空挺団物語(21) ブラウエン空挺作戦(3)──後援続かず
□立民古賀議員の認識
元日教組中央執行委員、古賀参議院議員が予算審議中に小泉防衛大臣への質疑の中で、「自衛隊には貧しい人が行く。豊かな子供は自衛隊とか行かない」と発言しました。さすがに議場も騒ぎになり、たちまち彼女は撤回しますが事態は収まりませんでした。
さすがに偏向報道の多いオールドメディアでも庇(かば)いきれないようです。職業差別にあたるし、何より自衛官やその子女に、いわれもない蔑視発言に思えます。ただ、彼女が日教組の職域代表であり、名簿登載で議員になった方である背景を思えば、若い頃からずっとそうした認識で生きてこられたことは明らかです。
では、どこが問題なのか。整理してみようと思います。まず、彼女の断言したことは事実なのか。ネットの反応を見ると、「間違っていない」とか「実態だ」とか主張して、彼女の発言を擁護する方もいます。そういう方は議員本人を含めてどういう調査をして、どのような事実があって、現在の自衛官の実態だとおっしゃるのでしょうか。
1971(昭和46)年、故野呂邦暢氏(1937年生)の『草のつるぎ』が芥川賞を受け、昭和30年代の陸上自衛隊員の青春の一コマが描かれました。2001(平成13)年には浅田次郎氏による『歩兵の本領』が上梓され、昭和40年代末の自衛隊生活が、フィクションではありますが生き生きと描かれます。
『草のつるぎ』は、経済成長前の、わが国がまだ貧しく、敗戦後の混乱の匂いがまだ漂うものでした。佐世保の新隊員教育隊の班では高等学校を出た人は主人公しかいません。『歩兵の本領』は、高度経済成長の背景にあった華やかさの背後に隠れた階層の貧しさを見事に描いていました。主人公は親に背いて進学校から入隊しますが、同班の仲間はみな貧しい家庭の出身でした。あの発言は実態の一部だ、俺は事実を知っているとネットで発信する人たちの中には、こうした作品群の描いた自衛隊像があるのでしょう。また、ほんとうに体験者なら、こうした世代の人に違いありません。
さて、一方、世間を考えてみれば、自衛隊が嫌い、軍事、戦争、兵器などと関わりたくないという人が一定数いることは事実です。団体生活や体育会的な雰囲気が苦手、自由を制限されることは嫌いという人々がいます。そうした人は教育の良し悪しに関係なく、戦前の日本社会にもたくさんおりました。反軍気分、平和主義はもう100年以上も前からあります。
だからといって不当に他人を貶(おとし)めていいわけではありません。職業に貴賎はない、人を差別してはいけない、不当な弾圧に屈してはいけない・・・みな日教組が主張してきて、自衛隊叩きが平和主義の表現だとしてきた勢力が言ってきたことではありませんか。ここに組合の専従職員として職業的活動家で生きてきた古賀議員の限界と心の貧しさを感じています。ついでに言えば、わたしの周囲の多くの教職員は決して彼女のような認識をもっていません。
また、彼女はいわゆる「経済的徴兵」を言いたかったのでしょう。ベトナム戦争の頃からいわれていたことで、学歴社会、格差社会であったアメリカでは、差別された階層や貧困層から志願して従軍しました。そこから貧困層が、軍隊に入らない富裕層の楯になって戦死するという主張が出てきます。多くの人がこれに賛成し、ベトナム反戦映画もこうした主張に沿う作品群がありました。古賀議員はこれを言いたかったのかもしれません。いずれにせよ、時代は半世紀以上経ち、何より現在のわが国でこれが当てはまるのかどうか。
わが国民は、近代になって初めて徴兵制度をもち、戦後は志願兵制度をつくりました。志願兵を見るのはまさに初めての経験でもあります。なお、近頃の自衛官の入隊動機のトップは「身近な人の役に立ちたい」「国家・国民のために力を発揮したい」「体力を生かした仕事をしたかった」がベスト3であり、「経済的な問題から」はトップ10にも入りません。
また、出身家庭を見ても「普通」であるということから、「みんな経済的に厳しい家庭」の出身者ではありません。
▼後援続かず
高千穂空挺隊の降下が6日夕刻に延期になったことは第16師団に伝わらなかった。師団は予定通り6日の払暁にブラウエン飛行場に突入した。対して米軍は前日に警戒態勢を解いて、511降下連隊第2大隊は、マホナダ方面の山中で迷子になった主力の応援に向かった。ブリ飛行場北にいた306歩兵連隊第3大隊はオルモック上陸軍の指揮下に入って、海岸に移動していた。
