陸軍の「兵站軽視」はほんとうだったか?〈1〉

兵站がなかった幕府脱走兵

 幕末の話である。のちに新政府に仕えて、清国駐箚公使、枢密顧問官にもなった大鳥圭介(おおとり・けいすけ:1833~1911)は、当時、幕府陸軍きっての戦術家だった。もともとは大坂の緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、韮山代官江川英敏塾で西洋兵学を学んだ。幕府の蘭書翻訳方に出仕、1864年には歩兵指図役(中尉)になり、同頭取(大尉)から歩兵頭(大佐)、歩兵奉行(少将)と昇進
を重ねた。ただし、鳥羽・伏見などでの実戦の経験はなかった。
 江戸で直に率いた部下は自ら育てた「仏式伝習隊」というフランス式の近代装備歩兵である。自伝によれば、鳥羽伏見の戦争に負けて大坂城から逃げてきた最後の将軍、徳川慶喜に徹底抗戦を説いたという。ところが、負けて意気消沈の慶喜は乗ってこない。大鳥は時期を待った。
 1868(明治元)年2月になると、大坂から敗走してきた幕府洋式歩兵隊は次々と脱走を始めた。5日、フランス式伝習大隊の一部、400人が八王子方面に去った。7日には勝海舟自らが鎮圧に説得に出向いた歩兵第11連隊と同12連隊の集団脱走があった。当直将校を殺して脱営した彼らは、驚いたことに幕府高官の勝海舟にも発砲する。東北地方、会津、庄内に向かえば、必ず雇ってもらえるという首謀者の煽動にのった結果である。崩壊寸前の幕府には彼らに払う給与もなかった。十分な衣食住も提供できなかったのだから、「傭兵」としては義理を感じることもなかった。
 大鳥は歩兵奉行だった。幕府陸軍の官制では尉官級将校が「歩兵指図役」といわれ、佐官を「歩兵頭」、将官を「奉行」といった。陸軍奉行はロイテナンド・ゼネラール(中将)、歩兵奉行がゼネラール・マヨール(少将)、以上が将官。歩兵頭をコロネル(大佐)といい、歩兵頭並はロイテナンドコロネル(中佐)が佐官。尉官はカピテイン(大尉)といい歩兵指図役頭取という。歩兵指図役は1等ロイテナンド(中尉)、同並を2等ロイテナンド(少尉)とした。コロネルは連隊長、ロイテナンドコロネルは大隊長、カピテインは中隊、1等ロイテナンドは半隊(中隊を2分したもの)を指揮した。この階級の呼び方と編制を
みただけで、それまでのサムライの軍隊とは違っていることが分かる。
 これらの洋式歩兵の訓練は厳格だった。フランス陸軍の将校と下士官が顧問団になり、演習でとことん鍛え上げた。しかも、雇われた伝習兵の多くは幕末に失業した、江戸にごろごろしていた武家奉公人だった。大名たちが江戸屋敷で雇いあげていた駕籠かき(陸尺という、身長が6尺=180センチだったからという説もある)や奴(やっこ)、中間(ちゅうげん)といった体力自慢の連中だったのだ。もちろん、風儀がいいとはとても言えない者たちだった。しかし、身体は大きく、健康で、何より軍隊くらいしか食える場所がなかったのである。
 江戸城引き渡しの日、4月11日には千葉県国府台(こうのだい=市川市)に集結した脱走隊の兵力は大きなものだった。江戸大手町にいた伝習第1大隊700、神田小川町(古本屋街のそば)の伝習第2大隊が400、歩兵第7連隊350、幕府御料兵200がそろった。洋式歩兵隊が合計で1650人。それに幕府陸軍砲兵隊2門が護衛兵とともに100を数え、幕府陸軍工兵隊である土工兵が200、桑名藩兵200、会津藩伝習隊80、そして京都を震え上がらせた新撰組の残党が90といわれている。合わせて2320名という戦力だった。
 この国府台の脱走軍は指揮官に大鳥圭介を選んだ。語学力を生かし、洋式戦術を学び、将校の昇進の梯子を一気に登った男に信頼を寄せたのだった。副指揮官・参謀には新撰組副長だった土方歳三が推された。土方にはすでに槍や刀の時代が過ぎたことが分かっていた。すでに新撰組も最末期には洋式銃をもった軍隊だったし、指揮官の天分が土方には十分にあったに違いない。彼が最期を迎えた箱館でも、戦術に優れ、実兵指揮に長けていたことは有名である。
 脱走隊の主力だった伝習兵は当時、最新式の元込めライフル銃のシャスポー銃で装備されていた。官軍の主力だった薩摩軍でさえ、先込めのエンフィールド銃をもっていた頃である。射程も優れているし、
集弾率も高かった。何より、発射速度が大違いだし、元込めは寝たまま弾丸を装填できた。先込め銃は装填時にどうしても姿勢が高くなる。それに加えて集団戦闘訓練の度合いが、寄せ集めの官軍とはけたが違っていた。
 大鳥軍は快進撃を続ける。目指したのは栃木県日光である。日光には神君家康公をまつる東照宮があり、鬼怒川を北上すれば会津と連絡する。当面、日光に駐屯し、情勢変化を見ながら会津藩に合流しようという腹である。
 新式装備と訓練の積み重ねのおかげで、脱走軍は各地で連勝する。官軍の拠点、宇都宮城も陥落した。ところが、入城したものの兵站が続かない。周囲を占領して城にこもるとなれば、たちまち治安維持や物資の調達といった兵站事務が必要になる。城下町には軍政をしかねばならないし、周辺には警戒するための分哨も置く。防衛線を築くための通信網も作らねばならない。
 本格的な攻撃を受け始めて大鳥は動揺した。慌てて今市に下がることにする。ところが浮足立った敗兵は止まらない。大鳥軍は4月25日には日光に逃げ込んだ。
 大鳥はのちに自著、『南柯紀行(なんかきこう)』でおおよそ次のように述べている。

