特別紹介 防衛省の秘蔵映像(17)自衛隊30年の歩み

1984(昭和59)年の映像
https://www.youtube.com/watch?v=DMUSDUeKGfw

お礼

 MMさま、いつもありがとうございます。掃海隊の方々は戦死、あるいは戦傷という扱いは受けられませんでした。当時の独り立ちできなかった日本のために、日本国民の将来のために出発されたのは確かです。
何よりお気の毒なのは、すべてに緘口令が出されたために、隊員の方々がさまざまな思いを胸に出撃された事実も世間に知られなかったことでしょう。米海軍からも能力への高い評価を受けて、戦局への貢献に対する謝意があったことなども知られずにいます。
あらためて、感謝の気持ちをもつべきだと思います。

聯隊区についてのお問い合わせに答えて

 HMさま、ご愛読ありがとうございます。聯隊区と大隊区についてご説明いたします。まず、大隊区司令部条例(明治21年勅令第29号)を見ましょう。第1条には、司令部職員表が載っています。司令官は中佐、もしくは少佐1名、副官大尉もしくは中尉1名、書記下士5名(うち1名は軍吏部下士)、監視区長曹長2名ないし4名とあります。
 第2条には、「司令官は旅団長に隷し、各大隊区内の徴兵事務及召集事務を掌る」と隷属関係が明示されています。そして第6条には48個の司令部の位置が書かれます。当時は6個師団、合計24個歩兵聯隊でしたから48個の大隊区司令部があったわけです。大隊区は2~4個の監視区に分かれます。だから曹長が2名ないし4名だったのです。
 注意すべきは、師管を2つの旅管(旅団管区のこと)に分け、旅管をさらに4個の大隊区に分けていることです。ご承知のように、旅団は2個歩兵聯隊ですから、大隊区はその倍の4個になります。2個の大隊区から1個の聯隊の兵員を徴集することになりました。
 東京の第1師管の例を挙げてみます。第1(東京)旅管は麻布(東京)、横浜(神奈川県)、高崎(群馬県)、長野(長野県)という大隊区に分かれます。第2旅管は佐倉(千葉県)、水戸(茨城県)、本郷(東京)、宇都宮(栃木県)の各大隊区です。
 さらに詳しくいえば、当時は騎兵旅団も野戦重砲兵旅団もありませんから、旅団長といえば歩兵旅団長しかおりませんでした。だから旅管とは、そのまま歩兵旅団長の管轄する管区という意味になります。そこで、当時の旅団長は、後の旅団長と異なって、軍政上の職責権限を持っていたことにも注意しなければなりません。大隊区司令部を管轄し、徴兵や召集業務を行っていたからです。旅団司令部条例にもそのことを表す記述があります。
 この制度が変わったのが、日清戦争(明治27・8年戦役)後の、明治29(1896)年です。大隊区司令部が廃止され、師団長に直結する聯隊区司令部になりました。旅管も廃止されました。旅団長は大きく軍政面から後退します。そのゆり戻しが日露戦争直前の明治36(1903)年の改正です。歩兵旅団長の職責として、聯隊区司令部、沖縄警備隊司令部の徴兵事務を監督する権限が復活します。そうして、大正13(1924)年には旅団司令部条例から徴兵事務の監督権限が削除されます。これで旅団長は軍政面にタッチすることはなくなりました。
 なお、歩兵は大隊区時代ならその大隊区ごとに割り当て徴集人数は、公平になるように配慮されていました。歩兵以外の特科隊(騎兵・砲兵・輜重兵・工兵)は師管全体から採られておりました。

