補給を支えた技術者たち

工長たち

 造兵技術に従った技術下士はそれぞれの専門を持っていた。いくら西欧から機械を輸入し、知識を習得した将校がいても、それだけで戦場で使える装備を生産することは不可能だった。しかも生産現場では管理業務を行ない、部隊においては簡単な修理などを企画・実行できる技能者の養成は簡単にはできはしなかった。そのため、陸軍は建軍当初から中下級技術者養成のための学校を作り、着々と近代軍隊の基礎を用意してきたのだった。その卒業生は、砲兵の中に合算された火工を除いては、准士官225、銃工長342、木工長136、鍛工長154、鞍工長123の合計980人にものぼった。
 1885(明治18)年の「砲兵工廠生徒学舎規則」によると、生徒の募集は火工、鞍工、銃工、木工、鍛工の五工科である。修業年限は火工が2年、ほかは3年だった。年齢は18歳から25歳まで、身長が5尺(151.5センチ)、興味深いのは体質という項目があり、「強壮、就中(なかんずく)銃木鍛工は膂力(りょりょく)最強き者」という注記があることだ。学科は読書・作文・算術である。この年の定員表を見ると、学舎長は大尉、副長が中(少)尉、監護(曹長相当の技術下士)1、曹長1、1・2等軍曹2、これに相当する火工下長や鞍工、銃工、木工、鍛工下長たちが8名に生徒150名である。ほかに判任文官の算学教官が3、図画学教官が4名いる。
 この受験科目に読書・作文があることが注目される。すでに多くの教育用文献が日本語訳されていることが想像できる。ところが、この日本語の多くに難解な漢語が多く使われていたのだろう。当時の中等学校卒業者を想定した士官候補生の受験でも、漢文が必須項目だった。高等教育の受験に英語が重視されたように、技術下士官には漢語を理解できる人材を必要としていたのである。
 1890(明治23)年になると、「砲兵工科学舎」となり、生徒の応募資格者が限定された。「火工科は砲兵隊上等兵中志願の者を選抜分遣して学生となし、卒業後に火工下士となる者」となった。なた、卒業後には原隊に復帰し、さらに3年間の現役服務をし、欠員あるごとに火工2等軍曹(伍長)に任ずることになった。ほかの専攻者は卒業後に全員が下長(下士相当)となるが、この生徒志願者も兵卒からの志願の受験資格は現役兵としての服務を6カ月以上経過した者と限られた。25年には火工学生志願者は現役20カ月以上の者とされ、原隊復帰後の3年間現役は廃止された。この年には火工学生44名、諸工生徒100名だった。
 日清戦争後の1896(明治29)年、砲兵工科学校は大騒ぎになった。100名の募集に対し、応募はわずかに44名、うち合格者は26名だったからだ。火工学生は砲兵隊上等兵で現役20カ月以上服務者から、ほかの諸工は現役6カ月以上の者からとし、民間からの受験を停止した結果である。あわてて東京・大阪で再募集し、どうやら定員を満たしたらしい。このことは当時も今も変わらない、軍隊の人気と景気に関係がある。日清戦争後は資本主義がさらに進んだ時代だった。世間は好景気、軍隊になど入るという気分がひどく下がった時代である。また、上等兵になれたような人物は、十分に社会で活躍できる人材だった。陸軍は現役下士官の募集にもひどく苦労した時代である。
 1899(明治32)年には、階級呼称も火工長、火工下長といった独特のものから砲兵曹長・同軍曹・同伍長となった。同時に火工学生も砲兵隊の長期下士から学校へ分遣し、1年間の教育を終えて原隊に復帰、火工掛下士になるようにした。
 長期下士というのも陸軍現役下士官養成の苦肉の策だった。長期下士とは現役下士を志願した者をいい、定年まで服役した。短期下士とは上等兵の中から選抜し3年目には伍長にして、除隊時に予備役伍長にする制度だった。ただし、この制度は長く続かなかった。日露戦後には上等兵から志願して受験入学した者もいたという。これも日露戦後の不況の影響で、現役下士への就職志望が増えたからだろう。

