空挺団物語(29)滑空歩兵聯隊が投入される
□複合災害が言われています
線状降水帯による降雨、さらにはゲリラ雷雨といわれる突然の大雨が見られ、さらには関東にも震度5弱という地震がありました。車の水没、道路の冠水、住宅への浸水など、ほんとうに考えてもいなかった災害です。想定外とのんびりした話ではありません。これに熱中症です。ショックだったのは千葉では多くの方が水没された車の中で亡くなったということです。命が何より大事、車で出歩くことも多い私もほんとうに思い知らされました。
▼挺進集団前線へ
挺進集団の編成完結は昭和19(1944)年11月21日だった。この時には隷下の第2挺進団はフィリピンにいた。塚田集団長は、レイテに自分の部隊の一部があり「天王山」ともいわれていたレイテ決戦に参加できないのは不満であると大本営陸軍部作戦部長に強く出戦を申し出た。しかし、大本営の主務者は「制空権を奪われている比島方面に挺進集団を出しても空挺作戦は行なえない」と反対意見を述べた。
しかし、集団長はあきらめない。何度も足を運んで出撃を懇望した。とうとう大本営も熱意に負け、たとえ空挺作戦をできなくとも、精鋭部隊を決戦場に送ることには意義もあるということから認めることとなった。
第1挺進集団は、ここに11月27日、第4航空軍の戦闘序列に入った。なお、戦闘序列とは、戦時に勅命による作戦軍の編組(へんそ)をいう。編組とは数個の軍隊を組み合わせるもののうち、軍令で定めたものをいう。戦闘序列に入るということは、以後、第4航空軍の隷下に入ったということである(「大陸命」による)。
部隊の出発は12月になった。行動を共にしたのは第1挺進集団、滑空歩兵第1聯隊、同第2聯隊、第1挺進通信隊、同工兵隊、同機関砲隊だった。気が付かれたと思うが、第4航空軍の戦闘序列に入れるという「大陸命」には、第1挺進団、同戦車隊、同整備隊は含まれていなかった。大本営はこれらの部隊を送り出すことをしなかった。
▼比島への渡航
航空母艦「雲龍」は17日に宇品港を出たが、19日に台湾西方で米潜水艦レッド・フィッシュの雷撃により撃沈されてしまった。この空母に乗っていたのが滑空歩兵第1聯隊の主力と、挺進通信隊、同工兵隊の各1個中隊だった。
空母「雲龍」はミッドウェイ海戦後に空母の大量量産が計画された「改飛龍」型と呼ばれる中型空母の1隻である。計画では15隻の生産を目指したが、3隻だけが完成した。同型艦は「天城」と「葛城」である。排水量1万7000トン、速力34ノット、ガソリンタンク防御などは強化されていた。天城は1945年3月、7月の呉大空襲で大破した。葛城も同日、小破したが、戦後には復員船となった。
滑空歩兵第1聯隊の一部、同第2聯隊、挺進機関砲隊、同通信隊の主力と、同工兵隊の主力は日向丸、青葉丸の2隻の輸送船に搭乗して12月21日に門司を出港し、29日にはルソン島の北サンフェルナンドに到着する。第19師団と同乗していた。
集団長は1月6日、新田原を出発し、8日にクラーク飛行場に着いた。
▼空襲を受ける
北サンフェルナンドには港湾設備は何もなかった。すでに敵の攻撃に沈んだ船が見える中で揚陸作業を行なう。朝までには半分も終わらない。11時頃、敵機が来襲、日向丸、青葉丸にも火災が起きる。青葉丸は夕方には沈んでしまった。
1月4日、鉄道とトラックを使ってクラークに進む。6日には艦砲射撃と空襲を受ける。挺進工兵隊は南進することができなかった。6日には敵上陸船団がリンガエン湾に進入してきた。
8日にクラーク飛行場に降りた塚田集団長は、第4航空軍司令官に会えず、方面軍直轄とされ、軍隊区分によって編成する「建武集団」の指揮官を命じられた。クラーク地区にある全部隊を建武集団と名付けて、統一指揮官として塚田少将をそれに充てたのだ。軍隊区分とは編組の一時的なものであり、指揮関係はあるが隷属関係はない。
クラーク周辺には12個もの飛行場があった。陸海軍の多数の航空部隊が展開し、レイテ以来の航空戦を戦い抜けてきた。航空戦力はすっかり消耗し、第30戦闘飛行集団の残存機が十数機、攻撃の機会をうかがっていた。ところが、地上勤務部隊は撤退の機を失っていて、この地区に残っていたのは約3万名とされる。
建武集団長へ下された命令は、(1)クラーク飛行場群を占領して敵に使用させない。(2)状況が非となっても敵の行動を拘束する。(3)極力敵の飛行場使用を妨害する、というものだった。
▼建武集団の実態
総数60数個単位の混合部隊で、兵力は約1万5000、これに同数の海軍部隊がいた。第1挺進集団司令部に、戦車第2師団の一部(機動歩兵第2聯隊・1個大隊欠)、同戦車第10聯隊の1個中隊、同工兵隊の一部、第10航空地区司令部(7個飛行場大隊、2個飛行場中隊)、夜戦高射砲第84大隊、特設自走砲中隊、独立機関砲中隊2個、特設機関砲隊2個、第22航空通信隊、第9情報聯隊、第9対空無線隊、第25対空無線隊、第2航測聯隊、第10航空通信隊第4中隊、独立有線中隊2個、野戦飛行場設定隊などなど・・・第86兵站司令部、第14方面軍兵器廠、同貨物廠、同自動車廠の各一部、第137兵站病院、独立自動車第322中隊、第14方面軍憲兵隊タルラック分隊だった。
この部隊数や名称を見れば、当時の野戦軍の戦時体制の一部を知ることができる。
次回は建武集団の戦闘記録を紹介しよう。
(つづく)
荒木肇(あらきはじめ)
1951(昭和26)年、東京生まれ。横浜国立大学大学院教育学修士課程を修了。専攻は日本近代教育制度史、日露戦後から昭和戦前期までの学校教育と軍隊教育制度を追究している。陸上自衛隊との関わりが深く、陸自衛生科の協力を得て「脚気と軍隊」、武器科も同じく「日本軍はこんな兵器で戦った」を、警務科とともに「自衛隊警務隊逮捕術」を上梓した(いずれも並木書房)。陸軍将校と陸自退職幹部の親睦・研修団体「陸修偕行会」機関誌「偕行」にも軍事史に関する記事を連載している。(公益社団法人)自衛隊家族会の理事・副会長も務め、隊員と家族をつなぐ活動、隊員募集に関わる広報にも協力する。近著『自衛隊砲兵─火力戦闘の主役、野戦特科部隊』。近刊として『第一空挺団(仮題)』((並木書房)。

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