空挺団物語(23) ブラウエン空挺作戦(5)──白井聯隊長の手記
□いよいよ梅雨明け
関西方面では、すでに梅雨明け宣言が出されたとか。こちらはまだのようで、気温は上がり湿度は高まるものの一向に雲が晴れません。体調を崩された方々もおられるようで、皆さまご自愛ください。
▼降下と跳下
田中賢一氏によれば、昭和18(1943)年ごろ落下傘部隊の各種教範が制定され、以後、降下とは航空機が高度を下げることをいい、落下傘で降りることを跳下(ちょうか)というようになったという。したがって、公式報告書などの記述は「跳下」となっている。本稿ではそれに従う記述にしたい。
▼公刊戦史に載る白井報告書
7日の未明から8日朝までの行動が公刊戦史にある。この記述の元となったのは挺進第3聯隊長白井少佐が2月4日に戦死されるまで書き続けられた手記だった。それをあらためて分かりやすく書いてみよう。以下、貴重な記録の原文を損ねないように注意しながら見ていこう。
第16師団の斬込隊は飛行場に突入し、南方と西方に激しい銃声が聞こえた。0830(午前8時30分)ころに、M4中戦車2輌と機関銃5をもった敵兵約350名が、迫撃砲の支援を得ながら南方と東方から、逐次包囲態勢をとってきた。わが方は東方から集結してきた兵力で攻撃したが銃砲火の集中があり、損害が激増した。残存兵力は約30名、日没まで飛行場北方約1キロの密林の中に遮蔽する。その後、1800には飛行場を夜襲によって奪回しようと南進したが、飛行場北側からと推定される射撃を受けた。
西方から迂回しようとしたが、深さが腰にまで達する湿地帯に入り、進路を南方にとって進むと天明が近づいてきた。夜が明けきるまでに「ダキタン河」南側に潜伏し、第16、第26師団の攻撃が進捗するのを待つことにし、さらに南進した。
前進中、「ブラウエン-ドラック」を結ぶ道で、約20輌の自動貨車(トラック)と一部の操縦手を発見する。全車を破壊し、撃滅し、道路上を南下したが敵幕舎(テント)が左右に林立していた。黎明になり、敵兵2~3名が幕舎前に立って、我らを傍観している。前進を開始し河岸に達したとき、監視兵2名が誰何(すいか)してきた。ただちにこれを刺殺してタギタン河を渡り、潜伏前進。敵の作戦道路側方の約50メートルに敵砲兵陣地1、迫撃砲陣地2があったので、その後方に潜伏し、飛行場方向の戦況の進展を待機観察するように決心した。
7日、後続部隊の跳下はなかった。夜になってブラウエン西方に進出する予定の第26師団、それに続行しているであろう軍司令部と合流するべく、白井聯隊長は部下を率いて、西寄りに南下していった。夜間を利用して前進し、昼間は潜伏する行動を繰り返した。10日には西進を開始する。18日に友軍大隊と「マタグワ」東北方4キロ付近のジャングル内で遭遇した。このとき聯隊長以下12名になっていた。1月26日にはようやく第35軍司令部に合流できた。
▼以後の活動と綜合戦果
以下、白井聯隊長の記述を紹介する。
- 土屋少佐の指揮による兵力16名の行動。跳下とともに敵飛行場を襲撃、飛行機、幕舎、ドラム缶、弾薬置場を焼却し、破壊を続行。7日の夜明けに北飛行場北方に位置し、1600には歩兵第20聯隊の斬込隊約200と合流。指揮下に入り、挺進部隊は主として飛行機、ドラム缶に攻撃を指向した。7日夜、8日夜、9日夜と斬込を続行、敵飛行機や諸器材施設の破壊焼却を続け、10日は垣兵団命令によって西方高地方向に転進する。爾後、跳下者逐時垣兵団に集結し、1月2日には73名の兵力に達した。
- 南飛行場攻撃隊桂大尉の指揮する70名の跳下地点並びに戦果は不明
