空挺団物語(17)「空挺部隊」(2)

2026年5月28日

▼初陣、パレンバン

 

いよいよパレンバン製油所に降下、戦闘に入ることになった。航空で掩護に当たるのは第3飛行集団である。戦闘4個戦隊132機、軽爆3個戦隊90機、重爆3個戦隊81機、偵察1個戦隊と3個中隊45機の合計548機だった。これに挺進団が配属になり、その輸送機27機が加わったことになる。

▼落下傘部隊の長所と弱点

 

敵の弱点を衝ける。まさに落下傘部隊の、他の戦力が比ぶべきもない長所である。しかし、同時に弱点もあった。それは降下直後の戦力の低さである。時速200キロで飛ぶ輸送機から10人から13人の隊員が1つの扉から連続降下する。各兵の間隔は約50メートルにもなる。全長は500から600メートルにもなった。9機の編隊から降りると幅300、長さ700メートルほどに散らばってしまう。未知の戦場に散らばるから、当初は組織的な戦闘ができない。

さらに携行兵器の問題である。この頃、小銃は携帯できなかった。万一、落下傘に絡みついたら大変だった。拳銃と手榴弾しかなかった。折り畳みできる小銃や、機関短銃の試作を具申していたが、開戦には間に合わない。軽機関銃や重機関銃、37ミリ歩兵砲などは分解して物料箱に入れて重爆から投下するが、爆弾倉に入らないものは無理だった。

▼降下場所に悩む

 

南方総軍は精鋭の空挺部隊に無理をさせたくなかったようだ。「ナシ得レバ敵ノ破壊ニ先立チ製油所ヲ占領スベシ」と控えめに命じている。しかし、挺進第2聯隊は大本営参謀から「目標は製油所」と聞かされていたので、製油所を押さえるためにも一部の兵力で降下攻撃を加えたいと思っていた。希望を出して第3飛行集団は、製油所にも1個中隊を降下させることとした。

 

主目標は敵飛行場である。降下場所の選定に苦労した。奇襲に徹するなら一気に飛行場の真上に降下すべきである。敵が驚いている間にすぐに占拠してしまう。飛行場攻撃部隊はわずか二百数十人である。それでも大空一杯に白い落下傘が覆いかぶさったら、大部隊に見えて狼狽するだろう。

しかし、これが強行できなかったのは武装の貧弱さである。小銃さえあれば随分と有利になるが、周囲が開かれた飛行場で、物料箱を探して開梱し、武器を取りだしていたらその間に敵は落ち着きを取り戻してしまう。機関銃で掃射されたらひとたまりもない。そこで飛行場からやや離れた地点に、飛行場を包囲する形で降下することになった。

 

▼作戦命令下る

 

聯隊本部と第1、第2、第4中隊は挺進飛行戦隊、第12飛行輸送中隊、飛行第98戦隊の飛行機に乗りスンゲイパタニーに移動した。これらの部隊が第1日目にパレンバンに降下する予定である。第12輸送中隊は1式輸送機、飛行第98戦隊は97式重爆撃機の部隊だった。第3中隊だけは翌日に降下する予定なので、スンゲイパタニーまで列車で移動した。

 

過去、訓練では高度500メートルで跳下(当時、降下とは航空機が高度を下げることをいい、飛行機から降下することを跳下といった)してきた。主傘に異状があったら、ただちに胸の予備傘を開いた。ところが今回は空中に浮遊する時間を短縮するために高度200メートルで跳び出すことになった。高度200なら20秒程度で着地するが、もし不開傘の場合、予備傘を操作しても7秒で地上に激突してしまう。この予備傘は敵の誤認を誘うために降下時に敢えて開いた。もちろん主傘とは切り離してだが、敵は傘の多さに驚いたらしい。

第1挺進団命令が下った。第38師団の上陸する1日前の1130(午前11時30分)を期して「パレンバン」飛行場と製油所附近に降下、占領確保する。飛行第81、同98の両飛行戦隊が協同挺進を行なう。飛行場急襲隊は主力で飛行場東南側地区に、一部は西側地区に降下して飛行場を降下占領し所要の兵力で同地を確保する。さらに主力は「パレンバン」を攻撃占領し、特に「ジャンビー街道」方面を警戒に注意すべし。降下後に装備を完了するまでは戦闘機が対地攻撃を行ない上空掩護にあたる。飛行場攻撃時には不時着機、強行着陸機との連絡を密にせよ。飛行場を占領したら戦闘隊、続いて大型機の使用ができるように修理の手を着けよ。

