空挺団物語(26) 駆逐艦「竹」と「桑」の奮戦|オルモック湾夜戦で米駆逐艦クーパーを撃沈した帝国海軍
□熊本地震へのお見舞い
たいへんな被害が出たようです。家屋の倒壊や、停電や断水、火災、道路の損壊などの報道に心が傷みます。自衛隊も出動し、活動もされていますが、どうぞ皆様、ご無事でおられて下さい。友人も多い地域です。心配しております。
▼多号第7次輸送
11月28日から29日にかけての夜に、米魚雷艇4隻が湾内に進入した。多号第6次輸送の貨物船2隻の護衛を終わって、イピル海岸に停泊中だったわが駆潜艇53号、哨戒艇105号が奇襲攻撃を受けて撃沈された。
29日から30日にかけては4隻の駆逐艦がやってきた。オルモック湾には船影が見えなかったので4隻は西方に針路を変えてサン・イシドロ半島に沿って北上する。天候が悪化したので4隻はそのまま北上した。
幸運だったのは第7次多号輸送の第1梯団だった。陸軍の小型輸送艦SS艇が3隻と護衛の海軍駆潜艇30号の小船団だったが、30日未明にイピルに到着、夜明けまでに物資・人員の揚陸を終わっていた。
小型輸送艦SS艇とは、陸軍船舶工兵が運用した戦車揚陸艇のことをいう。基準排水量は850トン、全長53メートル、速力は14.5ノット、観音開きの船首からは道板を出して直接に海岸にのし上げることができた。
▼不運の第2梯団
2日到着予定の第2梯団は、0200に米魚雷艇と交戦し、小型貨物船と判断した米魚雷艇は戸惑った。意外に強力な各種火力をもっている。残る資料には20ミリ機関砲、75ミリ舟艇砲、150ミリ迫撃砲などとある。魚雷艇はただちに駆逐艦に救援を要請、4隻は「小型貨物船」を砲撃し、7分ほどで沈めてしまった。この後、駆逐艦群はパロンポンとオルモック湾北岸の日本軍施設を砲撃して帰途に就いた。
▼第3梯団
海軍1等輸送艦9号、同140号、同159号の3隻と護衛の駆逐艦「竹」と「桑」によって1日夜にマニラを出港した。海軍1等輸送艦はガダルカナルの敗退から発想されたらしい(諸説ある)。1944(昭和19)年5月に第1号艦が竣工した。輸送艦という艦艇種別ができたのは19年2月だったから、「特務艦特型」、略して「特特」といわれていた。260トンの各種物資、4隻までの上陸用舟艇、あるいは水陸両用戦車を載せ、艦尾にはスロープがあり、デリックを使わずに物資を搭載したままの舟艇を発進できた。基準排水量は1500トン、全長89メートル、最大幅10.20メートル、オールギヤード蒸気タービン1軸で9500馬力を発揮し、22ノットを出した。兵装も12.7センチ高角砲、25ミリ3連装機銃、同連装機銃を3基ずつ、25ミリ単装機銃を4基、爆雷も18個を備えていた(『帝国陸海軍補助艦艇』学習研究社、2002年)。
2日の昼間はマスバテ島に隠れていて、同夜にオルモックに到着の予定だった。ところが、船団は既に米哨戒機に発見されていて、米駆逐隊の3隻は迎撃のために1829にはレイテ湾から出撃をする。
▼駆逐艦「竹」、「桑」
2308、米駆逐隊は日本海軍夜間戦闘機「月光」の攻撃を受けた。60キロの小型爆弾は駆逐艦「サムナー」への至近弾となり、被害を与えた。魚雷艇攻撃を目的としていたため、小型の爆弾だったのが幸いした。また、別の1機は駆逐艦「モール」に機銃掃射を行ない、戦死2、負傷22の損害を受ける。この日、どういう手違いか、米軍の戦闘機も哨戒機も上空を掩護していなかった。
報告を受けた日本駆逐艦「竹」と「桑」は現場に急行する。3隻の輸送艦は揚陸作業中だった。
「竹」も「桑」も正規の駆逐艦である。いわゆる船団護衛を任務とする海防艦とは異なっていた。艦名には樹木名をつけたので「雑木林(ぞうきばやし)」などとからかわれた。確かにその性格は「陽炎(かげろう)」とか「村雨(むらさめ)」などという高速、重武装の艦隊型駆逐艦とは異なっている。というのも艦隊決戦に軽巡洋艦に率いられた水雷戦隊の中で活躍するはずの大型駆逐艦の損耗が多く、それを補うために急いで建造された量産型の駆逐艦だったからだ。
