空挺団物語(28) 滑空歩兵聯隊の編成
▼滑空歩兵の長所と短所
滑空(グライダー)歩兵聯隊が作られた。グライダー搭乗部隊は何より、降下する訓練が不要である。また、重量のある物資を兵員と一緒に降ろすことができる。落下傘で跳下する兵員は、重火器などは別の物量箱に入れて投下しなければならなかった。これについての考慮はほとんど不要になる。
欠点はある。自分で飛べない滑空機は牽引する航空機が必須であり、敵地への安全な進入と着陸地点の選定が難しい。また、操縦員の養成も必要だった。操縦員はまた降下兵と同じく着陸したら帰還する手段がない。そうして何よりも、グライダーの生産と補充についての配慮が必要だった。
▼輸送用グライダー
初めての滑空機は「ク」-1といわれる。九州の前田航研で昭和16(1941)年秋には完成した。操縦者も含めて8名が乘れた。大型滑空機に乘る前の操縦訓練用のものだったが、特殊部隊の空路潜入などにも使えるとされた。曳航するのは97式軽爆撃機で、敗戦までに約100機が生産される。曳航に耐えられる速度は時速180キロ、翌面積30平方メートル、全備重量は1.3トンだった。翼面荷重は43キログラム・平方メートルである。
「ク」-8のII型が試作を始めたのは昭和18年に入ってからで、19年には制式決定となり量産を始める。日本国際航空工業平塚製作所(現・日産自動車平塚工場)で生産された。
外観は高翼式で、映画「プライベートライアン」にも登場したアメリカのウェイコCG-4とよく似ている。主翼は2桁式木製半片持式で支柱も2本、合板と羽布張りで外板はわずかにテーパーしているが、翼端は無造作に切り落としている。主翼にはフラップがなく、上下面に15度開くスポイラーがついていた。
胴体はほぼ正方形で、鋼管溶接骨組に機首は金属製外皮、ほかは羽布張り、機首の先端は枠なしのプレキシグラスとなっていて、操縦者はそこを通して曳航機を見た。操縦席は並列複座で複操縦式となっていた。着陸装置は尾輪式で、主輪は離陸後に投下され、着陸時は前部胴体下面の2個の橇(そり)によった。
キャビンには武装兵15~20名が搭乗できて、床の留め具には41式山砲(口径75ミリ)を固縛できた。曳航機は97式重爆撃機とされた。
全幅は23.20メートル、全長13.310メートル、全高3.510メートル、翌面積50.70平方メートル、総重量3500キロ、最大曳航速度224キロ/時、着陸速度120キロ、最良滑空比15.9、最小沈下速度1.9メートル/秒、乗員2名。
▼操縦者の育成
第1挺進団が復員して昭和17年8月に陸軍挺進練習部に戻ったことはすでに書いた。挺進練習部内には滑空班と重火器班が設けられた。重火器班は滑空機搭乗部隊の前身にあたる。滑空班は部内から25名の専修員を集めて操縦訓練を行なった。翌18年の春ごろまで所沢で滑空機操縦教育を行なった。第2次で25名、第3次30名と練習生は増えていく。
昭和18年の中頃、茨城県の西筑波飛行場に訓練の場を移した。「ク」-1で訓練を継続する。第3次の練習生までは挺進練習部内から要員を募ったが、第4次では特別操縦見習士官95名を受け入れた。
この特別操縦見習士官という制度は、一般の予備士官になろうとする甲種幹部候補生とは異なったシステムで昭和18年7月から始まった。操縦者たる兵科将校に限って、「操縦に従事する兵科将校を志望する見習士官にして少尉に任ぜらるる資格を具ふる者を以て補充する」というように、操縦員を志願する大学・専門学校卒業生のみに開かれた道だった。
試験に合格すれば、ただちに曹長の階級に進めて1年後には予備陸軍少尉になった。同時期に海軍は第13期飛行科予備学生が召募された。これも水兵の期間はなく、ただちに士官待遇の予備学生となった。「特操」と略称された1期生は2600名余りが採用されたという。
滑空機操縦員養成の課程は、95式1型練習機に4か月、1式双発高等練習機に2か月、「ク」-8には3か月という体系が実現した。
▼滑空飛行戦隊が生まれる
昭和18年8月頃までには操縦者が50名ほどにまで育った。8月10日に滑空班を廃止し、新たに滑空飛行戦隊を編成した。3個中隊で、各中隊は97式重爆II型が9機、「ク」-8が18機とされた。
滑空部隊は、滑空飛行部隊と滑空機搭乗部隊から成っていた。搭乗部隊は降下部隊とは異なって高度な訓練を必要としない。飛行戦隊の編成と同時に、歩兵、砲兵、戦車、工兵、通信の各部隊を編成した。
▼挺進第5聯隊
新たに編成された第5聯隊は、滑空歩兵部隊と各種火力部隊を作るための過渡的な部隊だった。歩兵大隊は3個中隊と作業中隊、重火器中隊から成った。作業中隊とは挺進聯隊の第4中隊(工兵)と同じで、重火器中隊は速射砲小隊(37ミリ対戦車砲2門)、大隊砲小隊(口径70ミリの92式歩兵砲2門)と機関銃小隊(重機4銃)で編成された。
これに重火器大隊がもたれた。速射砲中隊(口径47ミリ1式対戦車砲4門)、山砲中隊(75ミリ94式山砲4門)、高射機関砲中隊(98式20ミリ機関砲4門)である。
挺進戦車隊は、戦車中隊、自動車中隊、材料廠から成り、戦車中隊は軽戦車14輌、自動車中隊は小型自動貨車(トラック)60輌をもった。輜重兵的性格をもたされていたが、便宜上、戦車隊の編制に含まれていた。挺進通信隊は有線、無線の各中隊で無線中隊の一部は跳下も装備の投下もできた。挺進工兵隊は2個中隊、滑空機搭乗で「ク」-8に搭載できる工兵器材をもつ。
滑空飛行戦隊は3個飛行中隊と1個飛行場中隊の編制だったが、このときに実動ができたのは1個中隊だけだった。
(つづく)
荒木肇(あらきはじめ)
1951(昭和26)年、東京生まれ。横浜国立大学大学院教育学修士課程を修了。専攻は日本近代教育制度史、日露戦後から昭和戦前期までの学校教育と軍隊教育制度を追究している。陸上自衛隊との関わりが深く、陸自衛生科の協力を得て「脚気と軍隊」、武器科も同じく「日本軍はこんな兵器で戦った」を、警務科とともに「自衛隊警務隊逮捕術」を上梓した(いずれも並木書房)。陸軍将校と陸自退職幹部の親睦・研修団体「陸修偕行会」機関誌「偕行」にも軍事史に関する記事を連載している。(公益社団法人)自衛隊家族会の理事・副会長も務め、隊員と家族をつなぐ活動、隊員募集に関わる広報にも協力する。近著『自衛隊砲兵─火力戦闘の主役、野戦特科部隊』。近刊として『第一空挺団(仮題)』((並木書房)。

-1-150x150.png)

-1-150x150.png)
-1-150x150.png)
