空挺団物語(34)敗戦までの挺進集団
□千葉県各地の災害
全国的な水害の知らせがあるなか、また千葉県で大きな災害が起きました。わたしにも馴染みがある木更津と姉ヶ崎の間で線路が崩壊し、その復旧に3か月もかかるそうです。
今朝も報道を見たら、千葉市の会社へおそらく30分ほどで通われていた方は、高速バスでアクアラインを越えて首都圏に向かい、そこから千葉へ行かれるとのことでした。代行バスも利用客の多さと、予想される道路渋滞のために運行されることはないそうです。考えてもいなかった事態でした。
また、隣の市でもある横須賀市では、土砂崩れで建物が埋まり、住民が行方不明という報道もあります。平和な日常が、一瞬で大きく変わってしまう、自然の恐ろしさを感じています。
▼唐瀬原に残った部隊
昭和19年の11月末に、挺進集団主力をフィリピンに、奥山隊を豊岡(埼玉県・航空士官学校)へ送り出した後、唐瀬原にあるのは第1挺進団と挺進戦車隊、挺進整備隊だった。戦車隊は搭載用の大型グライダーが量産されていなかった。また、戦車まで空輸するような攻勢作戦はとれないだろうということから、残されていたのである。
挺進整備隊は、地上兵器と航空兵器を整備する2個中隊だったが、搭乗する船舶の都合で残されていた。この戦車と整備の2個部隊は第1挺進団長の指揮下に入り、団は航空総軍の直轄部隊になった。
これまで、第2挺進団のレイテ突入を聞いた。それと前後して、フィリピンに向かった集団主力のうち航空母艦に乗った部隊が海没したとも聞かされた。第1挺進団はペリリュウーやスマトラでの戦闘以外、ほとんど戦局に関係しなかった。
昭和20年3月18日には、唐瀬原飛行場と兵舎が空襲を受けた。近海に迫った敵空母艦上機の攻撃だった。幸い軽微な損害しか受けなかったが、本土防衛という心構えが自然に生まれてきた。
▼横芝飛行場へ移駐
千葉県山武郡横芝光町(横芝町・上堺村)に昭和13年に開設された首都圏に近い陸軍飛行場である。4月の初め、そこへ挺進第1聯隊は移動を命じられた。このことはサイパン攻撃と関係し、本土決戦を行なう場合にも、関東と九州に分離しておこうという計画にのっとったものだった。
予想される敵上陸部隊の目標は、南九州の志布志湾と関東地方の千葉県九十九里浜とされていた。しかし、空挺部隊は攻勢部隊であり、本来、敵の制空権下では使いにくいものである。対上陸反撃作戦に使うことには向いていない。
奥山隊は5月24日、沖縄に突入した。全国の都市に対する無差別爆撃の拠点はサイパンである。沖縄とサイパン、せめて一矢を報いたいと隊員たちは思っていた。しかし、主要装備は2式軽戦車であり、それを載せるべく開発された滑空機「ク-7」は工場が爆撃され、量産ができなくなった。もっとも大型重爆に引かれて空をゆく滑空機が戦場に到達できるはずもなかった。
▼都城へ
この挺進戦車隊は戦車中隊と歩兵中隊をもっていた。そこで、夜間に挺進斬り込み戦法を考案し、その訓練に励んだ。6月の初めには、挺進戦車隊は第1挺進団長の指揮を離れ、第57軍の指揮下に入った。第57軍は宮崎県から大隅半島一帯を担任戦域とする。この正面が南九州に対する敵軍の主攻と判断されていた。
第57軍は、挺進戦車隊に都城平地においての対空挺と作戦任務を与えた。敵の空挺部隊が都城に侵攻したら、ただちに突進、これを撃滅するという任務である。空挺部隊が対空挺部隊になり、主動から受動へ、攻勢から防勢へという大転換だった。
7月の末には、都城の市街は激しい空襲を受けた。
沖縄に突入する計画もあった。挺進団司令部から戦車隊長は次のような命令を受けた。大本営では、20ミリ機関砲を搭載した小型トラックを「ク-8」滑空機に載せて、沖縄の飛行場に着陸させるという計画を立てた。ついては、要員12機分の24名を戦車隊から差し出し、その中には中隊長級の指揮官1名と、小隊長級将校を2、3名を含めるようにする。砲手要員には別に24名を挺進第2聯隊から選ばれるようになっている。
戦車隊長の頭に浮かんだ中隊長級の指揮官は自動車中隊長だった。自動車中隊は本来、ク-8滑空機に自動車を載せて、確保された空挺堡に着陸、以後、人員や物資を運ぶ部隊である。ただ、戦争末期の状況の中で、自動車中隊が活躍するような空挺作戦は実行できない。
自動車中隊長はそこで中隊を「対戦車肉迫攻撃専門部隊」としようとした。敵戦車の接近路に穴を掘って隠れていて、敵戦車が接近したら10キロの爆薬を背負い、戦車の底板の下で爆薬もろとも爆砕しようという戦法である。
立川の西方にあった福生(ふっさ)飛行場(現在の横田基地)に直ちに移動し、兵器の改装や滑空飛行戦隊との協同訓練を行なうことになった。福生に着いたのは8月1日だった。
(つづく)
荒木肇(あらきはじめ)
1951(昭和26)年、東京生まれ。横浜国立大学大学院教育学修士課程を修了。専攻は日本近代教育制度史、日露戦後から昭和戦前期までの学校教育と軍隊教育制度を追究している。陸上自衛隊との関わりが深く、陸自衛生科の協力を得て「脚気と軍隊」、武器科も同じく「日本軍はこんな兵器で戦った」を、警務科とともに「自衛隊警務隊逮捕術」を上梓した(いずれも並木書房)。陸軍将校と陸自退職幹部の親睦・研修団体「陸修偕行会」機関誌「偕行」にも軍事史に関する記事を連載している。(公益社団法人)自衛隊家族会の理事・副会長も務め、隊員と家族をつなぐ活動、隊員募集に関わる広報にも協力する。近著『自衛隊砲兵─火力戦闘の主役、野戦特科部隊』。近刊として『第一空挺団(仮題)』(並木書房)。


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