空挺団物語(32)義烈空挺隊の出撃

▼沖縄の飛行場の失陥

 

沖縄を守備する第32軍は持久作戦をとることとした。地上決戦を行なう戦力がないという判断である。第32軍を隷下においた台湾軍は、台湾守備のために精鋭第9師団を引き抜いてしまったからである。それでも残った陸海軍は沖縄で必死の戦いを行なった。

 

ここに沖縄本島守備部隊を書いておこう。第24・第62師団、独立混成第44旅団、戦車27聯隊、野戦重砲兵第1・第23聯隊、重砲兵第7聯隊、第3・第4遊撃隊、海上挺進戦隊7個等である。兵力約8万6400名。海軍は沖縄方面根拠地隊、約1万名。第6航空軍の20個戦隊だった。

4月1日、有名な『フネが七分で海が三分』という現地守備隊長の名言が残っている。敵艦船の数が多く、その集中密度も高いので、海面の方が見えないというのだ。米軍は第3海兵軍団をもって沖縄本島に上陸を開始した。第32軍は過早な戦力消耗を避けて、上陸する米軍への攻撃を控えた。北(読谷)・中(嘉手納)両飛行場はすぐに米軍の手に落ちた。

聯合艦隊は両飛行場を米軍が整備し、使わないうちに大打撃を与えようとした。4月6、7日の両日、航空総攻撃を行った。これを菊水1号作戦といい、特攻機355機を含んだ699機が出撃した。航空攻撃だけではなく、戦艦大和以下、最後の水上部隊が出撃したのもこの時である。航空総攻撃はその後も菊水5号作戦まで特攻機1711機を含めて5068機が参加した。喪失機数は1611機だった。

▼「義号作戦」企画される

5月に入ると、米軍は九州各地の航空基地に猛烈な空襲を加えた。特攻機の発進基地を叩こうというのだ。また、4月下旬には沖縄の飛行場に戦闘機を多数配備した。九州から発進するわが攻撃隊は航路を西南諸島沿いにとるしかできなかった。レーダーで捕捉された攻撃隊の前には、2段、3段の高度をとった米軍の邀撃隊が待ち構えていた。

5月11日には菊水6号作戦が行なわれた。104機の特攻機が出撃したが、与えた損害はわずかだった。大本営は決死の挺身隊を送り込み、一時的にも飛行場の使用を不可能にし、その機を生かして航空総攻撃をかけようと企画した。そこで義烈空挺隊を起用する、作戦名は「義号」、時期は5月中旬とされる。

4月末には唐瀬原飛行場にも敵小型機が来襲した。米海軍の空母搭載機だった。挺進団の各隊は対空射撃で応戦する。5月2には「義」号作戦の実施が内示された。熊本の健軍飛行場に移動を命じられる。

▼「義」号作戦の実施認可される

任務の詳細が明らかになった。特攻機が突入しやすいように敵飛行場を攻撃する。今度は目標は小型機ばかりである。破甲爆雷や手榴弾で破壊できるし、軽機関銃で撃っても十分に目的を達成できる。隊の編成は元のままの5個小隊とし、北飛行場攻撃は奥山隊長以下の主力の3個小隊、中飛行場攻撃は渡辺副中隊長が指揮する2個小隊で担任する。人員合計136名になる。諏訪部大尉が指揮する第3独立飛行隊は97式重爆12機で人員は32名、降着後は陸上戦闘に参加するので、各自陸戦兵器を携行した。

18日には大本営が作戦実施を認可した。天候をみて23日に決行となった。参加兵力は以下の通りだった。(1)義号部隊は奥山隊5個小隊136名、第3独立飛行隊97式重爆撃機12機、32名。(2)飛行場攻撃部隊、第6航空軍から4式重爆撃機12機、第5航空軍は99式双発軽爆撃機10機、海軍戦闘機12機、海軍爆撃機12機。(3)艦船攻撃部隊、海軍雷撃機約30機、第6航空軍から特攻機約100機、海軍特攻機80機、桜花10機。

4式重爆は当時の新型の双発爆撃機で高速、機動性の高い機体だった。99式双発軽爆はその独特の爆弾倉の形状から「金魚」と愛称され急降下爆撃もできた。桜花というのはよく知られているように、海軍が開発した1式陸上攻撃機の胴体下に懸吊されて敵に近づき、落下しながらロケットに点火し、高速で突入する特攻機である。

▼出撃

23日、天候は北部から回復し、九州は晴れ、沖縄は薄曇り、台湾は雨になった。計画通りに第6航空軍の飛行場攻撃部隊が出発した。そのとき、海軍から沖縄の天候の回復が遅れ雨が降っている、そこで攻撃を1日繰り延べにすると連絡が入った。第6航空軍司令官は直ちに決心を変更し、4式重爆隊に引き返すように命令し、97式重爆に搭乗していた奥山隊もまた突入延期ということになった。

翌24日、天候はやや回復し、沖縄は曇りのち晴れという。いよいよ実行かと思われたが、この日の午後、海軍は敵機動部隊を発見し、独自の攻撃を実施する。そのため義号作戦は陸軍単独で行なうことになり、作戦参加機数は減ってしまった。

第6航空軍の重爆撃機は予定通り健軍を出発、沖縄北、中両飛行場を爆撃し、99式双発軽爆11機は伊江島飛行場に爆撃を決行した。義烈空挺隊11機は19時頃、健軍飛行場を発進する。故障中の1機は予備機に交換して、ただちに後を追った。

 

 

(つづく)

 

 

荒木肇(あらきはじめ)
1951(昭和26)年、東京生まれ。横浜国立大学大学院教育学修士課程を修了。専攻は日本近代教育制度史、日露戦後から昭和戦前期までの学校教育と軍隊教育制度を追究している。陸上自衛隊との関わりが深く、陸自衛生科の協力を得て「脚気と軍隊」、武器科も同じく「日本軍はこんな兵器で戦った」を、警務科とともに「自衛隊警務隊逮捕術」を上梓した(いずれも並木書房)。陸軍将校と陸自退職幹部の親睦・研修団体「陸修偕行会」機関誌「偕行」にも軍事史に関する記事を連載している。(公益社団法人)自衛隊家族会の理事・副会長も務め、隊員と家族をつなぐ活動、隊員募集に関わる広報にも協力する。近著『自衛隊砲兵─火力戦闘の主役、野戦特科部隊』。近刊として『第一空挺団(仮題)』((並木書房)。