陸軍経理部(36) ―軍馬の話(22)

ご挨拶

 大型台風が近畿を直撃と思ったら、今度は大地震が北の大地を襲いました。備えあれば憂いなしなどと言いますが、想定外の大きさだった今回の震度7。びっくりいたしました。さっそくに北部方面隊の部隊等が動き、こちら関東からも第1ヘリコプター団はじめ多くの部隊が派遣されました。
 驚いたのは停電でした。いろいろな事情があることは分かりますが、やはり最悪の事態に備えるといった準備が必要だと思います。
 ちと、苦言があります。それは安倍総理が、ただちに「2万5000人投入」を発表されたことです。わたしは素人ですから素朴に思います。どういう根拠からの算定での数字なのでしょう。投入の主力となる陸上自衛官は全国で15万5000人、北部方面隊がおそらく2万数千という数のはず。
 もし今、近くで武力衝突が起こったり、侵略という事態が起こったりしたらどうなるのでしょうか。長い間、人を削ってきたツケが回ってきたとわたしは思います。

武士の武装のこと

 これまでで、古典『今昔物語』と軍記物『平家物語』や『源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)』などに描かれた武士たちの戦闘についてまとめてきた。それを以下に述べる。
(1)弓射騎兵である「もののふ」たちには2つの系統があったとみられる。ひとつは伝統的な都の官人や武装を継承する貴族たちの流れ。もうひとつは古代の地方官吏(豪族)の武装化である。ただし、地方豪族の子弟は選ばれて都の武装集団に属することもあり、そこで伝統的な武官の騎射や戦術の教育を受けたこともあるだろう。
(2)治承・寿永(じしょう・じゅえい、源平争乱)の戦は、過去の保元・平治(ほうげん・へいじ)の戦闘様相と異なっていた。戦闘参加者の増加と、質の転換があった。
(3)「城郭戦」や兵站をめぐる問題に、多くの人々が駆りだされていた。
 それでは武装や装具には変化があったのだろうか。今回は実像を追及するためにも、『平家物語』などに登場する、当時の武士たちの装備にも目を向けてみよう。

騎兵の武装(行粧・いでたち)

 赤地の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に、薄金(うすがね)といふ唐綾威(からあやおどし)の鎧(よろい)に、白星(しらぼし)の兜(かぶと)着て、二十四指(さし)たる切斑(きりふ)の矢に、塗籠籘(ぬりごめどう)の弓に、黄金造(こがねづくり)の太刀佩(は)いて、白葦毛(しろあしげ)の馬に黄覆輪(きふくりん)の鞍(くら)置いて、厚総(あつぶさ)の鞦(しりがい)懸けてぞ乗りたりける
 これは現代文に訳すまでもない。名詞だらけである。この姿は、木曽義仲が最期を迎えたときの出陣前の行粧(いでたち)になる。
 直垂とは、もともとは軟らかい布でできた庶民の労働着が、武士の正装となった装束(しょうぞく)である。近頃では、相撲の行司さんが着ている。赤地錦とはメインの色が赤糸で、文様を織りだしたもの。中国から渡来したものもあったが、この時代になるとそれを真似た国産もあったようだ。金襴緞子(きんらんどんす)や繻珍(しゅちん)などが有名である。
 薄金(うすがね)というのは鎧に付けられた固有の名称、号だった。たとえば、源氏の正統を表す鎧は「源太の産着(げんたのうぶぎ)」といわれ、それを継承する者が氏の長者(うじのちょうじゃ・一族の頭)と認められていた。もちろん、この当時は鎌倉の頼朝が手にしていた。唐綾縅(からあやおどし)は舶来の唐綾という生地を裁断して畳んで鎧の札(さね)をつづって威毛(おどしげ)にした大鎧。
 白星の兜とは、星を銀メッキした星兜をいう。星とは鉄片を重ね合わせた鋲の頭をいう。切斑(きりふ)の矢とは、白黒交互になった斑文(ふもん)の鷲の尾羽(おばね)で矧(は)いだ征矢(そや・戦闘用の矢)。塗籠籐(ぬりごめどう)の弓は籐を巻いた上をさらに漆(うるし)で塗り込めた合せ弓(あわせゆみ・自然木を竹で補強して弾力を高めた)のことである。
 黄金造(こがねづくり)の太刀は外装の金物を金メッキした太刀。白葦毛(しろあしげ)の馬とは、やや青みがかった白毛の馬をいう。馬の毛色を表す言葉はたいへん多かった。栗毛(くりげ)、鹿毛(かげ)、青毛(あおげ)などの毛色に、成長につれて白い毛が混じってくる。白と黄色混じった毛の馬を「雲雀葦毛(ひばりあしげ)」などといった。完全な白馬は月毛(つきげ)といい、鹿毛は茶色で足元は黒をいう。
 黄覆輪(きふくりん)の鞍とは、前輪(まえわ)と後輪(しずわ)の縁を金銅金物で縁取りした鞍橋(くらぼね)をいう。実に堂々とした大将にふさわしい装いだが、これに片籠手(かたごて)、臑当(すねあて)などの小具足、そして前にも書いた腰刀がある。