ただし、あくまでも駆逐艦らしく備砲は5インチ(127ミリ)3門であり、61センチ魚雷発射管4連装(ただし次発装填機はない)1基を備えていた。他に25ミリ機銃を20門、対潜水艦用として爆雷投下軌条2をもつ。基準排水量は1262トン、全長100メートル、出力1万9000馬力の主機で速力も27ノットを出せた。
▼互いに敵発見
この夜のオルモック湾はよく晴れていて、凪ぎだったという。月齢は16。6ノットの北風が吹いていた。月齢は16だから満月に近かったが、雲が出て、月光をさえぎり海面は暗くなっている。米艦隊は水上レーダーで1万1000メートルで日本艦体を捉えた。ほぼ同時に、「竹」と「桑」の22号水上見張りレーダーも相手を発見していた。発見後9分で米艦隊は砲門を開いた。ほぼ真夜中12時頃である。
大岡の『レイテ戦記』には両者の戦力比較が載っている。日本艦隊は2隻、米艦隊は3隻である。主砲の127ミリ砲は日本6、米18、それぞれの発射速度は10発/分と14発/分と砲数、発射速度ともに米軍が勝っている。米軍には40ミリ機関砲30門、20ミリ機銃が24門あるが日本軍にはゼロ。ただし、日本側には25ミリ機銃が58門で米軍は無し。魚雷発射管は日本61センチが8本、米側は533ミリが30本である。
米軍は3隻が単横陣(3隻が横に並び)をとって、艦首を日本軍に向けてきた。前部主砲が各艦4門あるので、合計12門の砲力で圧倒しようというわけだ。
▼魚雷命中
米駆逐艦「クーパー」が1万1000メートルから射撃を始めた。「桑」が「サムナー」と「クーパー」と撃ち合い、「竹」は「モール」を目標とした。米はレーダー射撃、わが方は8センチ双眼鏡で敵を観ながら撃った。
8分後には「桑」は炎に包まれた。米艦2隻が「竹」に目標を変えようとした時、「竹」は「モール」と撃ち合いを続けながら、その横腹を「サムナー」に向けていた。4本の61センチ酸素魚雷は海中に躍り込んだ。およそ6000メートルなら到達時間は5分である。
「サムナー」は右舷に雷跡を発見、ただちに転舵して回避したが、たまたま日本海軍の「瑞雲」が来襲していた。「クーパー」はそれに気を取られているうちに、魚雷は艦の中心部に命中した。機関室付近から真っ二つに折れて沈没する。その間36秒だったという。乗員191名が戦死、残りは海面に投げ出された。
ここにも様々な混乱があった。前回の陸軍輸送潜水艇の情報があり、「付近には潜水艦がいる」という思い込み、また陸軍輸送隊の大型発動機艇(ダイハツ)4隻を日本軍魚雷艇と誤認した失態もあった。魚雷が駆逐艦からのものと思わなかったのである。航空機からの掩護の有無も、ふだんの日米の戦闘とは逆になっていた。「桑」の死者数は不明である。「竹」は1発の被弾があったが不発で船体を貫通した。死傷者なしだった。
(つづく)
荒木肇(あらきはじめ)
1951(昭和26)年、東京生まれ。横浜国立大学大学院教育学修士課程を修了。専攻は日本近代教育制度史、日露戦後から昭和戦前期までの学校教育と軍隊教育制度を追究している。陸上自衛隊との関わりが深く、陸自衛生科の協力を得て「脚気と軍隊」、武器科も同じく「日本軍はこんな兵器で戦った」を、警務科とともに「自衛隊警務隊逮捕術」を上梓した(いずれも並木書房)。陸軍将校と陸自退職幹部の親睦・研修団体「陸修偕行会」機関誌「偕行」にも軍事史に関する記事を連載している。(公益社団法人)自衛隊家族会の理事・副会長も務め、隊員と家族をつなぐ活動、隊員募集に関わる広報にも協力する。近著『自衛隊砲兵─火力戦闘の主役、野戦特科部隊』。近刊として『第一空挺団(仮題)』((並木書房)。


