空挺団物語(38) こぼれ話(4)戦時の動員と予備員
▼戦時動員がない自衛隊
いや、陸海空自衛隊にも予備員がいるだろうという方もおられるでしょう。確かにわたしの身内にも予備を冠する隊員はいますし、年間で決められた日数の訓練に出頭しています。ただし、昔の陸海軍のように、戦時に作戦部隊に編入される方は、一部の方のようです。もともと、陸海空自衛隊すべてが、そのままいつでも戦える態勢にあるわけで、戦時になって大多数の予備員を必要とする仕組みになっていないからです。
日本陸海軍では、平時の部隊を動員態勢にすることで戦時定員を満たしていました。今回も「こぼれ話」ですから、その背景があることを理解された上でお受け取り下さい。
▼戦時動員と階級
戦時動員で平時の何倍もの規模に膨れ上がる陸軍は、下級将校(少尉・中尉)の要員を確保する意味で明治22(1889)年には一年志願兵の制度をつくった。当時は、中等学校卒業以上の者は、いまの大学院修了者よりも割合として少なかった。そんな時代に、経費の一部を前納する制度をとって、予備の下士と士官を養成していた。それは前にも書いた。
その結果は、日露戦争(1904~5年)での初級将校の実態で現われた。1904(明治37)年7月1日現在の予備・後備階級別の服役数をみると、大尉は歩兵の322名中、1年志願兵出身は6名であり、各兵科全員が422名でも同じく10名でしかない。ところが中尉になると各兵科合計で394名中、予備・後備が178名になる。実に45%が予備員だった。それでは同じく少尉になるとどうかというと、2856名中、予備役で1年志願兵出身者は1827名、同じく後備325名になる。割合は75%にもなる。召集されて服務中の中尉の約半分、少尉の8割近くは1年志願兵出身の予備・後備役将校だった。
▼動員が相次ぎ部隊が新設
これが拡大を続けた日華事変(1937年)以降の軍隊になると、制度が変わって幹部候補生といわれるようになり、各地に予備士官学校が生まれることになった。陸軍の甲種幹部候補生や海軍では予備学生出身者が、尉官の主力を占めるようになる。昭和12(197)年度中に動員した兵力は約51万人にのぼった。昭和14(1939)年度の陸軍兵科の中・少尉の70%、昭和17(1942)年度の海軍中・少尉の30%が甲幹や予学の出身者になっていた。
事変が起きる直前の甲種幹部候補生採用数は、毎年3000名以上になり、現役将校たる陸士の卒業生は500名前後では、拡張とともに採用される初級将校が幹部候補生出身者になることは仕方がなかった。また、この甲幹の採用者の半数近くが、中等教育のみの学歴しかなかったことは、わが国の特色と言える。
米軍のROTC(予備士官訓練課程)出身者は大学卒であり、高学歴者が少なかった社会の中で陸軍初級将校を中学校等から採用せざるを得なかったのは仕方なかった。ただし、海軍だけは最後まで士官になるには専門学校卒以上の学歴を必要とした。
▼予備員の階級
戦時の進級で多くの予備将校が大尉にまで進んだ。海軍の場合、軍医や主計官、技術系の士官は2年現役といって、大卒は中尉から任官した。こうした場合は同じ期間で少佐まで進級した例はあるが、幹部候補生や予備学生は大尉が最高階級だった。同じ期間に陸士や海兵を出た正規士官は、多くが少佐に進んでいる。戦時の特例でもあった。
平時には少尉任官後、少佐になるまで10年以上かかっていた。それが大戦中には6年や7年で少佐になっていた。ただし、大佐以上になると、必ずしも同じような短縮の例は少なかった。戦時の軍隊は、部隊や機関の数が増えると、大尉・少佐といった中級将校も数が不足がちになった。そのため、陸士や海兵を出た専門知識が高い者は、用兵や管理部門に回さねばならなかった。
大正時代の平和が続き、軍縮で多くの将校が予備役にされ、陸士・海兵・海機・海経といった学校の生徒の数も減らされた。急に必要ができたからといって、簡単に中級・高級将校を増やせるものではなかった。
▼学歴保有者を優遇せよ
陸軍では甲種幹部候補生の半数が中等学校卒業者だったが、海軍が予備学生制度を拡充した。専門学校卒以上が条件だったが、ごく初期を除いて、その待遇は一気に候補生として扱うことになった。准士官の下、下士官の上位である。対して、陸軍では中卒も、専門卒も、大卒もみな2等兵からだった。ようやく予備士官学校を出て曹長になって見習士官となる。これでは、とても当時の若者を惹きつけることはできなかった。
そこで考えられたのが、特別甲種幹部候補生、「とっこうかん」である。これは専門卒以上の者に資格があり、入隊と同時に上等兵、たちまち伍長、軍曹と進んだ。一般兵と同じような内務班生活はしなくてすんだ。これまでの甲幹が最低でも2か月は一般兵生活を送ることが免除されたのだ。多くの学生や専門学校生徒はこれを志願した。
また、飛行予備学生に対抗してつくられたのが「特別操縦見習士官」という制度だった。当時の略称を「とくそう」といった。昭和18(1943)年7月の発足である。同時期に公募されたのが海軍第13期飛行科予備学生だった。特操の募集は1200名の採用予定数に1万数千人の志願者が出て、2600名余りが合格した。
10月1日には1期生が宇都宮(栃木県)、熊谷(埼玉県)、大刀洗(福岡県)の各飛行学校に入った。2期生は翌年の2月1日、3期生は同年6月、4期生が8月に入校した。当初の1か月は離着陸訓練、その後単独飛行、編隊飛行、特殊飛行などを訓練され、半年で飛行時間60時間ほどになったという。19年3月に1期生は卒業した。この一部の人たちが滑空機の操縦員として西筑波に赴任していた。
(つづく)
荒木肇(あらきはじめ)
1951(昭和26)年、東京生まれ。横浜国立大学大学院教育学修士課程を修了。専攻は日本近代教育制度史、日露戦後から昭和戦前期までの学校教育と軍隊教育制度を追究している。陸上自衛隊との関わりが深く、陸自衛生科の協力を得て「脚気と軍隊」、武器科も同じく「日本軍はこんな兵器で戦った」を、警務科とともに「自衛隊警務隊逮捕術」を上梓した(いずれも並木書房)。陸軍将校と陸自退職幹部の親睦・研修団体「陸修偕行会」機関誌「偕行」にも軍事史に関する記事を連載している。(公益社団法人)自衛隊家族会の理事・副会長も務め、隊員と家族をつなぐ活動、隊員募集に関わる広報にも協力する。近著『自衛隊砲兵─火力戦闘の主役、野戦特科部隊』。近刊として『第一空挺団(仮題)』(並木書房)。

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