空挺団物語(24) ブラウエン空挺作戦(6)──オルモック救援
□白井聯隊長戦死のこと
KMさま、お問い合わせありがとうございます。素晴らしいご指摘です。確かに昭和20年6月の「進級内報」に士官候補生42期の白井恒春少佐が中佐へ進むという記載があります。そこで生存の可能性ありとも思えます。
わたしの記述は田中賢一氏の『陸軍落下傘部隊戦史・あゝ純白の花負いて』(学陽書房・昭和47年)から採ったものです。
手記そのものの来歴も、白井少佐が書かれたものをカンギポットでのご臨終に立ち会った挺進第4聯隊の下士官が携行し、第4聯隊の副官斉藤中尉に渡し、斉藤中尉から第3聯隊の藤井中尉の手に渡り、戦後に内地に持ち帰られたというものです。防衛省の公刊戦史にも採用されています。
進級内報の記述は、白井少佐の生存が不明で上級部隊からの正規の通報がなく、戦死認定に至らなかったために進級されたと思うのですが。もし20年6月以降にも白井中佐として在られたなら、敗戦時にも生存されていたのなら、復員日があるかとも思うのです。
浅学で申し訳ありませんが、わたしの考えを述べました。もし、何か情報をお持ちでしたら、ぜひご教示ください。
▼12月10日、最後の奮戦
以下『レイテ戦記』にある記述で、これらは米公刊戦史をもとにしている。ブリ飛行場を攻撃した米軍は1700には小部隊の日本兵を掃討した。飛行場を確保し、野営の態勢に移った。
1930に、飛行場の西南にある米第5空軍の司令部に向けて機関銃による射撃があった。銃弾は木製の壁を貫通して、司令官ホワイトヘッド少将の身をかすめた。その射撃音は米軍機関銃のものだったから、少将は直ちに副官に命じて第8航空通信隊長ケスナー大佐に電話させた。暴発の原因の究明と対処を命じるためである。
「あの狂った暴発騒ぎを止めさせてください」と副官が言うと、大佐は「わたしも止めてもらいたい。でも、あれは日本兵なんだ」
「そんなはずはないです。弾は友軍陣地から来ています」
「日本兵が友軍陣地に侵入したんだよ」
「大佐、なぜ日本兵が米軍機関銃を使っているのですか」
「わたしが知っているわけがない」
「弾は将軍の部屋にも届いているんです」
「そんなら将軍にすぐ床に伏せるように言え、(受話器を騒音の方に向けて)このどなる声を聞け。日本兵がわが隊の食堂に突入したのだ」
この攻撃隊は20名の遺体を残した。これはサンパブロに跳下した高千穂隊の一部ではなかっただろうかと大岡昇平は推測する。米軍からの鹵獲兵器を使っていたからである。
▼オルモックの戦況
オルモックはレイテにおける第35軍の策源地だった港町である。もし失陥すればレイテ島のわが軍の後方は遮断される。ところがオルモックには船舶部隊と少数の高射砲部隊しかいなかった。歩兵部隊は皆無だったのだ。第35軍司令部、その護衛隊、船舶工兵しかいなかったというわけだ。
7日のこと、オルモック南方のイピルに米軍1個師団(第77師団)が上陸した。これとは別にダムランにも1個師団が上陸し、北進を始めた。わが第26師団の防衛線を突破したのである。
これをうけて、第14方面軍は7日の正午ごろにはブラウエン作戦を中止し、第4航空軍に挺進団をオルモック救援に向かわせるよう要請したのだった。
わが第1師団は依然としてリモン峠で、米第32師団と対峙していた。26師団の斎藤支隊はダムラアン方面で米第7師団の攻勢に耐え、退却戦を行なっている。
もっとも方面軍は、オルモックの手薄さを憂慮していなかったわけではない。満洲から進出してきた第68旅団(通称星兵団)の5000名が、7日にオルモックに入港するはずだった。そうしてダムラアン方面の米第7師団を駆逐して、状況次第でブラウエン地区に進出させ戦果を拡大する計画である。
ただし、第68旅団を無事に上陸させるためには、ブラウエン飛行場を攻撃、確保し、敵航空兵力を麻痺させねばならなかった。
▼オルモックの戦闘
米軍の上陸は、まさに戦場とは錯誤と偶然が支配するところという格言通りに思える。戦争によくある偶然から、第26師団はブラウエンにあり、第68旅団はまだ到着していない。まさにオルモックは米軍にとっては拾いものの戦場だった。
では第35軍として、まったくこの米軍の企図に気付かなかったわけではなかった。11月中旬からオルモック湾内を哨戒する米魚雷艇の行動が活発化していた。さらに27日と29日の夜には米駆逐艦が進入し、艦砲射撃も行なってもいる。
ただし、ガダルカナルやニューギニアの戦闘経過から見れば、カモテス海にはもっと早くから米駆逐艦が来なくてはならない。オルモック湾に入る日本軍艦船に対して、空中からの航空攻撃より、近接砲撃・雷撃戦の方がより効果的だったはずだ。それが遅れたのには理由があった。
まず、セブ・ネグロスの両島にあった日本軍航空基地に近かったことが挙げられる。次にカモテス海に入るルートである。レイテ湾の米駆逐艦がカモテス海に入るには、レイテ島の南側を回るしかない。ところが島の西側につき出た半島とボホール島の間には東西60キロにわたる大岩礁がある。その間のカニガオ水路は幅2キロほどしかない。ここは必ず機雷によって封鎖されていると米海軍は考えていた。
たしかにレイテ湾口には機雷が敷設され、上陸作戦中に駆逐艦1隻が被害を受けた。そこから重要な海面には有力な機雷原があると米軍は判断していたのだ。実際には、日本海軍の基地があったセブ市付近だけに機雷はあったのである。
したがって喫水の浅い魚雷艇しかカモテス海に送らなかった。次第に日本海軍の駆逐艦に攻撃され、対抗上、米軍も駆逐艦を送らざるを得なかったということにあった。
(つづく)
荒木肇(あらきはじめ)
1951(昭和26)年、東京生まれ。横浜国立大学大学院教育学修士課程を修了。専攻は日本近代教育制度史、日露戦後から昭和戦前期までの学校教育と軍隊教育制度を追究している。陸上自衛隊との関わりが深く、陸自衛生科の協力を得て「脚気と軍隊」、武器科も同じく「日本軍はこんな兵器で戦った」を、警務科とともに「自衛隊警務隊逮捕術」を上梓した(いずれも並木書房)。陸軍将校と陸自退職幹部の親睦・研修団体「陸修偕行会」機関誌「偕行」にも軍事史に関する記事を連載している。(公益社団法人)自衛隊家族会の理事・副会長も務め、隊員と家族をつなぐ活動、隊員募集に関わる広報にも協力する。近著『自衛隊砲兵─火力戦闘の主役、野戦特科部隊』。近刊として『第一空挺団(仮題)』((並木書房)。

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