鞍について

 10世紀以降の文献にみえる鞍には種類がある。唐鞍(からくら)、移鞍(うつしぐら)、大和鞍(やまとぐら)、水干鞍(すいかんぐら)などだった。このうち大和鞍こそが、軍馬に使われた鞍や水干鞍の基となるものである。もっとも使われた時期としては、中世前期(およそ鎌倉期まで)が重厚なものであるとすれば、軽快な水干鞍は室町時代以降によく使われた。
 鞍を形づくるのは鞍橋(くらぼね)、銜(くつわ)、鐙(あぶみ)、鞦(しりがい)、?(したぐら)、腹帯(はるび)、差縄(さしなわ)などである。独特な呼び方、「したぐら」や「はるび」に注意してほしい。これらを近藤氏の解説をもとに学んでみたい。
 鞍橋(くらぼね)は、いわゆるわれわれが「鞍」と思う部分である。前輪、後輪(しずわ)そして居木(いぎ)から成っている。下には鞍褥(くらしき)を敷いて馬の背を守る。基本的には木製で漆(うるし)が塗ってある。
 これには蒔絵(まきえ)や螺鈿(らでん)などが施されることが多い。前輪は馬の首に近い方にあるアーチ状のものだが、下端の左右には?(しおで・四緒手ともいう)と呼ぶ丸絎(まるぐけ・綿などを芯に入れて紐を丸く形成したもの)の韋緒(かわお)の羂(わな・輪状にしたもの)が付いている。
 後輪の中ほどの左右にもこれが付く。前輪には両肩に手形(てがた)と呼ぶ切りこみが入っている。軍馬に使う鞍は頑丈に肉厚にできていて、鞍壺(くらつぼ)が深い。後世の水干鞍の鞍橋は軽快に造られている。おそらく馬上戦闘の機会の多少によるのではないだろうか。

銜(くつわ)

 銜も喰(はみ)と両側の鏡板(かがみいた)、八寸(みずつき・水付とも書く)でできている。銅または鉄製で、喰を馬の口にかまして、鏡板の上部の立聞(たちぎき)に面懸(おもがい)を結びつけて固定する。八寸に手綱(たづな)を取り付けて、馬に騎手の意思を伝える。鏡板の形状や、透かし彫りなどが施され、さまざまなバリエーションがある。

鐙(あぶみ)