ブラウエン地区の戦闘部隊は、187グライダー連隊の第1大隊(1個中隊欠)だけだった。あとは少数の警備隊、補給隊、通信隊である。5日の20時には第24軍団の情報部は「ブラウエン地区の日本軍の組織的抵抗は終わったと考えられる」と判断していた。その8時間後には第16師団が突入してきたのだ。
『レイテ戦記』によれば、この攻撃前の第16師団の状況が記録されている。
(1)司令部は「ロビ」山東南約1キロに在り、
(2)陣地線はロビ山頂より、これを北東―東南に囲繞(いにょう)する如く、概ね3〜4キロに在りて水源を確保しあり。
(3)兵団の戦力(2030名)、歩兵3聯隊 計1400名、小銃約750、聯隊砲1、大隊砲2、弾薬ほとんどなし。LG(軽機関銃)40、擲弾筒30、速射砲なし。対戦車資材なし。砲兵約300(小銃のみ200)、工兵約200、航空約130(飛行場設営隊)
(4)当面の敵は第一線約2個大隊(迫撃砲10、野砲10榴等約3中隊・12門にして、連日攻撃しあるも、兵団は依然陣地を確保し、和号作戦の準備をなしあり。
(5)地上連絡及補給逐次つきつつあり。
(6)綜合戦果(11月11日~11月25日間「レイテ島支隊」遺棄死体326(外負傷者38)、鹵獲又は破壊-MG(重機関銃)1、自動小銃11、ロケット砲2、トラック1、牽引車5、無線機2、電話器1、電話線1、弾薬多数。
▼第16師団
ロビはブラウエンから西へ約10キロ離れた山岳の中にある集落である。部隊の食糧はもっぱら現地徴発で、もう1カ月以上も山中にあった。バナナ、パパイヤや芋しかなかった。マラリヤ、慢性の下痢、栄養失調のために病臥、死亡する者が続出していた。
のちに軍事史家になる加登川幸太郎氏は、このとき軍参謀だった。第16師団の戦闘指導にロビ山に派遣された。11月28日にオルモック(海岸の補給地)を発って、12月1日に東に10キロ進んだマホログから山中に分け入った。ロビ山まで残り直線では約2キロである。道案内に立ったのは輜重兵第16聯隊長だった。断崖や叢林に妨げられて、参謀たちは前進を諦めて引き返したが、聯隊長以下はさらに進んでいったという。
第16師団の将兵の多くは、山中に米軍やゲリラの攻撃で倒れた。それでも6日の朝に、命令通り200名余りの将兵がブラウエンに突入した。こうしたことを後世のわたしたちは忘れてはならない。斬り込みが5日夜ではなく、6日未明になったのは米軍の妨害などで予定が狂ったか、空挺の降下がなかったからか。生存者の証言はない。
▼ブリ飛行場に突入
以下、大岡昇平氏の『レイテ戦記』に依ってみよう。12月6日午前6時、ブリ飛行場の西北にあった287野砲観測大隊は陣地の南方1キロ国道を、日本兵が1列縦隊になって越えるのを目撃した。道路を確保するために、日本兵は道路わきに掩体を構成する。のちになって戦死体を数えたら15名だった。道路奥300ヤードにあった小屋に機関銃を据えて夕方まで抵抗した。
日本兵出現の情報は直ちに飛行場警備隊に送られたかというとそうではなかった。30分後にブリ飛行場は攻撃を受けたが、それは奇襲になった。飛行場を守っていたのは287野砲観測大隊の47名と補給部隊、技術部隊の157名の合計204名でしかなかった。日本兵は着剣し、眠っていた米兵のテントに侵入し、次々と毛布の上から刺突した。起き上がって銃を執ろうとする前に刺された兵士もいた。発砲しながら逃げた兵士もいた。この恐怖に駆られた補給部隊の兵士は、動くものには何でも発砲したから友軍(米軍)にもかなりの損害があったと記録にある。
第16師団は午前中にはほとんど飛行場の半分を制圧していた。次第に北方に移動し、飛行場を東と北、西の3方向から包囲する態勢をとった。
(つづく)
荒木肇(あらきはじめ)
1951(昭和26)年、東京生まれ。横浜国立大学大学院教育学修士課程を修了。専攻は日本近代教育制度史、日露戦後から昭和戦前期までの学校教育と軍隊教育制度を追究している。陸上自衛隊との関わりが深く、陸自衛生科の協力を得て「脚気と軍隊」、武器科も同じく「日本軍はこんな兵器で戦った」を、警務科とともに「自衛隊警務隊逮捕術」を上梓した(いずれも並木書房)。陸軍将校と陸自退職幹部の親睦・研修団体「陸修偕行会」機関誌「偕行」にも軍事史に関する記事を連載している。(公益社団法人)自衛隊家族会の理事・副会長も務め、隊員と家族をつなぐ活動、隊員募集に関わる広報にも協力する。近著『自衛隊砲兵─火力戦闘の主役、野戦特科部隊』。近刊として『第一空挺団(仮題)』((並木書房)。

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