空挺団物語(20) ブラウエン空挺作戦(2)

□梅雨のひぬま

「梅雨のひぬま」という言葉を知ったのは、ずいぶん以前のこと、山本周五郎氏の時代小説の題名でした。毎日がうっとうしい長雨に悩まされ、その中でたまたま晴れ間ができます。それを「ひぬま」と言ったようです。ここ数日は不安定ながらも青空が見えています。でも、おかげで気温差が大きく、皆さま、お元気でお過ごしでしょうか。

 

▼ブラウエン飛行場

レイテ平原の南端にあたり、北方のカリガラ湾までおよそ40キロメートル、そこに日本軍は3つの飛行場を建設していた。ニューギニア戦の教訓から、海岸近くの飛行場はたちまち艦砲射撃によって無力化される。あるいは奪取、占領されて敵に利用されてしまう。そこで海岸から15キロほど内陸にあるブラウエン地区の飛行場が、そうした心配もなく利用できる、そう考えた結果の建設だった。

しかし、上陸した米軍の進撃速度は高く、4日目の10月23日には戦車が現われた。第4航空軍はせっかくの飛行場を使うこともなく、アメリカ軍に渡すことになった。16師団はこの飛行場へのかく乱攻撃を命じられたが、アメリカ96師団に圧迫され、西方の山中に避退したが11月中旬には少数の斬込隊による攻撃もできなくなっていた。

ブラウエンとドラグをつなぐ道があり、それに沿ってサンパブロ、ブラウエン南飛行場(バユグ)の2つ、それにバユグの北1キロ半のところにブラウエン北飛行場(ブリ)があった。このうちブリ飛行場の滑走路が一番長く、施設も整っていたという。その南側は沼沢地、北側はヤシ林になっており、第16師団はここを防禦の中心として奮闘し、米軍もまたこの地点の制圧には苦労した。

ただし、米軍は例年より多い降雨によって地盤がゆるんだ3つの飛行場は11月25日以降には使っていなかった。タクロバンとドラグの両飛行場は穴明き鋼板を敷いて航空機を発着させたが、バユグ、ブリ、サンパブロはそれも出来なかったからだ。
米軍はついにこれらの飛行場を諦めて、海岸地域のタナウアンに新たな飛行場を造ることにした。11月25日には資材も人員もすべて海岸へ送っていたのだった。飛行場には偵察機、連絡機、観測機しか残っていなかった。

 

▼和号作戦発動

わが軍も偵察や情報収集を怠っていたわけではない。11月下旬の「航空情報」によれば、『ブラウエン西側には戦車30及び多数のトラックが集結中』という偵察機による情報が入っていた。これは米軍の飛行場整備器材・人員の海岸方面への移動の行動だった。しかし、第4航空軍では修理作業強化のためと判断してしまった。オルモック湾の重要性や、ダムラワン方面に敵兵力の増強が見られたことからも、飛行場の放棄はあり得ないと考えたのだ。

また『敵はブラウエン飛行場を使用しあらず』ともいう。続いて『南飛行場には飛行機多数あるも、観測機のほか離着陸四あらず』という報告も届いていた。また、米軍がタナウアンとサマール島東南端のギウアン(タクロバンの東80キロ)に新しい飛行場を建設中だったという報告もあった。
しかし、これらの貴重な偵察、情報も、動き始めようとしていた作戦を止める理由にはならなかった。おそらく誤認だろうとか、何かの間違いだというような気分の中で、方面軍は発動を命令してしまった。

 

▼米軍公刊戦史は語る

大岡昇平氏の労作『レイテ戦記』によれば、米軍公刊戦史の記述には次の通りにあるという。米軍が後に入手した文書である。

作戦は1840から始まる。護衛戦闘機が対地攻撃で在地敵機を制圧。降下の直前には中型爆撃機(わが軍の双発重爆だろう)が飛行場一帯を爆撃、小型爆撃機(おそらく99式軽爆)がドラグ、サンパブロ間とその西方の高射砲陣地を爆撃する。

参加機数は戦闘機、中爆、小爆、輸送機で合計51機、輸送機の各機には15~20人の降下兵を乗せて20機がブリ、6機がバユグに割り振られ、別にタクロバンとドラグに各2機の搭乗兵が降下し、アメリカ軍の救援を妨害する。
攻撃は3波に分かれる。第1波は指揮班25、通信班7、第1中隊100、第2中隊97、特別攻撃班1個小隊50、合計297名。第2波は指揮班9、第3中隊、重装備隊、通信班で人員合計は不明。第3波は80名。

