空挺団物語(36) こぼれ話(2)滑空機の元となったキ59
▼滑空機の元になった1式輸送機
陸軍の滑空機でもっとも多く生産されたのは「クー8II」である。元になった機体はキ59で、これは1式輸送機とされていた。輸送機を国産化するべきという動きは、民間航空輸送の発展にしたがって逓信省航空局が計画したのが始まりである。それまではフォッカー・ユニバーサル、エアスピード・エンボイ、ダグラスDC2などの外国製輸送機を使っていたが、逓信省でも民間会社でも、国産機をという声は高まっていた。
昭和13(1938)年6月、神奈川県平塚市にあった寺田航研工業が試作したTKー3が完成した。航空局が原設計をし、寺田航研が細部を手直したしたものだった。以下の性能は陸軍仕様となったキ59のものである。全幅17メートル、全長13.4メートル、主翼面積38.4平方メートル、自重2880キログラム、発動機ハ13甲(98式)空冷星型9気筒510馬力を双発にし、最大速度300キロ/時、乗員2~3、乗客8という短・中距離ローカル線用とされた。
外見上も構造上もスーパー・ユニバーサルの双発化したものという感じである。主翼は木製多桁式合板張り、胴体は木金混製合板張り(ただし舵面のみ羽布張り)という実用的構造だったが、写真を見ると高翼双発片持式固定脚で、当時のダグラスDCー5や、デハビランド・フラミンゴなどとよく似て新鮮な感じを与えたらしい。
▼性能はともかく
構造重量は予定をはるかに超えてしまい、しかもエンジンが当初は300馬力の日立「天風」だったので非力である。予定のペイロードを積むと、上昇率がひどく低下した。とても実用機にはならなかった。しかし、キ59として審査に加わった陸軍は、ほぼ同時に採用された立川飛行機のキ54(1式高等練習機の輸送機タイプ)の生産が軌道に乗るまでのつなぎに採用することにした。
キ59はエンジンを前述のように強力化し、各部を洗練し、重量の軽減化を行った。垂直尾翼面積を大きくし方向安定性を増し、原型の流線型機首がふつうの段つきとなって操縦席視界が改良された。プロペラ羽根も3枚になった。
寺田航研工業は、その後、日本航空工業となり、同社の平塚工場では昭和15年からキ59の量産を始めて、16年からは近距離の人員輸送に使われ、1式輸送機とされた。性能不足で現場からは評判が悪く、キ54の量産化が始まり使われなくなった。なお、日本航空工業は、さらに日本国際航空工業と改称され、平塚工場では滑空機の製造が行なわれた。これが先日、閉鎖され、敷地も売却される日産自動車の平塚工場であったことは、あまり知られていない。生産数は170機とされている。
この動力部分を外し、固定脚を着脱式に替え、各部を改良したのが滑空機クー8IIとなった。
▼川崎キ56
さらに「ロ式」といわれた輸送機も詳しく述べよう。以下、『航空情報別冊日本陸軍機』(昭和44年・酣燈社)の解説から多くを学ばせていただいた。世界大戦前に斬新な高速民間旅客機として大日本航空はロッキード14スーパーエレクトラを購入する。これを陸軍でも「ロ式輸送機」として採用し、立川飛行機で国産化され、続いて川崎で転換生産を始めた。川崎製の生産機が完成する前だが、昭和14年8月にロッキード14を原型とするキ56の試作指示を出した。
高速性能には定評があったが、反面として離着陸時の安定が不良という短所があった。このため安定性の増加にはキ56の計画時に胴体を延長すること、同時にそれは貨物室の容積を増すという発想になった。
川崎では高名な土井技師を主務者として昭和14年9月から設計を開始し、15年9月に設計を完了、11月には試作第1号機が完成した。
「ロ式輸送機に対する改良点」は次の通りである。
(1)揚力の増加に資するファウラー・フラップは風圧中心移動が大きく、不慣れな操縦者には負担が大きく、しばしば事故を起こしたので設計を大きく変更した。
(2)胴体を約1.5メートル延長し、尾翼のモーメント・アームの増大と主脚と尾輪のホイールベース延長で縦安定と離着陸性能を改善した。
(3)後部胴体左側に大型の貨物積載用の扉を設けた。これによって空冷エンジンなら3基、液冷エンジンなら2基を載せることができるようになった。本機は中翼のために床面が低く、貨物の積み下ろしには便利だった。
(4)貨物室は、艤装を変えることで、貨物輸送、兵員輸送、空挺部隊輸送などでも使えるようになった。
(5)発動機はロ式輸送機と同じ三菱ハ26ー1だったが、生産型は中島ハー25に強化した。
次回は滑空機クー8IIの詳細と操縦者のトクソウ(特別操縦見習士官)について述べよう。
▼1式貨物輸送機として
キ56の試作機2機は昭和16年初めに審査を受け、1式貨物輸送機とされた。川崎では「ロ式」輸送機の生産を打ち切り、16年8月から18年9月までに明石工場で99機、岐阜工場で20機を製造した。本機は日本軍輸送機史上、唯一の「貨物」を名称にいれた輸送機だった。
本機は胴体を延長し、重量も増えて、原型のロ式輸送機よりは速度や上昇力などの一般性能は低下したが、安定性の改良やペイロードの増大で実用性は大幅に向上した。乗員は3~4名、兵員14名、最大速度400キロ/時、エンジンは空冷複列14気筒で900馬力を発揮し、上昇時間は3000メートルまで12分38秒だった。
(つづく)
荒木肇(あらきはじめ)
1951(昭和26)年、東京生まれ。横浜国立大学大学院教育学修士課程を修了。専攻は日本近代教育制度史、日露戦後から昭和戦前期までの学校教育と軍隊教育制度を追究している。陸上自衛隊との関わりが深く、陸自衛生科の協力を得て「脚気と軍隊」、武器科も同じく「日本軍はこんな兵器で戦った」を、警務科とともに「自衛隊警務隊逮捕術」を上梓した(いずれも並木書房)。陸軍将校と陸自退職幹部の親睦・研修団体「陸修偕行会」機関誌「偕行」にも軍事史に関する記事を連載している。(公益社団法人)自衛隊家族会の理事・副会長も務め、隊員と家族をつなぐ活動、隊員募集に関わる広報にも協力する。近著『自衛隊砲兵─火力戦闘の主役、野戦特科部隊』。近刊として『第一空挺団(仮題)』((並木書房)。