はじめに

 昭和の50年代最終期の映像です。ある程度のお歳の方々は「禁煙パイポ」のCMをご記憶ではありませんか。「わたしはこれで会社を辞めました」と、中年男性が小指を立てるものでした。「焼酎の一気飲み」などが始まり、エリマキトカゲなども流行しました。
 食生活の変化も大きかった年です。外食産業の売り上げは、マックが約1兆円を売り上げで日本一になります。第2位はファミレスのすかいらーくグループ、3位は小僧寿し、ほっかほっか亭、ロイヤル、ケンタ、ダイエーの外食事業部などと続きました。
 ついでに「昭和家庭史年表」(河出書房新社)から政治・経済面から昭和50年代(1975~84年)をふり返ってみましょう。51年はロッキード疑惑で田中角栄前首相が逮捕されました。52年は三菱商事・三井物産などが韓国の朴政権や岸信介氏らにリベートを払っていた日韓癒着問題が表面化します。同年、米軍立川基地が全面返還されました。53年には福田赳夫(ふくだ・たけお)首相が、防衛庁に有事立法・有事防衛の研究促進、民間防衛体制の検討を指示します。54年は米中が国交を結び、台湾が切り捨てられました。アメリカのダグラス・グラマン両社の航空機売り込みに関する疑惑が発覚、キーマンとなっていた日商岩井の重役が自殺します。東京都知事には自民党推薦の鈴木俊一氏が当選し、革新都政が終わります。
 55年になると、ソ連ではアフガニスタン侵攻への批判が出ました。そして、イラン・イラクの間に戦争が起きます。56年には日米貿易摩擦への対応として、自動車の輸出自主規制が始まりました。自治省は81(昭和56)年度の全国市町村要覧に、北方領土3島6村を加えると決めました。歯舞(はぼまい)諸島はすでに根室市に編入済みでした。57年には日米共同の極東有事研究が始まります。欧米との貿易摩擦が激しくなり、日本に非難が集中しました。58年には富士銀行がアメリカの金融会社2社を買収。日本企業の外国企業買収が活発化します。大韓航空機がソ連戦闘機に撃墜されます。
 
 そして、この1984(59)年、日本海側の大雪が「59年豪雪」と名付けられました。死者121人、重軽傷者733人も出たのです。もちろん、映像の中に自衛隊の災害派遣が記録に残されています。
気象庁は「異常気象白書」で北半球の急速な温暖化を指摘します。東京では熱帯夜が連続16日間も続きました。観測史上初めてのことだそうです。

イーグルの配備

 映像には第2航空団第203飛行隊が、F-104からF-15に機種改編がされたことが出てきます。この時代、装備取得計画は5カ年単位で計画されました。この映像の頃は1980(昭和55)年から84年までの計画になります。これが「53年度中期業務見積り」です。
 
 ただし、この見積りは決して固定的なものではありません。目安として5カ年単位にしていますが、3年間が経った時点で、残りの2年に新しい次の年度の3年を加えて、新5カ年計画としていました。いわゆるローリング方式を取ることになっています。
 1980年代には旧式化したF-104Jスター・ファイターの更新用として、待望のF-15Jイーグルが戦列につくことになりました。1986(昭和61)年には、暫定的に編成されたF-4EJファントムの1個飛行隊が退役します。そこでF-15Jの調達数も当初の100機から123機くらいになるのではと思われていました。
 F4EJは防空戦闘機(邀撃専門の戦闘機)としての任務は外されて、対地攻撃の支援戦闘機や戦術偵察機であるRF4への改修がされていました。支援戦闘機にはすでに三菱F1があり、その戦闘機隊の定数の問題もあります。

当時、最強の戦闘機イーグル

 F15イーグルはベトナム戦争で得た格闘戦闘の経験をもとに、米空軍がパイロットの意見を取り入れながら開発しました。戦闘機本来の空中戦能力をとくに重視した戦闘機です。米空軍は長い間、F4ファントムを主力戦闘機としてきましたが、海軍の艦上戦闘機として開発、生産されたものではなく、空軍が独自で開発した戦闘機を使いたいという願いを強くもっていました。
 朝鮮戦争(1950年)で初めてアメリカ軍はソビエト連邦(以下、ソ連とします)製の小型ジェット戦闘機と遭遇します。これに対抗したのがF-86Fセイバー戦闘機でした。第2次大戦以来の50口径(12.7ミリ)ブローニング機関銃6門を備えていました。対して20ミリの大口径機関砲を装備し、一撃離脱戦法を常套としたソ連戦闘機(MIG15など)を圧倒しました。
 この経験から、米空軍は戦闘機には優秀な格闘戦闘を要求するようになったのです。しかし、この傾向は長続きすることなく、高速性と兵器搭載量を多くするといった戦闘機を開発するようになりました。F-100に始まる(センチュリー・シリーズといわれます)大型戦闘機が次々と開発・装備されます。しかし、多くのパイロットからはあまり歓迎されず、とうとうF15が生まれました。
 F-15は高性能のターボファン・エンジンを2基積み、推力の合計がなんと機体重量よりも大きくなりました。つまり、垂直上昇も可能だと解説されました。大きさはファントム(F4EJ)よりほぼ一回り大きいです。
比べてみましょう。全長は19.43メートル(イーグル)、17.76メートル(ファントム)、以下単位はメートルです。全幅13.05(イ)、11.71(フ)、全高5.62(イ)、4.95(フ)になります。重量は18.8トン(イ)、24.8トン(フ)とさすがに復座のファントムが重い。
武装は両機とも同じで、20ミリ機関砲M61A1が各1門ずつ、AIM-7Eスパロー×4、同9Bサイドワインダー×4という当時の標準装備といえるでしょう。何よりの特徴は、イーグルが装備するヒューズAPG-63レーダー火器管制装置です。制空戦闘機のミッションには最適で、ルック・ダウン(前下方捜索能力)能力は地表をかすめて飛ぶヘリコプターや攻撃機を確実に捉えることができます。