『江戸を出て以来、弾薬の予備がたいへん少なかった。屯所を出るときにはそれなりの用意があったが、係が持ち出すのを忘れてしまった。ある人に頼んで送ってもらうように頼んだが、途中でさえぎられ届かなかった。鹿沼(栃木県)に宿営していたとき、江戸から2人の知り合いが逃れてきて、その人たちが日光に在勤していたことがあり、地元に詳しいので弾丸の製造を頼んだ』

 5000発も造ってもらったが、とても実用品ではなかったという。それはそうであろう、シャスポー銃の弾丸は装薬と椎の型の弾丸が一体化し、薬莢は厚紙でできていた。見よう見まねで小銃弾ができるわけがない。やむなく、会津藩に弾薬の供給を頼んだがどうなるかわからなかったと大鳥はぼやいている。

『弾薬運送の重要さはかつて書物でも十分に読み、知っていたことだったが、今回のように前後が混乱した中ではどうにもなるものではなかった』

と後悔している。実戦経験がないばかりか、軍隊が行動するという実態への想像力が欠如していたわけだ。
 大鳥軍は日光を追い出された。当然だろう。『米塩も少ない』と元幕府家臣の日光奉行が来て言うのだ。4月29日には大鳥軍は会津を目指して出発した。「六方越え」といわれた帝釈山系の南面、険しい間道しかありはしない。民家もないから食糧を徴発もできない。兵士たちは米もなく、味噌をなめ、たくあん漬け、梅干をかじるだけで重い銃を担ぎ歩き続けた。ようやく会津藩領、田島に着いたのは翌月の閏4月5日だった。
 大鳥は当時の部下たちから「兵を語るのは上手だが、兵を用いるのは下手」と常に言われ続けた。戦術や戦闘の方法、あるいは大きな戦略は語れても、それだけでは指揮官ではない。兵に十分に食わせ、眠らせ、負傷には手当てをするといった兵站を保障することが兵を用いるということであるからだ。