 

製油所急襲隊は製油所所要部を占領し敵の破壊企図を挫折させる。協同重爆戦隊は重要兵器資材を搭載し、対空火網によって挺進飛行戦隊の掩護にあたれ。挺進飛行戦隊は非武装の輸送機であったから敵の航空攻撃に対して弱い、重爆撃機の搭載機関銃による反撃を行なうようにということだ。

▼錯誤と混乱の実戦

 

カハン飛行場には挺進飛行戦隊、第12輸送飛行中隊と第64戦隊(有名な加藤隼戦闘隊)が集結、クルアン飛行場には重爆・物料投下の第98戦隊、軽爆の第90戦隊、戦闘第59戦隊、偵察の第15独立飛行隊、第81戦隊の司令部偵察機3機が集まった。
いよいよ2月14日、午前4時(日本内地時間)に起床した。内地と2時間の時差があるので4時はまだ真っ暗である。飛行場に出ると、各機のエンジンは始動され、機関銃の試射音も響き渡っていた。実は敵情はほとんど不明だった。兵力も陣地も分からない。あったのは偵察機によって撮影された地上写真のみである。

 

8時30分、歓呼の声に送られて飛行場を後にする。挺進距離は約700キロである。ムシ河の河口上空で製油所隊と飛行場隊は分かれた。そうして準備、用意のブザーが鳴り、扉が開いた。高度は200。のぞけば一面のジャングルである。右前方に飛行場が見える。11時25分、軽爆が飛行場への爆撃を行なっている。高射砲陣地に爆弾が吸い込まれていく。地上を見ると、草か灌木か、思っていたより背丈が高い気がする。それでも跳下は実行された。11時30分、聯隊副官が真っ先に扉を蹴った。

▼降下の部署

 

久米団長を含めて6人を乗せた強行着陸機は飛行場地域に降りる。飛行場東南側には18機の人員輸送機と物料投下機15機。聯隊本部、通信班、第4中隊と第2中隊第3小隊で人員は180名である。飛行場西側には人員6機、物料3機。第2中隊主力60名だった。製油所西側には人員6機、物料6機。第1中隊主力60名である。同じく南側には人員3機、物料3機で第1中隊第3小隊の39名だった。合計落下傘降下339名の他に団長以下の強行着陸の6名を合わせて345名である。

▼降下後の行動と錯誤

 

聯隊長が直接指揮する飛行場急襲隊は、東南側約3キロの地点に降りる。挟撃のために西側約1キロにも第2中隊主力を降ろした。物料を集め、武装を整えて、3人1組となって飛行場に向かう。途中で指揮官の掌握下に入るようにした。

 

製油所急襲隊は製油所内に降下できないので、南方700~800メートルの地点に降りる。製油所の北側にはムシ河が流れていて、両製油所の間には、その支流が入りこんでいた。したがって挟撃の態勢を取りにくい。この降下場も湿地のように見えたが、とにかく製油所への突入に時間がかかると敵に破壊活動の余裕を与えてしまう。降下即突入のためになるべく近いところを選んだわけだ。

聯隊長以下が降りてみると、そこは偵察機による空中写真では分からなかった密林だった。ひどく前進に手間取ってしまう。13時30分ごろに第4中隊長の率いる部隊と出会った。その時にはパレンバン市へ通じる道路上で戦闘を終えてきた奥本中尉(のちに昭和20年沖縄で散華された義烈空挺隊長)が到着した。

聯隊長は第4中隊と分かれ飛行場東南角に向かって前進した。通信班と予備隊の1個小隊を掌握していなかったためだ。途中、敵と遭遇、撃ちあいとなり死傷者が出る。高射砲の水平射撃も受けて、また死傷者が出た。夕方になってようやく通信班と出会うが、器材をほとんど入手しておらず、手に入れた通信機も壊れていた。21時ころにようやく飛行場事務所に到達し、第4中隊と第2中隊の一部を指揮下に入れた。

