の江戸や大坂で生まれたものであるからだろう。当時の社会の30代から40代の働き盛りの中にはかなりの割合で、笑われる側の人がいたのである。ざっと客席を見渡して、話の枕にすることすら避けたという。
ただし、当時の列国と比べるとこれらはとんでもなく低い数字になる。そもそも調査統計をしないのが普通だったから、しっかりした数字は残念ながらない。ただ、およその見当だが英国では庶民では70%はかろうじて自分の名前が書けたらしい。フランスでは読み書きのできない大人が60%もいたそうだし、移民国家のアメリカもかなり文盲率が高かったことだろう。ロシアなどはまるで不明である。ただ、ロシア海軍の水兵はほとんど新聞が読めなかったことは、主計兵ノビコフ・プリボイの『ツシマ』の中の様子が書かれたことでよく分かる。こうしてみると、やはりわが国民は教育熱心で、学校教育の効果がよく表れていたことがはっきりしている。
また、入営兵の教育程度を兵種別に分けた結果がある。それによると、程度の高い兵卒が多いのは、第1位が騎兵・輜重兵・看護卒だった。わが陸軍の騎兵は欧米流にいえば、偵察や警戒、情報伝達などに使われる「軽騎兵」である。当然、判断力やコミュニケーション力が高くなければならない。日露戦中でも捕虜になった騎兵の1等卒がロシア軍の尋問に対して、的確かつ高度な対応をしたことが相手から驚かれている。
輜重兵はまさに指揮能力が高く、計数能力もなくてはならない。看護卒は当時では最高の知識人である軍医官の助手を務め、衛生環境の整備などにも心を配る。学校歴でいえば、尋常小学校卒業者以上が8割を占めている。この順位は当然のことだっただろう。
第2位は野戦砲兵・要塞砲兵・工兵・経理部縫工卒が上げられている。砲兵・工兵ともに数理的な理解力がなくては無理な兵種である。陸軍将校の中でも砲兵や工兵の大尉といえば、世間一般とは隔絶した頭脳の持ち主とされた時代だった。縫工卒もまた近代工業技術の粋ともいえるミシン(ソーイング・マシンがなまったもの)を扱い、その原理や構造を理解できなくてはならない。これらの兵種もまた尋常科卒業者が5割以上6割くらいになっていた。
陸軍はすでに西南戦争(1877年)以後から、輜重兵と看護卒について「読み書き算術」のできる者を選ぶ方針をとっていた。騎兵についても1891(明治24)年には「言語明晰で普通の文字が読める者」を選ぶべきという通達があった。これは単独任務を果たし、命令報告ができるようにという配慮である。
各兵種の選定にあたっての基準が明確化されたのは1893(明治26)年のことである。日清戦争の直前のことだった。『兵種選定ノ要旨』である。これは陸軍省軍務局長と同医務局長が協議して草案が作られたものだった。それ以前は、騎兵・砲兵・工兵・輜重兵が選ばれた後に歩兵は採用され、ろくに基準などなかった。ここで初めて、歩兵も選兵の元になるスタンダードができたのである。まとめて言えば、軍が要求する兵卒は学力が高く、騎兵・砲兵・工兵・輜重兵については特に優れた者が選ばれた。
それは、それらの兵種が業務を行なうにあたって、他者との接触が多く、協同作業が多いという特徴があったからだ。砲兵や輜重兵は砲兵助卒・同輸卒・輜重兵輸卒を指揮・監督しなければならない。工兵も架橋縦列などでは輜重輸卒と行動を共にし、何より技術兵科だった。騎兵も伝令・偵察任務では他兵科と接触する。それだけに「言語明晰」であり、「機敏な動作」が要求された。それはやはり学校教育における知識や訓練の程度が高い者を必要とすることになった。
明治三十六年大阪府壮丁教育調査
手元にある1903(明治36)年大阪府壮丁教育調査を見てみよう。この年の徴兵検査を受けた全国の壮丁数は約41万人である。そのうち大阪府は1万1663人だった。大阪府は行政区分として大阪市内の5区と堺市を持ち、ほかは西・東成郡や泉南・北郡、南・北・中の各河内郡、三島郡、豊能郡、堺市外の9郡などでできていた。
この年の壮丁を当時の用語でいう「教育程度」で表すと、その構成比率は次の通りになった。
(1) 中学卒業の者・1.03%、実員では120名である。
(2) 中卒と同等の学力(商業・工業等の専門学校)を有する者・1.73%、同じく200名。
(3) 高等小学卒業の者・7.13%、同831名。
(4) 右と同じ学力を有する者・7.96%、同929名。
(5) 尋常小学校卒業の者・25.60%、同2986名。
(6) 右と同じ学力を有する者・13.05%、同1523名。
(7) 稍(やや)読み書き算術ができる者・18.37%、同2143名。
(8) 自分の氏名を書くことができる者・10.75%、同1254名。
(9) 自分の氏名も書けない者・14.38%、同1677名。