大東亜戦争での失敗

 ガダルカナルでは悲惨な戦いになった。輸送船は次々と沈められ、揚陸した物資も銃爆撃で次々と燃やされた。食糧は来ない、燃料も揚がらないからトラクターが動かないので重砲は放棄される。弾薬も
医薬品も来ないから、無傷な将兵もまともに戦闘などできるわけがない。栄養失調から病気になる、風土病はまん延する。最初は駆逐艦に頼んで、魚雷を下し、その代わりにドラム缶を積んだ。中には食糧や補給品が入っている。夜間に高速で海を越え、海岸近くになってロープでつないだ缶を落とした。夜明け前に海岸に出た人間が引っ張りあげる。それでも焼け石に水だった。1日5合の定量の米だけで2万人なら100石、つまり15トン必要になる。ドラム缶は250リットルだから一杯に入れても200キロそこそこだろう。75本の米入りドラム缶も1個師団の1日分でしかない。しかも、全部が回収されてこそで、それが揚陸されてジャングル内に回収されて、蓄積されて、配分されて・・・と考えると、その大変さが想像できる。
 インパール作戦はチンドウィン河を越えて、標高3000メートル級のアラカン山系を踏破する進撃である。これも補給が続かなかった。むしろ包囲されたはずの英軍は空中補給で肥え太っていくのに、日本軍は後方をウィンゲート旅団に攪乱され、補給もほとんど届かなかった。やせ衰えていったのは包囲した方だった。敵陣を目前にして前のめりに倒れた将兵、後退途中に力尽きた将兵、後方へ下がる道は白骨街道といわれた。ニューギニアも似たような状況である。将兵は敵弾に倒れるより飢えと病気に勝てなかった。
 進攻ではなく防御に回ったフィリピンの戦いでも飢えと病気に負けたことは変わらない。補給が途絶え、射つに弾丸なく、食糧も、医薬品も不足していた。ここでも輸送船の損害が大きかった。激しい空襲の合間をぬって、せっかく接岸しても、揚陸した物資は敵機の銃爆撃にあって港で焼かれた。海岸線から内陸へ運ぶことにもたいへんな苦労を要した。
 こうしたことから、陸軍は補給を、兵站を、後方を軽視したといわれてきた。しかし、負けていた時ではなく、勝っていたときはどうだったのか?
 勝った戦闘は兵站を軽視していたのに勝てたのだろうか?
 上海事変や『日軍百万上陸』のアドバルーンで有名な杭州湾上陸などは兵站を軽視していても成功したのか? そもそも「腹が減ってはいくさは出来ぬ」という古くからの諺(ことわざ)は何を表してきたのかということだ。
 よく、ろくろく補給を考えずに、「現地徴発」をして戦争をしたという。しかし、日本陸軍は近代国家の軍隊である。現地徴発とはあくまでも主ではなく、後方からの追送の負担を減らすための従となる手段だった。経理部将校たちの手記がある。法的手続きをとって、相手に書類を渡し、その場で決済したり、司令部で軍票を交付したりするという手続きが正統である。住民がいなかったので、仕方なく書類を家の柱に貼り付けてきたともいう。軍票が効力を得られなかったら物々交換である。中国の奥地では、野菜や豚と医薬品で取り引きしたという経験も聞かれる。

陸軍は兵站補給を軽視などしていなかった!

 つまり、(作戦の)失敗・成功と(兵站の)軽視・重視はあまり関係がないというのがわたしの考え方になる。
 重視すれば成功したというなら、日本陸軍は日清・日露戦争では兵站を重視し、その後、軽視をしてきたことになる。そうであるなら、軽視がいつから始まったか、どういう文書が出たかという証拠がなくてはならないだろう。ところが、調べてみれば陸軍は建軍から一貫して後方補給や兵站、その手段や装備、人材育成にもひたすら努力を続けていた。戦場の輸送力の中心となる軍馬の品種改良にも手を尽くし、軍用自動車の開発にも熱心だった。将兵にもたせる糧食も研究を重ね、戦後のインスタント食品業界の隆盛は戦前軍隊のおかげでもある。粉味噌や粉末醤油、さらには乾燥された餅まで用意されていた。
「物量に負けた」という言い方は戦時中からあった。「科学力も負けている」という冷静な意見も持っている人は多かった。高空を飛ぶB29にわが高射砲弾は届かなかったし、防空戦闘機も追いつけなかった。日本人はみんな、占領軍として進駐してきたアメリカ兵を見て、とてもかなわないと思った。栄養も良く、健康的で、物資をふんだんに使い、贅沢な服装をしていたアメリカ兵。負けて当然だったと納得した人も多かった。
 もはや戦後ではないと大見えをきった生活白書。あの昭和30年代から、「技術では負けていなかったが、物量に負けた」という人が増えてきた。同時に、兵站を軽視していたからだというようになった。技術では負けなかったという人はゼロ戦や戦艦大和を挙げた。あるいは酸素魚雷や末期の紫電改の活躍などが語られた。興味深いのは陸軍兵器や技術で有名になったものは少なかったことだ。アメリカ軍が恐れたというのが現在も使われるお決まりのフレーズである。しかし、それも眉唾であると思う。
 戦後、たくさん作られたアメリカ映画を見るといい。中国人かアジア系の人が演じる日本兵はまったく弱い。自動小銃、機関銃の前に立ち上がる日本兵、たった1人で何百人もの日本兵をなぎ倒すアメリカ兵。空中戦でも次々と撃ち落とされるゼロ戦。1940年代後半から50年代の終わりにかけて作られた戦争映画はみな、卑怯で、だらしがなくて、間抜けな日本兵が描かれていた。
 少し様子が変わってきたのは60年代からだろう。間抜けで弱い敵をいくらやっつけても自慢にならない。
 次回はさらに、兵站についての制度的な問題点について詳しく語ろう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2015年(平成27年)12月16日配信)