80年ごろの航空自衛隊

 よく知られているように、航空自衛隊は実戦部隊として航空総隊をもっています。この他には飛行教育集団、術科教育本部(航空学生教育隊、飛行教育団など)や補給処、航空実験団、航空救難団、保安管制気象団、輸送航空団などが、当時ありました。
 航空総隊(東京都府中)は、北部(青森県三沢)、中部(埼玉県入間)、西部(福岡県春日)の各航空方面隊と南西航空混成団(沖縄県那覇)に分かれます。(  )の中は司令部所在地です。各航空方面隊は2個航空団と1個から2個の高射群、1個航空警戒管制団、その他の直轄部隊を隷下に置きました。沖縄の航空混成団だけは第83航空隊と1個高射群、南西航空警戒管制隊とコンパクトになっています。
 1980年現在の航空部隊の保有機一覧があります。第1航空団(静岡県浜松北基地)は飛行教育集団の隷下部隊です。その第1飛行隊はF86、第33同はT33、第35同もT33。第2航空団(北海道千歳)は第203飛行隊(F104)、第302同(F4)、青森県三沢の第3航空団はF1装備の第3と第8飛行隊で構成されていました。宮城県松島基地の第4航空団は第21、第22の両飛行隊をもち、装備するのはT2。

実戦対応の戦闘機隊

第5,6,7、8航空団は邀撃(ようげき)戦闘機部隊です。邀撃は迎撃(むかえうつ)と同じ意味です。自衛隊では「要撃」という言葉を使います。まず、宮崎県新富町の新田原(にゅうたばる)基地の第5航空団。隷下にF-104の2個飛行隊、第202と第204飛行隊です。石川県小松基地には第6航空団がいます。隷下にはF104の第205、F-4の第303飛行隊でした。茨城県百里基地の第7航空団はF-4の第305、第301の両飛行隊、それに偵察航空隊である第501飛行隊です。第501は偵察機型であるRF-4Eを装備します。そうして最後は福岡県築城(ついき)基地の第8航空団、F-86の第6飛行隊、F-4の第304飛行隊です。そして、南西航空混成団には第83航空隊があり、その隷下にF-104の第207飛行隊がいました。

C130Hがやってきた

 映像には愛知県小牧基地に4発のプロペラ輸送機、C130Hが飛来する様子が撮られています。この年内に4機がやってきて、輸送航空団への配備を待ちます。この機体は実に古い物です。1950年代の初めに開発されています。しかし、基本設計がしっかりとされ、将来的な見通しがあたっていたのでしょう。大きな設計変更もなく、いまも活躍しています。
 機体の後方はカーゴ・ドアがあり、地上に下ろすことができます。陸自でも使うパジェロ(小型トラック・ジープに相当)なども自走して入れます。貨物室は高さが2.81メートル、幅3.12メートル、長さ12.5メートルもあり、乗員は4名、武装兵92名を運べるそうです。空挺部隊なら64名が乗れます。
 最大速度は580キロメートルですから、わたしも千歳まで3時間近くかけて運んでもらいました。航続距離は最大で7800キロメートルですから、C-1ジェット輸送機の3300キロメートルに比べれば、2倍以上の性能になります。
(あらき・はじめ)
(令和三年(2021年)6月2日配信)