こうしてみると、教科書でも有名な与謝野晶子の『君死にたまふことなかれ』に歌われた実弟、堺市の和菓子の老舗の若旦那はまさにエリート中のエリートであることがわかる。1万人の中で300名ほどの人間である。彼は1年志願兵出身(中等学校卒以上)の予備役輜重兵少尉だった。実際に出征した彼は兵站輸送部隊に勤務し、無時凱旋し、天寿を全うしたという。
当時の徴兵基準は甲種から戊種までの5段階だった。現役に適する者は甲種・乙種合格者で身長5尺(151.5センチ)以上、身体強健な者である。丙種は身長5尺以上であるが体格が良くない者と、身長4尺8寸(145.4センチ)以上で、次に述べる丁種や戊種にはあたらない者である。国民兵役に編入された。丁種は不合格である。身長が4尺8寸未満で身体上の不具合があった者だった。戊種は発育途上である者や、病気療養中の状態にあり、翌年度以降に徴集(役種の決定)がされる再検査要員となる。
甲種乙種はそれぞれ全体の36.56%、20.99%だった。合わせて57.55%になった。丙種は30.01%であり、平時では補充兵にも指定されず、まず軍隊とは縁がない人々である。丁種で兵役が免除になった者は11.78%だった。戊種と判定された者は実員で75名、割合では0.64%にしかならなかった。
学校歴と甲・乙種合格との関係がある。320名の中卒・同等者のうち164名が現役にふさわしいとされた。その率は51.25%になる。高等小学校卒の者は58.36%、同等者は62%、尋常科卒61.55%、同等者は57.92%、やや読み書き算術ができる者からは57.86%が甲種もしくは乙種となった。これが「読・書・算、術ヲ知ラサル者」は52.10%と最も低くなっている。つまり現役兵の主力は高小卒と尋常科卒であり、学校歴の高い者や社会の底辺にあった人はわき役ということになる。
身長の分布も記録されていた。4尺8寸未満は2.27%、以上5尺未満は11.12%、5尺以上5尺2寸(151.5~157.56センチ)未満は33.44%、5尺2寸以上同4寸(163.62センチ)未満は36.77%。同4寸以上6寸(168.68センチ)未満が14.23%であり、6寸以上の偉丈夫も2.17%がいた。
5尺以上の者が占める割合は中学校卒が最も高く96%(以下概数)、同等者も同じ、高小卒が続き92%、同等者も同じ。尋常科卒88%、同等が85%、やや読み書き算術ができる者は84%、読み書き算術の不能者は81%となる。まさに身長と学歴は相関関係があった。結論がある。
受験者中、甲種合格者の割合がもっとも高かったのは北河内郡の47.75%である。第2位は堺市の41.81%で、最低は大阪市東区の31.14%であり、低所得層の都市生活者が多かったことが分かる。丙種では目立つのは大阪市南区の33%、西成郡36%、豊能郡の35%、中河内郡33%である。いずれも大都市、近郊の商業地帯でもある。国民兵役に編入され、日露戦でろくに訓練も受けずに砲兵・輜重輸卒、砲兵助卒などに召集されたのがこうした人々だった。
兵の等級
日露戦争当時の陸軍軍人は戦闘を専門とする各兵科と、軍隊の日常運営に従事する各部に所属した。兵科は歩・騎・砲兵(野戦・要塞)・工兵・輜重兵と軍事警察を専門とする憲兵科である。各部には経理部、衛生部、獣医部と軍楽部があった。各部のトップは中将相当官の主計総監と軍医総監、次いで主計監、軍医監という少将相当官があった。以下、佐官相当官の上長官、佐官相当官の士官がいた。
衛生部には薬剤官もいたが当時は大佐相当官の1等薬剤正が最高官だった。獣医部も同じく大佐級の1等獣医正があった。地位がきわだって低かったのが、軍楽部の最高官である楽長である。少尉相当官にしか過ぎなかった。大尉級になったのは1921(明治10)年の1等から3等までの楽長ができて、ようやく大尉・中尉・少尉の相当官ができた。
准士官には兵科の特務曹長のほかに、砲兵と工兵には技術者である上等工長、各部では経理部に上等計手と軍楽部には楽長補があった。下士は兵科では曹長・軍曹・伍長があり、各兵科には技能職の1等から3等までの工長がいた。この工長は専門技能職で、騎兵・砲兵・輜重兵には蹄鉄工長、砲兵科には鞍工長、銃工長、木工長、鍛工長というポストがあった。当時は後の時代の技術部がなかったので各兵科に属していたのである。服制では左上腕部に決められたマークを付けていたので一般下士とは区別することができた。経理部には計手、衛生部には看護長、軍楽部には楽手がいて、それぞれ1等から3等までの区分である。
兵卒は官等ではなく1~3級によって示された等級表があった。各兵科とも憲兵を除いて、1級上等兵、2級1等卒、3級2等卒である。憲兵は上等兵のみだった。砲兵には各兵2等卒と同じ3級に助卒と輸卒があった。輜重兵にも3級として輸卒があったことは前にも書いた。これらは1等卒に進級することはない。何年いようと2等卒のままだ。経理部には1級がなく2級1等縫工と3級2等縫工がある。これらには兵がつかないように、(具軍隊(部隊)にはいなかった。被服廠などの官衙に勤務していた。
