空挺団物語(19) ブラウエン空挺作戦
▼ブラウエン作戦
レイテ最後の総攻撃ブラウエン作戦が企画された。徳永挺進団長は時期を11月末と承知していた。まず、1回目の降下は第3聯隊のみと準備を下命した。ブラウエンには飛行場群があり、北、南の両飛行場ほかサンパブロ飛行場があり、海上機動への脅威となっていた。第3聯隊長白井少佐は、ドラック及びタクロバンも同時攻撃すべしと意見を上申した。
一方でブラウエン進出を命じられた第26師団は11月15日にはアルベラを発進したが、経路は密林が生い茂り、12月初めでなければ到着は無理だった。
第4航空軍は、第2挺進団の総力をあげた空挺作戦は12月初めとなるが、それまでに少しでも敵飛行場に打撃を与えようと企画した。11月26日、「薫(かおる)空挺隊」をタクロバン飛行場に突入させた。これはニューギニアで作戦するための遊撃戦部隊である。台湾の高砂族出身義勇隊員で編成されていた。
この80名の隊員を4機のダグラス輸送機に搭載し、タクロバン飛行場攻撃に向かわせた。1機が途中不時着し、3機が強行着陸したが真夜中の突入でもあり、その戦果は不明だった。
11月30日には第4聯隊が北サンフエルナンド港に到着したので、団長も第4聯隊の一部を第1次攻撃に参加させることとして攻撃部署を決定する。ブラウエン北には第3聯隊の204名、同南には70名、サンパブロには第4聯隊の36名を降下させる。ドラックには重爆2機に分乗した第3聯隊20名が強行着陸とした。
ドラックとタクロバンには第4聯隊から、それぞれ84名と24名が降下し、団司令部は重爆2機でタクロバンに着陸とする。総人員は約460名、輸送機35機、重爆4機という計画だった。
▼35軍によるブラウエン作戦の計画
第16師団の主力がブラウエン北飛行場、第26師団は南飛行場に突入し、降下部隊と提携させる。各兵団は飛行場奪取後にはこれを徹底的に破壊し、第16師団は飛行場群北側、第26師団は東側、第68旅団は南側に位置し、主力をもってこれを確保し、一部をもって敵砲兵、戦車、他飛行場に対し斬り込み攻撃を行なうというものである。
ブラウエン西方の隘路口に敵が殺到してきた際には、全飛行場の後方要線を占領し、兵団主力の進出を図り、爾後のブラウエン飛行場攻撃を準備する。
第68旅団の到着が遅延する場合は、第16、第26師団は高千穂部隊の降下と同時に斬り込み戦闘を開始し、敵飛行場の制扼を図り、第68旅団の到着を待って、敵飛行場群の攻略を行う。
作戦計画には以上のようだが、ブラウエン飛行場に降着する部隊以外は、薫空挺隊と同様に孤立無援の特攻隊のような用法である。第68旅団は満洲公主嶺学校でその基幹隊員や教官たちを主力に編成された部隊だった。記録によっては高い練度と優良装備をもった精鋭とされていることもあるが、実態は決してそんなことはなかったと所属された参謀の著書もある。海上輸送中に大きな損害を受け、結局はブラウエン作戦には参加できなかった。
第26と第16の両師団の前進は捗らなかった。跳下は当初4日、すぐに5日、6日と変更された。跳下部隊では降着後の行動に備え、夜間訓練を行なっていた。このときの装備は戦後になって米軍より10年早く実用化されたと評価された「吊索優先方式」の4式落下傘だった。装備も99式軽機関銃を携行することができた。
12月6日、敵海軍機は前日には来襲したが、この日の攻撃はなかった。
1540(午後3時40分)、100式輸送機30数機が離陸、煙弾幕構成が任務の第45飛行団の100式重爆13機がそれに続き、タクロバン、ドラックに強行着陸する4機も次々と地を蹴った。直掩に任ずる1式戦闘機30機が同行して南下していった。
天候は良好、ネグロス島のマナブラ上空でバコロドからの戦闘、軽爆隊と合流し、ヅルハンガン岬の西方からドラッグ、タクロバン強行着陸の100式重爆4機とその直掩機が分離して東進した。主力はさらに南進し、レイテ島南方パナオン島付近から大きく変針し、薄暮のレイテ島上空に到達する。そこでドラッグ、タクロバンに降下する編隊が変針した。次第に高度を下げて増速して輸送機編隊は北上する。
先行していた復座戦闘機、重爆と軽爆は、それぞれブラウエン南北、サンパブロの飛行場に発煙弾を投下していた。ブラウエン北飛行場には午後6時40分に降下を始める。戦隊長からの「跳下成功」の無線がアンへレスに届いた。南飛行場にも70名が跳下する。タクロバン、ドラック両飛行場への強行着陸は、偵察機によって成功したことが確認された。
▼アメリカ側の記録
故大岡昇平氏の大作『レイテ戦記』には米軍公刊戦史によるわが空挺作戦の紹介がある。以下、その記述に従ってみよう。この大規模な空挺作戦については、そのおおよそが日本軍からの鹵獲文書によって米軍情報部がすでに知るところだった。
ところが、米軍関係者は4日の空挺作戦は計画倒れになるだろうと判断していた。そこには薫空挺隊の降下も影響があったという。東京の宣伝放送は同空挺隊の突入成功を大々的に報じていた。そのため日本軍の挺進作戦が引き続き行なわれる可能性があるとも思われ警戒を強めていた。
であるのに空挺作戦はなかなか行なわれなかった。そのために鹵獲文書から得た作戦予定は、薫空挺隊自身のものか、あるいはすでに中止されたものではないかと判断された。そのため警戒態勢も高千穂空挺隊の実施前日になる5日に解除してしまっていた。
6日の降下作戦時、ブラウエンに存在したのはグライダー連隊の1個大隊(1個中隊欠)、補給隊、少数の警備隊、通信隊ほかだった。次回はその錯誤と混乱の記録を紹介する。
(つづく)
荒木肇(あらきはじめ)
1951(昭和26)年、東京生まれ。横浜国立大学大学院教育学修士課程を修了。専攻は日本近代教育制度史、日露戦後から昭和戦前期までの学校教育と軍隊教育制度を追究している。陸上自衛隊との関わりが深く、陸自衛生科の協力を得て「脚気と軍隊」、武器科も同じく「日本軍はこんな兵器で戦った」を、警務科とともに「自衛隊警務隊逮捕術」を上梓した(いずれも並木書房)。陸軍将校と陸自退職幹部の親睦・研修団体「陸修偕行会」機関誌「偕行」にも軍事史に関する記事を連載している。(公益社団法人)自衛隊家族会の理事・副会長も務め、隊員と家族をつなぐ活動、隊員募集に関わる広報にも協力する。近著『自衛隊砲兵─火力戦闘の主役、野戦特科部隊』。近刊として『第一空挺団(仮題)』((並木書房)。


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