 

▼見通しがきかない地形

 

第4中隊96名は飛行場攻撃の主力だった。草地だと思っていた場所は実は高さ2メートルにも及ぶ灌木が一面に生えている状態だった。見通しも10~30メートルほどしかなかった。まず、物料箱を見つけなくてはならない。樹に引っかかっている物料傘を降ろそうとすると敵戦闘機から機銃掃射を受けた。

 

飛行場へ前進を始めると、高射砲の水平射撃の攻撃があった。左に迂回して飛行場へ向かおうとすると、出しておいた路上斥候が道路に出るとすぐに敵の射撃を受けた。敵は飛行場方向から続々とやってくる。およそ300名と見えた。乱戦が続くが、ついに飛行場事務所を占領した。ここまでで戦死者16名、戦傷者16名を出した。

第2中隊は飛行場西側に降下した。2個小隊、機関銃小隊、輸送機はロ式6機と物料3機で人員数は60名だった。空中写真で見た降下地点は一面の草原に見えた。ところが着地してみると、現地は葦のような草が生い茂っていた。高さは2メートルにもなり、周囲の何も見えなかった。見えるのはただ空ばかりで物料もどこに行ったかわからない。

 

予期しなかった地形に遭遇した苦労は他の部隊と同じだった。戦死者は7名があった。

 

▼製油所急襲隊

 

降下したのはやはり湿地帯だった。しかも敵のトーチカがあった。トーチカとは特火点ともいい頑健に構築された機関銃陣地である。製油所には作業員たちのための社宅があった。そこを通り過ぎないと重要個所にたどりつけない。ただ物料の回収はうまくゆき、重機関銃も戦闘に参加した。社宅街が続いて、市街地のようだった。住宅は続きまだ1キロもある。押さえなければならない会社の事務所はその端あたりにあった。

降ってわいた市街戦である。地理不案内の降下隊員にとっては、敵は神出鬼没に見える。1400(午後2時)過ぎに採油用の塔の上に日の丸がひるがえった。社宅の道路沿いに進むことは不利だ。中隊長は、塔を目指すことにする。夜を徹して射撃戦になった。夜が明けた。敵は退却していった。

 

▼英国側の記録

パレンバンには第1と第2の飛行場があった。第1飛行場にはオランダ軍大佐が指揮する英、蘭、豪の連合軍530名が守備にあたっていた。飛行場には高射砲13門、高射機関砲5門があり、製油所には大尉が指揮する550名、高射砲10門、高射機関砲5門があった。トーチカも20箇所を数えた。第2飛行場には予備兵力2個中隊があった。この飛行場は西南50キロのところにあったが、その所在は知られていなかった。降下部隊に機銃掃射を浴びせたのは、ここからやってきた戦闘機だった。

英軍の記録には、敗北の原因として混成部隊だったために左右の連繋が不足し、指揮が徹底しなかったこと、また「落下傘部隊がいつ退路遮断するか分からなかった」ということを挙げている。飛行場の降下人員は240名だったが、捕虜の言では3000にも見えたという。

まさに戦場は錯誤と失敗の連続である。次回は第1挺進団の再編とフィリピンへの出撃を紹介しよう。

 

 

荒木肇(あらきはじめ)
1951(昭和26)年、東京生まれ。横浜国立大学大学院教育学修士課程を修了。専攻は日本近代教育制度史、日露戦後から昭和戦前期までの学校教育と軍隊教育制度を追究している。陸上自衛隊との関わりが深く、陸自衛生科の協力を得て「脚気と軍隊」、武器科も同じく「日本軍はこんな兵器で戦った」を、警務科とともに「自衛隊警務隊逮捕術」を上梓した(いずれも並木書房)。陸軍将校と陸自退職幹部の親睦・研修団体「陸修偕行会」機関誌「偕行」にも軍事史に関する記事を連載している。(公益社団法人)自衛隊家族会の理事・副会長も務め、隊員と家族をつなぐ活動、隊員募集に関わる広報にも協力する。近著『自衛隊砲兵─火力戦闘の主役、野戦特科部隊』(並木書房)。