空挺団物語(18) 挺進団、フィリピンへ

□ご挨拶

6月を迎えました。もうはや暑さがやってきました。今年の夏はかなりの高温になるとかの話です。わたしも健康管理に気をつかわねばならないと思っています。

 

□お詫びと訂正

 

前回でパレンバン降下作戦のダイジェストをお送りしましたが、友人からのご指摘がありました。奮戦された奥本中尉は、義烈空挺隊の指揮官として散華された奥山道郎大尉(陸士53期)とは別人であられました。謹んで訂正いたしますとともに、お詫びを申し上げます。

 

▼挺進団レイテ決戦に参加

 

1944(昭和19)年10月24日、挺進第3聯隊に動員が下令された。800名の将兵は25日、日豊本線川南駅から乗車し佐世保に向かった。佐世保では航空母艦「隼鷹」に乗り込み30日に出港した。31日には挺進第4聯隊に動員令が下り、11月5日には挺進団司令部と挺進飛行戦隊にも動員が下令される。

第2挺進団の被匿名は高千穂部隊、第3聯隊は香取部隊、第4聯隊は鹿島部隊、挺進飛行第1戦隊は霧島部隊と名付けられた。

 

絶対国防圏と標榜されたマリアナが失陥、大本営は次の戦場は比島(フィリピン)、台湾、南西諸島、本土、千島とそれぞれの防衛計画を立てていた。第2挺進団高千穂部隊は捷1号作戦と名付けられた比島での決戦に投入されることになった。

▼捷1号作戦
10月10日にはアメリカ軍機動部隊が北上し、南西諸島を襲い、12日には台湾に猛攻を加えた。わが海軍航空部隊は12、13日の両日、敵機動部隊に反撃し大戦果を挙げたと報告した。台湾沖航空戦と呼ばれたが、現在ではよく知られているように実際は惨敗だった。

捷1号作戦の計画は7月末に立てられた。

その決戦指導の大綱は、
(1)ルソン島に敵が来攻した場合は、空、海、陸の総合決戦を実施する。

(2)中南部比島に敵が来攻した場合は、空、海の決戦を行ない、地上の決戦は実施しない。

というものだった。

その理由とされたのは、第14方面軍の兵力が元々少なく、海上機動で陸上兵力を随時に動かすことが、敵の優勢な航空兵力によって困難だろうということからであった。

 

ところが、台湾沖の大勝利という誤報が信じられた。敵の海上兵力が激減したならば、中南部比島地区でもわが地上軍の海上機動性が高まり、ルソン島以外でも地上決戦ができると思われた。

 

▼レイテに集結する陸上兵力

 

10月17日のこと、レイテ湾に敵艦船団が現われ、レイテ湾口にあるスルアン島に上陸を始めた。翌18日にはレイテ島の飛行場は敵艦上機による空襲を受けた。レイテ湾には多くの敵艦船が進入し、掃海を行ない、海岸には艦砲射撃を浴びせる。

 

大本営は捷1号作戦を発令する。南方総軍は、第14方面軍に「レイテ島に来攻する敵を撃滅すべし」と命令を下した。

 

方面軍は第1、第26師団と第68旅団を急遽、レイテに増派することにする。第2挺進団もまた航空母艦「隼鷹(じゅんよう)」と高速輸送船に乗り、レイテに進出することになった。

 

10月30日には隼鷹は佐世保を出港する。澎湖島を経由してバシー海峡にさしかかると、同行の輸送船が敵潜水艦の雷撃を受けて沈没、護衛艦1隻も被雷して轟沈した。

 

しかし、残る船団と隼鷹は11月11日にはマニラに到着し、鉄道輸送で南サンフェルナンドに向かった。

 

第2挺進団司令部は11月5日に動員が完結し、8日に新田原を発進、11日にはマニラに到着し、第4航空軍の指揮下に入り、第3聯隊を掌握し15日に南サンフエルナンドに集結を終えた。

挺進第4聯隊は11月3日に門司を出港し、危険な航海を終えて30日には北サンフェルナンドに到着し団長の指揮下に入った。

挺進飛行第1戦隊は、11月14日に新田原を発進し、台湾の嘉義飛行場で月末までに整備を終えて、主力は12月2日にアンフエレスに到着、団長の指揮下に入る。

 

▼レイテ島の戦況

レイテ島にあったのは、第35軍の第16師団だった。20日の米軍上陸の兵力は4個師団であり、空・海の敵火力は圧倒的であり、上陸部隊の正面は50キロにも及んだ。1個師団では兵力が少なく、タクロバン、バロ、ドラックの3地区で孤立して戦うことしかできなかった。しかも、通信手段も杜絶してしまう。

 

当時、第35軍司令部はセブ島にあり、鈴木軍司令官はレイテ決戦の命令を受けると、ミンダナオ島の第30師団、ネグロス島の第102師団の各主力をレイテ島に増援し、さらに軍に増強される第1、第26師団と第68旅団を加えて地上決戦を行なうことにした。

 

空の戦いも激しさを増した。第4航空軍と海軍航空部隊は24日から総攻撃を始めた。このとき、第1航空艦隊司令長官大西中将は、必死体当たり攻撃を戦局打開の方法として案出して神風特別攻撃隊を編成し、総攻撃に参加させた。

 

11月1日には待望の第1師団がオルモックに上陸した。10月30日から一時的にレイテの制空権がわが方のものになったおかげである。第4航空軍は新鋭機「4式戦闘機疾風」の第30飛行集団の補強を受けて、タクロバン港の艦船や地上施設の爆撃を行なった。これが第1師団の9割の人員資材が無事に到着する理由になった。

35軍司令部は第1師団をカリガラ附近に進めて決戦指導を行なおうとしたが、敵の前進が早く、リモン附近で敵に遭遇してしまう。4日から月末まで激戦となった。いっときはカリガラ湾まで進出したが米軍も3個師団が増強され、わが102師団の一部も戦闘加入したが、圧倒的な戦力差によって11月下旬には危機が訪れた。

 

 

(つづく)

 

荒木肇(あらきはじめ)
1951(昭和26)年、東京生まれ。横浜国立大学大学院教育学修士課程を修了。専攻は日本近代教育制度史、日露戦後から昭和戦前期までの学校教育と軍隊教育制度を追究している。陸上自衛隊との関わりが深く、陸自衛生科の協力を得て「脚気と軍隊」、武器科も同じく「日本軍はこんな兵器で戦った」を、警務科とともに「自衛隊警務隊逮捕術」を上梓した(いずれも並木書房)。陸軍将校と陸自退職幹部の親睦・研修団体「陸修偕行会」機関誌「偕行」にも軍事史に関する記事を連載している。(公益社団法人)自衛隊家族会の理事・副会長も務め、隊員と家族をつなぐ活動、隊員募集に関わる広報にも協力する。
近著『自衛隊砲兵─火力戦闘の主役、野戦特科部隊』。近刊として『第一空挺団(仮題)』(並木書房)。