陸軍工兵から施設科へ(48) 幻の弾丸列車計画(1)

日韓連絡海底トンネル

 旧統一協会関連の報道の中で、わが国と韓国を結ぶ海底トンネルの話が出てきました。正直に言って、あの計画を宗教団体が絡んで実行していた(たとえポーズだけでも)という驚きがあります。
 今日からの話題は、いまの東海道・山陽新幹線とその前身だった「弾丸列車」計画です。参考になるのは青木槐三氏の回顧録。よくまとまっているのでお世話になります。
 東海道本線はいまも昔も産業の大動脈です。丹那トンネルが開通し、東海道本線の輸送力も大きく向上します。戦争が続き、大陸での戦闘が盛んになると内地からの物資輸送が死命を握ります。そこで計画されたのが東海道線の複々線化、もしくは広軌(標準軌)による車輌の大型化、高速化でした。

実現した広軌鉄道

 1964(昭和39)年10月1日、東京駅と新大阪駅から同時に「東海道新幹線」の列車が発進しました。1日に30往復、60本の列車が新しい広軌の線路の上を走りました。最高時速は毎時210キロメートル、「ひかり」は4時間、「こだま」は5時間で走り抜けます。これは大変な衝撃でした。
 わたしが小学生の頃には電車特急、「こだま」が神戸まで6時間半で走り、「日帰り出張ができる」というキャッチコピーでビジネス特急などといわれています。1958(昭和33)年から運転が始まりました。朝一番で「こだま」に乗れば、昼には大阪で会議が出来て夕方には上り「こだま」に乗ることができるというのです。
 それからみても大阪まで2時間の短縮でした。ほんとうにゆうゆうと日帰りで関西に行けるようになった。びっくりしました。『昭和家庭史年表』(1990年、河出書房新社)を開くと、同時に国鉄山陽本線の広島・山口・小郡間の電化が完成しました。全線の電化が実現します。九州までも早く行けるようになったと思います。
 10月10日は「第18回オリンピック」の開会式でした。参加国は94カ国、参加選手は5541人です。このことを記念して、「体育の日」が制定されました。
 さて、この新幹線計画の出発点はどこだったのしょうか。青木氏は1907(明治40)年という説を紹介してくれています。

東京-大阪を6時間で

 安田善次郎(1838~1921年)という人がいました。一代で安田財閥を築いた人です。旧富士銀行の母体となった安田銀行を設立し、晩年の寄付行為では東京大学の「安田講堂」などで知られています。
 この人が出資して、資本金1億円の日本電気鉄道会社の設立が計画されました。笠井愛次郎(九州鉄道創立者)、立川勇次郎(鉄道企業家)、藤岡市助(電気技師)の3人が技術方面を担当し、安田がそれをバックアップするという構想です。
 起業目論見書(きぎょう・もくろみしょ)によると、東京-大阪間に電気鉄道を建設する。営業は旅客のみで起点を「渋谷」にし、神奈川県の松田、静岡、名古屋、伊勢の亀山を経由し、大阪野田を終点にしようというものです。松田は当時の東海道本線(現在は御殿場線)と接続しようというものでしょうか。また、名古屋からは大垣や米原という関ヶ原越えではなく、三重県の山中から奈良へ抜けて大阪へという計画です。
 電柱や架線を採用せず、いまの地下鉄のように第3軌条方式をとります。車体の下から横に集電用の設備をつけ、横の3番目のレールから電気を供給します。ゲージは国際標準軌(今の新幹線と同じ)で全線は複線です。
 路線の総延長は287マイル60チェーン(約460キロメートル)、レールの規格は90ポンド(1ヤードの重さ・約41キログラム)、曲線半径は20チェーン(1チェーンは22ヤード、約20.12メートルだから、約402メートル)、最大勾配は20分の1でした。軽量な列車を計画していたのですね。
 客車3輌ないし4輌で1編成。200馬力のモーター2基が各車輌に付けられます。客車の長さは最大で73尺(約22メートル)、定員80人ないし100人、洗面所トイレもあり、運転間隔は30分、速度は停車時間も含めて毎時60マイル(約96キロ)、600ボルトの交流電化です。
 これが1907(明治40)年に構想されていました。安田の発言によれば、電気鉄道に着目し、都市近郊ばかりではなく幹線も電車にしたらどうかと考えたといいます。当時は東京と大阪の間は最急行で12時間半でした。完成は5年後とのことです。

東京-下関間の弾丸列車計画

 1934(昭和9)年鉄道省の岐阜建設事務所長になっていた技師が思いつきました。関西線と東海道線の間には距離がある、もう1本、伊勢や桑名あたりから京都へ抜ける線路があったらどうかというのです。これが鉄道省中央で話題になりました。さらに東京と下関の間を14時間くらいで結ぶ、下関と朝鮮の釜山(ぷさん)を海底トンネルで結んだら、関東州の奉天、中国の北京までも結ぶことができるという話になったのです。
 この思いつきが具現化します。1939(昭和14)年8月、この新幹線構想のために鉄道省の中に幹線課という部署がスタートしました。調査会も生まれます。へええと思うのは、この会には海軍から山本五十六(のち聯合艦隊司令長官・元帥)、陸軍からは阿南惟幾(あなみ・これちか、敗戦時の陸軍大臣)、それに実業界からは小林一三(こばやし・いちぞう、阪急電車、宝塚少女歌劇などを創設)などが加わっていました。
 11月には答申案が出ましたが、線路を広軌にするか狭軌かでもめます。陸軍は初めの頃、広軌には賛成せず、しかも電化には敵の爆撃による被害を恐れて反対です。しかし、輸送力増強のことが重要であることを主張した国鉄側の意見が通ります。
 また、下関と東京の間を9時間で結ぶという大方針も立ちました。東京-大阪間は4時間半を実現する。25年後の開業当時の東海道新幹線とあまり違いがないという計画になりました。
 気がつかれたかと思います。日韓海底トンネルというのは朝鮮を縦断し、奉天・北京を結ぶという大構想の下での1つの工事でした。以前にも韓国側から蒸し返された対馬海峡の下を通る「韓日海底トンネル」の必要性はいまでは何もありません。しかも、工事費は全額日本の負担で、「領土である」対馬の発展にも役立つというのは韓国輿論の「妄言」でしかありません。
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和四年(2022年)8月31日配信)