野戦兵器廠に応召した下士

 東京市下蒲田近郊から稲垣砲兵曹長は応召した。行先は近衛師団野戦兵器廠である。1904(明治37)年2月8日のことだった。同日に兵器廠火工掛になった。15日には動員が完結し、24日午前3時には宿舎を出て、大塚火薬庫から品川駅まで弾薬その他を運ぶ。30年式小銃弾、31年式速射野砲榴弾、同榴霰弾、黄色火薬、工兵用具、爆管、信管などである。午後11時11分、品川駅を出発した。
 26日の午前5時、大阪梅田駅に到着。ここまで、およそ30時間かかっている。午後5時に岡山駅に着き、3時間の休息があった。27日の午後7時、宇品停車場(広島)に到着し、およそ600メートル離れた倉庫に弾薬資材を運び込んだ。宿舎までおよそ1里を歩いた。民家宿泊である。翌日は休養。1日は師団兵站監の武装検査が行なわれた。広島東練兵場で整列し、検査を受けた。2日には広島兵器支廠に村田銃実包を受領に出張、支廠長は学生時代の教官(砲兵少佐)だったので挨拶。2万6000発あまりの実包は支廠の倉庫内に預けて帰る。
 3日は東京兵器廠から第1軍司令部あての工兵用黄色火薬34箱を受け取り、支廠の火薬庫に預ける。角形、丸形の黄色火薬数千個と雷管1000個、導火索400束、電勢信管300個などである。6日も村田銃実包受領に支廠に出張。7日には忙しい思いをする。速射野砲用の薬莢爆管のうち不発火の不良品が出た。宇品の倉庫に爆管の製造年月を調べに午前7時から午後5時まで出かける。9日には30年式薬莢の爆管不発があり、これも製造年月調査のために宇品倉庫に出張。10日はいよいよ貨物船に積み込みをするために、近衛野戦兵器廠の保有する「弾薬・火具の箱」の立法尺(体積を測った)を報告する。
 11日には広島市内で現役時代の同僚たちと懇親会をした。そこで玉川村(現川崎市内)の田中軍曹と出会う。「輜重服」を着ていたので、会ってすぐに誰かわからなかった。聞けば輜重監視隊だという。輜重服とは騎兵のようにサーベルをさげ、乗馬長靴を履いている服装を指した。当時の仲間の大崎、前田の両軍曹とも輜重監視隊にいるという。この隊は輸卒で編成された兵站輸送隊の護衛や監督を行なう戦闘部隊である。全員が乗馬し、主に予備役兵科下士、同上等兵が応召していた。
 15日にはいよいよ支廠から荷馬車9輌で、預けていた弾薬を宇品に運ぶ。午前11時30分に人夫(にんぷ)代用の輸卒40名を使って艀(はしけ・小型船)で本船に積み込む。すでに民間人の仲士と呼ばれた人夫は不足していたことがわかる。
 16日は朝から雨が降り、午前7時に全員本部前に背嚢を背負い集合、宇品まで1里半(6キロ)を行軍した。ところがいっしょに乗るはずの弾薬縦列の馬も搭載が終わっていない。応援を出す。11時にようやく全員が乗船した。
 17日、午後1時宇品港を出港する。兵器廠長は砲兵少佐、将校2名、准士官3名、上等工長・下士13名、兵卒28名、代用工長6名である。代用工長とは技術下士の扱いを受ける雇いの民間人である。