▼日本軍側の記録

田中賢一氏によれば、第1次挺進部隊はアンフエレス飛行場から発進するために、フェルナンドで準備した。第2次挺進部隊である挺進第3聯隊の一部はリパ飛行場に待機する。これは引き返してくる輸送機に乗り、その夜のうちに第2次挺進を行なうために少しでも径路を短くしようとしたからだ。もし、輸送機がアンフエレスに帰投してきた場合も考慮して第4挺進聯隊の主力が待機した。

飛行戦隊は12月5日までに、台湾の嘉義飛行場からアンヘレスに進出してきた。40機の輸送機は飛行場の周囲に分散遮蔽して被害を防ごうとした。12月6日、朝から米海軍機は姿を見せない。

1540(午後3時40分)に挺進飛行戦隊長が指揮する100式輸送機30数機がレイテ島に向けて発進した。第5飛行団の100式重爆(呑龍の愛称で知られる)13機がタクロバン、ドラックへの強行着陸機4機とともに後を追った。直掩にあたる1式戦闘機約30機が上空を警戒しつつ南下した。

天候は良好、ネグロス島のマナブラ上空で同島のパコロドからの戦闘、軽爆隊を加えて、セブ島のヅルハンガン岬西方でドラック、タクロバンに強行着陸する重爆4機と掩護戦闘機が分かれた。残る主力はさらに南下し、レイテ島南方のパナオン島付近から大きく変針し、薄暮のレイテ島上空で、ドラック、タクロバンに降下する編隊が分かれる。

輸送機編隊は高度を下げて(これを当時は降下という)ゆき、同行していた2式復座戦闘機、重爆、軽爆は、ブラウエン南北、サンパブロの各飛行場に煙幕弾を投下した。

1840、煙幕弾の白煙の立ちこめる中、白井聯隊長以下はブラウエン北飛行場に降下する。飛行戦隊長からの「降下成功」の無線はアンヘレスに届いた。ブラウエン南飛行場に向かったのは第2中隊である。70名の隊員が降りた。

のちに偵察機によって、タクロバン、ドラックへの強行着陸は成功したことが分かった。しかし、輸送機は全機が未帰還となる。三浦中隊の9機はドラッグに7機、タクロバンに2機が分進したが、陸上と海上から対空砲火の猛射を受けて全機が未帰還となった。
挺進飛行戦隊の26機の輸送機は6機を失った。ネグロス島バコロドに不時着したうちの7機はリパに戻った。

 

▼防衛研究所に残る白井聯隊長の手記

白井少佐の戦死は2月4日だった。それまでの経過を手記に残した。それによると、12月6日ブラウエン北飛行場附近に夕刻に降下し、2200頃、聯隊長の掌握下に入った者は6名だった。23時ころ、本部の一部が集結した。滑走路上の約10機の観測機を爆砕焼却し全機を破壊し、幕舎、弾薬集積所位置等を焼却、第2次挺進部隊に飛行場の所在地を知らせるためにガソリンを終夜燃やし続けた。約60名が集結し、北側森林内にあった飛行場格納庫掩体等を利用して陣地占領した。

 

次回は、このあたりの事態について米軍の記録も参照してみよう。

 

(つづく)

 

 

荒木肇(あらきはじめ)
1951(昭和26)年、東京生まれ。横浜国立大学大学院教育学修士課程を修了。専攻は日本近代教育制度史、日露戦後から昭和戦前期までの学校教育と軍隊教育制度を追究している。陸上自衛隊との関わりが深く、陸自衛生科の協力を得て「脚気と軍隊」、武器科も同じく「日本軍はこんな兵器で戦った」を、警務科とともに「自衛隊警務隊逮捕術」を上梓した(いずれも並木書房)。陸軍将校と陸自退職幹部の親睦・研修団体「陸修偕行会」機関誌「偕行」にも軍事史に関する記事を連載している。(公益社団法人)自衛隊家族会の理事・副会長も務め、隊員と家族をつなぐ活動、隊員募集に関わる広報にも協力する。近著『自衛隊砲兵─火力戦闘の主役、野戦特科部隊』。近刊として『第一空挺団(仮題)』(並木書房)。