衛生部には上等兵相当の1級に看護手があり2級はない。2等卒の3級に看護卒があった。そして補助看護卒もあった。後に衛生兵と名前が改められた国際法上、非戦闘員となる衛生部の兵には3種類あった。軍隊付きの看護手と後方の病院などに勤務する看護卒である。補助看護卒は病院などで雑役などをこなしていた。看護手は軍医が来るまでに応急処置ができ、国際法などの知識もなくてはならない。小学校尋常科卒以上が8割を占めて、高学歴者も珍しくなかったというのも当然のことだろう。負傷兵や重い衛生器材なども運ぶために体力もなくては勤まらなかった。看護手や下士の看護長は身体も大きかったという記録がある。
当時は学校歴のある者や、特別な資格所有者はひどく大切にした社会である。もともと、優秀な兵卒を衛生部に送り込んだ。その結果の優遇である。軍楽部の兵もまた上等兵にあたる楽手補があるだけだった。
上等兵の地位
この上等兵という立場も説明が要るだろう。現役3年制のこの時代、上等兵の定員はおよそ兵卒全体の6分の1でしかなかった。建軍の初期のころは歩兵中隊160名のうち9名でしかない。「上等卒」は歩兵と騎兵にしか置かれず、1等卒36名、2等卒115名のうちのトップエリートだった。砲兵に上等卒がおかれるのは1883(明治16)年のことであり、工兵と輜重兵には1885(明治18)年にようやく追加された。戦闘正面に立つ者と後方勤務という差だったのだろう。そしてこのとき、初めて上等兵といわれるようになった。
1883(明治16)年には、上等卒は歩兵・騎兵・砲兵隊では、分隊長、鍬兵長(しゅうへいちょう)、照準手の職務に就くこと、下士の勤務をとれるようにすることなどが規定された。鍬兵とは歩兵中隊に10名程度がおかれた土木作業を行なう兵卒である。現在の陸自の普通科連隊にも本部管理中隊の中に、ブルドーザーやパワーシャベルを持つ施設小隊がある。ただし、専門の工兵ではない。
1886(明治19)年には上等兵から下士に進めるようになった。このことは身分制度の気分も江戸時代を引き継いでいたその頃、たいへんな改革だった。当時の下士は原則として陸軍教導団の出身で士族出身者が多かった。下士の名称も「下等士官」を略したものだったから、士官学校へ入学できなかった者も教導団に入った。その経路を省いて、部隊の兵から現役下士へ進めるようになった。陸軍は人件費の削減にもつながり、下士の養成費用も節約できると考えたのだ。
しかし、元から軍隊は一般世間に人気があるわけではなかった。厳しい修業期間を終えて上等兵になるような者は確かにいた。ただし、そういう優秀者は学校歴もあり、除隊すれば職に困るような人々ではなかった。当時の優秀な若者は現役伍長になることは嫌ったといっていい。その代わり、戦時になって召集されれば伍長になる『下士適任證書』を与えられる予備役上等兵になって除隊する道を選んだ。このことは陸軍の解体(1945年)まで続く現役下士官補充の苦労につながっていく。
上等兵になる資格
陸軍省は上等兵になるためには「相当の学術」ある者でなくてはならないとした。部下兵卒に命令を与え、上官に部下兵卒の事情を直接報告するために文字の筆記ができること、部下を指揮するために操典類を理解できること、斥候(せっこう)として勤務したときに報告を筆記し、略図なども描けなくてはならないとした。また、部下から尊敬され、服従させ、率先する気力がある者、戦闘技術や庶務能力など「技芸がおよそ兵卒の上位をしめる」者であることを必要とすることを達した。
このことは軍隊生活を嫌いながらも、そこでの生活や訓練の評価が兵卒たちの除隊後の暮らしにつながるという現実をもたらした。近代国民国家は機会平等主義であり、能力主義、成果主義を標榜する。ろくに字も読めなかった、人前で話すことも苦手だった人が帰郷後には一応の地位を得たなどという話がある。華族も平民も、金持ちも貧乏人も、学校出もそうでない者もみな平等に扱われた、努力が報われた社会だったと軍隊を懐かしむ人も多かった。
上等兵はこの時代でも、160人の歩兵中隊のうち25人ほどしかいなかった。毎年の入営兵が途中損耗を考えて余分に採用した55名としても、2年兵で上等兵になれる(これを一選抜といった)のは10人ほどでしかなかった。帰郷すれば、村などではひとかどの人物として尊敬された。伍長勤務上等兵(これまた同年兵の中で4名ほど)で除隊した人は郡長から表彰されたなどという話も伝わっている。
次回は兵站が送った兵器や装備、食糧などについて語ろう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2016年(平成28年)2月3日配信)