鎮南浦(ちんなんぽ)に上陸した野戦兵器廠

 24日、朝鮮半島の付け根にあたる補給の拠点、鎮南浦に到着する。稲垣曹長は先頭に上陸し、弾薬置き場を選定した。弾薬をまずそこに集積する。27日には兵器と諸材料を陸揚げした。翌日、兵器廠が全部上陸し、弾薬庫を移した。29日には各工具の手入れを行なった。30日は倉庫内の整頓を行ない、担任業務割を発表する。
・平沢上等工長
 武器出納簿の作成管理、弾薬の出納、新調・修理・交換の区分、取り扱い材料と消耗品の授受、新調あるいは修理を終えた物品の取り扱い、工場の巡視、器具材料出納簿、輜重器具材料の出納簿の作成管理。
・青木上等工長
 工場監視、工場日記、武器新調修理簿、輜重兵器具材料簿、修理簿の作成管理。各工場でなされた修理、新調の物品の一覧表など。
・吉田上等工長
 歩工兵器具材料出納簿、歩兵器具材料出納簿。
・稲垣砲兵曹長
 武器弾薬器具材料出納とその貯蔵所での格納保存配置と危害を受けることの予防等に関する件。
・田村、高橋軍曹
 信管の装着、弾薬箱に弾薬の填実と武器器具等の清拭を管掌(兵器出納簿の助手)。
 ほかに各工長たちはいずれも倉庫主任を命じられた。銃工、鋳工、木工、鞍工の4つの倉庫である。また、1名の砲兵軍曹は歩工兵器具を扱った。ほかに庶務掛3名、亀田計手(経理部下士)は経理業務にあたり、砲兵伍長1名はその助手を務めた。
 このように、師団全部の弾薬や火薬、輜重器具材料、たとえば駄載用の鞍、輓曵用の荷車から始まり、各種兵器材料のすべてを扱い、修理も行なうのが野戦兵器廠である。輸送の仕事もあった。村田連発銃実包8万4000発を平壌城内の兵站監部に水路を使って送れという命令が来る。曹長は軍曹1名と輜重兵1名を連れて、兵站部から指定された韓船(傭船契約を結んだ)に弾薬を積み込んで、輜重車15輌分の荷を運んでいる。
 4月7日には門司野戦兵器本廠から届けられた野砲砲弾爆管365個と薬莢蓋730個、点火薬包365包を倉庫から受領する。その他木工場では重砲の車輛修理、鋳工場では針金を曲げ、焼き入れをしている。野戦電信の電柱を造るために杉材を4間(約7メートル)の長さに切り、頭部を削って成形していた。
 軍隊は何でも自分で作る。組織の運営も含めてこれを自己完結機能というが、命令を受けた個々人の能力や意欲がその裏付けをなしている。稲垣曹長は「合信火箭(ごうしんかせん)」の作成者を命じられた。信号用のロケット花火のようなものだろう。『何一ツトシ機械無ク又之レニ要スル要品モマトマラズ』というのが稲垣曹長の原文である。とにかく、竹を使おうということで設計し、第2師団、第12師団の火工掛の指揮下に入って作り上げた。

後方勤務員は何を食べていたか

 8月8日の記載に兵站部倉庫から受け取った3日分の食糧がある。精米が1升8合、つまり1日あたり6合(900グラム)である。以下、1日1人当たりの数量を写してみよう。粉味噌5匁(約19グラム)、エキス5匁(乾燥粉末醤油)、乾物20匁(75グラム・大根の切干)、砂糖3匁(11グラム)、塩乾物30匁(110グラム・イワシの干しか)、福神漬け10匁(38グラム)、茶1匁(4グラム)という実態である。まさに主食は白米で贅沢そのもの、副菜はひどくお粗末といったところだった。
 ほかにも支給された品目が書かれている。牛肉缶詰が100匁(375グラム)とあり、39人の3日分だという。ほかに340匁(1275グラム)の牛のテール(尾)の乾物。これらが精米1人当たり1日6合とともに渡されていた。さすがに食事に文句をいうものが多く、将校や下士の命で周辺の民家からニワトリや豚などを買い、工夫していた。後方地域であればこそ現地の住民がいて、物々交換や、金で食糧を買うこともできたことが分かる。ところが、これが前線となるとそうはいかなかった。
 次回はいよいよ「脚気(かっけ)」について調べよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2016年(平成28年)3月9日配信)