- サンパブロ飛行場跳下部隊挺進第4聯隊穐田大尉以下24名の行動並びに戦果不明。
- 綜合戦果(ブラウエン南北飛行場、サンパブロ飛行場)。飛行機P38は41機、戦闘機24機、ダグラス輸送機6機、観測機27を破壊。戦車12輌、自動貨車42輌、乗用車5輌を破壊。兵器弾薬多数、高射機関銃3門、同弾薬多数、幕舎55、遺棄死体100~150、その他航空材料、被服物件など多数を焼却した
▼米軍側の記録
6日から7日の夜にかけて、オルモック南4キロのデポジトへの上陸を企図した米第38師団が到着した。このうち1個連隊が米第6軍に配属され、ブラウエン地区の降下部隊の掃討作戦に充てられた。連隊は第11空挺師団の隷下に入り、第1、第2大隊は7日の午前2時ころ、タナウアンを出発。先頭の第1大隊は昼過ぎにサンパブロ飛行場に到着した。
そこでの米空挺師団長スウイング少将の訓示が残っている(大岡昇平・レイテ戦記)。「昨夜約75名の日本の落下傘兵が降りたが、こちらは50しかいなかった。ここから273度方向、1500ヤードに、ここと同じような飛行場がある。そこに行くまでには25名くらいの日本兵がいる。いま1400(午後2時)だが、夕方までにはその飛行場を確保するつもりだ」
第1大隊は、重機小隊を配属され火力を強化したA、Bの2個中隊を第一線に配した。81ミリ迫撃砲をもつD中隊は後方に展開する。1430に前進を始めたが、400ヤード進んだところで沼地に出会ってしまう。前進は捗らず、散発的な日本兵の抵抗があり、A中隊は1630、B中隊は1830にようやくブリ飛行場の西南端に着いた。空中偵察を行なうと、飛行場の北縁にいる日本兵の数はスウイング少将の話よりはるかに多かった。部隊はそこで野営して夜を過ごした。
バユグ飛行場は、最もブラウエン市街に近く、降下を受けなかったただ1つの飛行場だった。そこの守備隊187グライダー連隊第1大隊(1個中隊欠)がブリ飛行場に向けて進撃を開始したそのとき、ダガミ=ブラウエン道の西側の山脚地帯から日本軍の重機関銃の射撃を受けた。部隊は一部がそれに対応し、主力は前進を続け1640にはブリ飛行場の西南に達し149連隊と連絡した。
一方でダガミから南下した96師団第382連隊第1大隊も、夕方までに飛行場西西方に達して149連隊と連絡を取れた。2000以降は、その地区の銃声は収まった。
約300名の日本兵に対して、米軍は3個大隊で、日本兵の西方への退路を遮断しつつ攻撃態勢を完了した。しかし、部隊がブリ飛行場を奪還するのは3日後の10日の17時だった。
次回はオルモックへの救援に向かう挺進隊の行動を調べてみよう。
(つづく)
荒木肇(あらきはじめ)
1951(昭和26)年、東京生まれ。横浜国立大学大学院教育学修士課程を修了。専攻は日本近代教育制度史、日露戦後から昭和戦前期までの学校教育と軍隊教育制度を追究している。陸上自衛隊との関わりが深く、陸自衛生科の協力を得て「脚気と軍隊」、武器科も同じく「日本軍はこんな兵器で戦った」を、警務科とともに「自衛隊警務隊逮捕術」を上梓した(いずれも並木書房)。陸軍将校と陸自退職幹部の親睦・研修団体「陸修偕行会」機関誌「偕行」にも軍事史に関する記事を連載している。(公益社団法人)自衛隊家族会の理事・副会長も務め、隊員と家族をつなぐ活動、隊員募集に関わる広報にも協力する。近著『自衛隊砲兵─火力戦闘の主役、野戦特科部隊』。近刊として『第一空挺団(仮題)』((並木書房)。


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