 居木から吊るした力革(ちからがわ)につなぐ。乗る時の足がかりにして、騎乗したときには足を載せている。鉄製、もしくは木芯の鉄製である。アジア大陸で発達した輪鐙(わあぶみ)と異なって、わが国の鐙は載せるだけのもので、形状は長い舌のように見える。これは馬上で姿勢が崩れ、落ちそうになったときに、輪から足先が離れないといった危険性が少ない。輪鐙は今も西洋風の馬具として残っている。
 大陸系との違いはもう一つある。力革につなぐバックルが大陸系は鎖でつなぐ。それに対して大和鞍は、紋板(もんいた)と呼ぶ透かし入りの鉄板で鐙本体と造りつけになる。これを袋鐙(ふくろあぶみ)、あるいは武蔵鐙(むさしあぶみ)と呼んでいる。軍馬用のものはこの舌がさらに長くなり、扁平にもなり、舌長鐙(したながあぶみ)という。なお、力革には貫鞘(ぬきざや)という毛皮製のサックを入れる。
 わが国の鐙は、大陸渡来の輪鐙からつま先の覆いと、短い舌のついた壺鐙(つぼあぶみ)と変化した。さらに半舌鐙へ、そうして袋鐙に進化していった。
 専門家によると、鐙は4世紀ころ、中国の西晋(せいしん)で発明されたという。もともとは左側だけのものだったようだ。それは乗馬するときの足がかりのためである。ちなみにわが国だけが右から騎乗し、諸外国は今でも左から乗る(もちろん、西洋馬術の導入で現在はわが国でも左から乗るようになった)。
 鐙の発明は騎馬に不得手な農耕民である漢人の発明だったという。そうであるなら、わが先人たちはもっと馬に乗ることが苦手だったに違いない。騎馬が得意でなかった日本人、重心を踵(かかと)にかけることができて、足が安定した。そして何より落馬したときに、輪鐙ならつま先が抜けないという安全性が高いこともあった。しかし、同時にそれは馬を疾走させることには向いていない。そうして、頑丈な舌長鐙は、馬上で戦闘する時に、足を踏ん張るには最適だったのではないだろうか。

鞦(しりがい)

「しりがい」とはいうが、面懸(おもがい)、胸懸(むながい)、尻懸(しりがい)の3つの総称である。面懸は銜(くつわ)を固定し、他の2つは鞍橋(くらぼね)の?(しおで)に結び付けて鞍橋を固定する。わが国の鞦は赤色の組紐で造り、装飾として糸総(いとぶさ)を垂らす。その数や長さは、公家では身分による規定があった。武家では長くて密な厚総(あつぶさ)が使われた。

?(したぐら)

 クッションである。切付(きりつけ)と肌付(はだつけ)の2枚を重ねて居木に結び下げて、鞍橋と馬の背の間に置かれる。筵(むしろ)を芯にして韋で包む。肌付の方が大きい。その下端には腹帯通しの羂(わな・輪状のもの)があり、切付には腹帯通しの穴が空いている。その下端には野窟(のぐつ)と呼ぶ細長い金属を置いた。切付と肌付の間には、韋革(いぶしがわ)で出来た大型の垂れを下げた。これを「障泥(あおり)」と呼び、泥よけにした。ただし、戦闘場面ではこれは取り外したものという。

その他のもの

 腹帯(はるび)は鞍橋を固定して、前輪で結んである。宇治川の先陣争いでは先行する武者に後ろから「腹帯が緩んでおるぞ」と声をかけ、慌てて締め直すところを抜き去った武者の策略が描かれている。差縄(さしなわ)とは馬を牽いたり、つなぎとめるための縄をいう。
 鞭(むち)も重要な道具である。材質は竹や熊柳(くまやなぎ)で漆を塗った。戦闘場面ではとくに曲がりくねった熊柳を使った。長さは矢と同じように12束(つか)が原則だった。指4本分(握りこぶし1つ分)の長さを1束とした。本になる方を取束(とつか)といい、末端には手貫緒(てぬきのお)を取り付けた。馬手(めて・右手)の手首に緒を通して取柄を握って落とさないようにした。弓を構えると、右手には鞭がぶらさがる。
 これらすべてを揃えて(皆具・かいぐ)初めて鞍は実用品となった。
 次回は矢と弓についてもう一度ふれて、いよいよ「蒙古襲来(元寇)」の「竹崎季長」の絵巻物から見る当時の戦闘を紹介しよう。もちろん、もっとも新しい学界の動向の紹介もしたい。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2018年(平成30年)9月12日配信)