空挺団物語(25) ブラウエン空挺作戦(7)オルモックでの戦い―挺進団の夜間跳下と陸軍潜水輸送艇「まるゆ」
▼ブラウエン作戦中止
第14方面軍は7日の昼頃にはブラウエン作戦の中止を下令した。さらにオルモック救援のために挺進団を投入することを第4航空軍に求めた。挺進団長にとっては第3聯隊の主力と第4聯隊の一部をブラウエンとタクロバンに投じているから、これらを放置して他方面に向かうことは耐えられないことだった。タクロバンへの進攻は当初から隊員を収容する目途もなかったが。飛行場を破壊した後はできるだけブラウエンに帰ってきて欲しかったのだ。
8日には、アンフエレスに待機していた第4聯隊の斉田聯隊長以下にオルモック北方、バレンシア飛行場に跳下が命じられた。輸送機はレイテからの帰途ネグロス島パゴロド飛行場に着陸した機も戻ってきており、7機を揃えることしかできなかった。2日前には30数機でレイテに向かったものが、その日はやっと7機でしかなかった。
第4聯隊はブラウエンへの増援と思っていたところが、方角的にはまるで正反対のバレンシアへの跳下ということから新しく計画を立て直すことになった。ここでも現地の状況など何も分からない。地形、敵情ばかりか友軍の状況も不明の中、ただバレンシアへ降りろということしかなかった。聯隊長を始めとして、ただ挺進精神だけで進むことになった。
▼バレンシアへの跳下
8日、10日、11日から連日14日まで空輸は進んだ。444名がバレンシアに跳下した。夜間飛行、夜間跳下のために敵機による損害はほとんどなかったが、航空機の故障による未帰還が多くあった。
田中賢一氏の『落下傘部隊戦記』には挺進飛行第一戦隊の第3中隊の一軍曹の手記が載っている。抜粋して紹介しよう。
8日オルモック攻撃、「増兵を要し、薄暮をもって攻撃に出発、成功帰還する。途中天候不良、再三雲中に入り長機見失う」、9日「次の攻撃は明夜明けを期して、ゆっくりと休養する」、10日「1320号に搭乗、地上滑走にて車輪を側溝に落とし、離陸遅れる。単機にて離陸、心配しながら本隊を追う。幸いレイテ北方にて発見、編隊に入り、18時過ぎ攻撃に成功、レイテ上空に敵機あり、そろそろ敵機も活発に動いているらしい」、11日「第1中隊応援、2番機操縦、相当に天候悪し、暮れゆくレイテ島に進入、オルモックに降下成功、ネグロス島シライに着陸、一泊す」
敵機に遭遇することもあった。12日のことである。手記を見よう。「早朝シライ飛行場を離陸し、アンヘレスに帰還す。ひと休み後、再度第1中隊にて出動、14時半離陸、もうれつな低空にてレイテ進入、島上空に敵機をみる。発見されれば強行着陸と決するも発見されず、無事降下完了、海上すれすれに飛び帰還す」
▼陸軍潜水輸送艇
ちょっと時計の針を戻して、11月末頃の米軍記録を見よう。大岡昇平の『レイテ戦記』も参照しつつ、この時期の日本軍の補給についてである。オルモックに通じるカニガオ水路に機雷原があると思った米軍は11月27日に2隻の掃海艇によって、水道を掃海した。その夜、米駆逐艦4隻は初めてカモテス海に入った。真夜中にオルモック湾に進入、海岸に約300発の艦砲射撃を加えた。
4隻がポンソン島の北を西に回ろうとしたとき、上空を哨戒中のカタリナ哨戒飛行艇から「1隻の潜水艦が浮上して接近中」という通報を受けた。0127(午前1時27分)、レーダーは目標を捉えた。その3分後、駆逐艦3隻は砲火を開く。海上を照らす照明弾の下で、潜水艦が蛇行するのが見えた。小型だったので、駆逐艦は乗り切って撃沈しようと接近したが、潜水艦はすでに艦尾から沈みつつあった。0330に艦名を確かめられないまま、駆逐艦隊は引き揚げた。
米軍記録では、この日、行方不明の記録があるイ号第46潜水艦と推定しているが、実際は陸軍潜水輸送艇だった。排水量270トンの「まるゆ」艇である。船舶工兵によって運用されていた。この夜に沈んだのは19年10月に、広島県大竹からやってきていた輸送艇第2号だったらしい。積載トン数は24トンであり、コメと医薬品を満載していた。
日本側記録によれば、26日にマニラを出て7ノットの速力で南下、27日の夜にオルモック湾口のパシハン島の船舶工兵隊基地に到着、そこで14名の揚陸要員を乗せて0200に出港している。米駆逐隊と遭遇したのは、オルモックで揚陸作業を終えて、帰投の途中だったと考えられる。
ただし、米軍は20年1月に、この輸送艇の残骸を引き揚げ調査したが、最後まで海軍潜水艦だと思い込んでいたらしい。魚雷発射管もなく、甲板上に37ミリ砲しかない輸送用潜水艇をどのように解釈したものか。しかし、潜水艦がいるという事実を目にして、米海軍にはいくらかの脅威を与え、米艦長たちの判断にいくらかの影響があったに違いない。この後、さらに輸送に関しての努力は続けられた。その結果が、日米最後の駆逐艦同士の戦いに発展し、日本海軍駆逐艦の勇戦を招いたともいえる。次回はその紹介をしよう。
荒木肇(あらきはじめ)
1951(昭和26)年、東京生まれ。横浜国立大学大学院教育学修士課程を修了。専攻は日本近代教育制度史、日露戦後から昭和戦前期までの学校教育と軍隊教育制度を追究している。陸上自衛隊との関わりが深く、陸自衛生科の協力を得て「脚気と軍隊」、武器科も同じく「日本軍はこんな兵器で戦った」を、警務科とともに「自衛隊警務隊逮捕術」を上梓した(いずれも並木書房)。陸軍将校と陸自退職幹部の親睦・研修団体「陸修偕行会」機関誌「偕行」にも軍事史に関する記事を連載している。(公益社団法人)自衛隊家族会の理事・副会長も務め、隊員と家族をつなぐ活動、隊員募集に関わる広報にも協力する。近著『自衛隊砲兵─火力戦闘の主役、野戦特科部隊』。近刊として『第一空挺団(仮題)』(並木書房)。


