空挺団物語(30)建武集団の戦い
□今度は北陸に大雨
大変な水害です。やはり温暖化の影響でしょうか。田んぼが流されている様子も見えました。収穫の前に何という出来事でしょうか。被害に遭われた方々に心よりお見舞いを申し上げます。
▼クラーク拠点の戦闘
第一線部隊は北から高山部隊(戦車第2師団の部隊)、高屋部隊(挺進集団)、江口部隊(飛行場大隊の集成)を配置した。西側の山脚には第二線陣地を築き、さらにその西側には山中に複廓陣地を構築し、海軍部隊を入れた。陣地占領の時間的猶予もなく、満足な築城材料や土工器具も十分になかった。陣地は粗末だったし、弾薬・糧食も2、3か月分しかない。
持久でよければ全部隊を山中に入れればよかったが、命令は「なるべく長くクラーク飛行場群を占領し、敵に使わせるな」というものだった。平地に布陣するのもやむを得なかった。
1月25日には、リンガエン湾から南下した敵はやってきた。多数の戦車がやってくる。米軍戦車はM4であり、戦闘は歩兵の掩護、日本軍火点を潰すだけである。戦車第2師団の部隊は当初、果敢に戦車や対戦車砲で迎撃したが、圧倒的な敵火力に沈黙させられた。挺進集団の対戦車砲などの重火器は空母「雲龍」とともに海没していたので、各隊は急造爆雷で肉薄攻撃を行なった。
1月29日と30日には夜にまぎれて第二線陣地に後退することができた。
▼弾薬糧食を後送できず
第2線陣地には下がれたけれど、問題は多くの糧食・弾薬を旧陣地に置いてきてしまったことだった。使用量をあらかじめ予想しておいて、事前の各陣地に集積しておくか、あるいは後方陣地に多くを集めておき、必要量を前線に送るのが当然である。
それを飛行場地区から後退して急いで配備についたので、大量の弾薬・糧食が飛行場近くの第一線陣地に残されてしまっていた。そのため当初は2、3か月の糧食があったのに、急速に食糧不足になり、体力が衰えてきた。とりわけ生鮮食品の不足がこたえた。
このことは、クラーク地区だけのことではなく、ルソン島全般についても同じで、マニラ地区に集積された膨大な物資も、それぞれの拠点に搬入する時間もないうちに戦闘が開始された。これが悲惨な結果を生んだ原因の一つだろう。
第2線陣地は灌木が生えている地形だったが、米軍の焼夷攻撃によってほとんど木はなくなった。2月10日頃までは抵抗を続けたが、戦車第2師団の一部が瓦解、次いで飛行場大隊の将兵の集成部隊も後退した。滑空歩兵隊を中心にした高屋部隊だけでは、どうにも支えきれなくなった。滑空歩兵第2聯隊の精鋭も主陣地を維持できなくなり、左右両翼を包囲されて、糧食も水さえもなくなる。ついに後方の複廓陣地に退がった。
複廓陣地は海軍部隊の陣地構築ができていたが、ここにも後方からの物資の追送はなく、飢えと渇きは解決できなかった。
後方へ迂回し攻撃をかけようとする敵に対抗して、背後の高地を占領しようと行動したが、体力が衰えていた将兵にとっては、通常なら2~3時間で踏破できる距離を一昼夜を必要とする状態だった。中隊長、小隊長などの指揮官は多くが倒れていた。それでも聯隊長を中心に最後まで健闘したのは、西筑波での厳しい演習で鍛えられていたからだろう。
▼挺進集団の終末
3月15日、複廓陣地をとうとう放棄することになった。戦闘に耐えうる人員は3分の1にも満たなかった。火器といえば、軽機関銃と擲弾筒、小銃のみで、それらもまた残弾が残りわずかになっている。糧食は1日200グラムとしても、残りは3週間ほどしかなかった。
他方面の状況は、まるで不明だった。挺進通信隊の必死の努力にもかかわらず、電池はすっかりなくなっていた。第4航空軍司令部は台湾に移り、建武集団は方面軍直轄であることは承知しているが、戦闘が始まってから何の指導もなかった。北方の情勢もいっさいわからない。
4月下旬になると、集団としての組織的戦闘はできなくなった。集団長は各部隊長を集め、集団の解散を告げることとなった。
各部隊は、それぞれの区域に分散し自活態勢に入った。自活というと聞こえはよいが、要は生き残るための努力をする、無駄な戦闘はしないという態勢である。飢餓による栄養失調死や病死が出た。医薬品も衛生材料もなく、将兵はマラリヤ、赤痢、脚気などによって次々と亡くなってしまった。
▼滑空歩兵第2聯隊について
ここで戦った滑空歩兵第2聯隊と滑空機関砲隊は、挺進第5聯隊の歩兵大隊、重火器大隊の中の機関砲中隊として1943(昭和18)年の秋に西筑波で創設された部隊だった。本来は滑空機(グライダー)に搭乗して、落下傘部隊と共に敵中に挺進することを予定して訓練に励んでいた。
1944年の春には唐瀬原で特命検閲があった。落下傘部隊が確保した地域に、後続の滑空部隊が着陸して、戦闘に加入するという演習だった。同じ頃、ビルマでは英国のウィンゲート空挺部隊が、わが第15軍の背後にグライダーで続々と兵力を送り込んでいた。これに対して、日本陸軍はこの頃から、敵の制空権下に少数の挺進部隊を特別攻撃隊のような形式で使うことしかできなくなっていた。
▼軍医たちの報告
貴重な証言を紹介しておく。以下、『大東亜戦争陸軍衛生史』(陸上自衛隊衛生学校、1968年)に載るフィリッピンでの体験報告である。
第14方面軍軍医部部員は「総兵力は35万と称せられたが復員できたのは12万と聞く。熱帯マラリアの惨害は大きく、船舶輸送のおかげでマニラに上陸したA型パラチフスは猖獗(しょうけつ)を極め、雨季を迎えて防圧の手段が無かった」という。
また、第22飛行団司令部付軍医は、「20年1月までの死者は腸チフスによる1名だけだったが、マニラから北部ルソンに移動開始以後、急激に傷病者が増え、部隊員100名中、生還した者は15名だった。死因は斬り込みによる戦死、マラリア、赤痢、栄養失調が大部分だった」と書き残している。
ビタミンBや同Cなどの結晶純末などが空輸されて成功したときの喜びは代えがたかったとも書かれ、なお食塩の不足にも悩まされていた。
(つづく)
荒木肇(あらきはじめ)
1951(昭和26)年、東京生まれ。横浜国立大学大学院教育学修士課程を修了。専攻は日本近代教育制度史、日露戦後から昭和戦前期までの学校教育と軍隊教育制度を追究している。陸上自衛隊との関わりが深く、陸自衛生科の協力を得て「脚気と軍隊」、武器科も同じく「日本軍はこんな兵器で戦った」を、警務科とともに「自衛隊警務隊逮捕術」を上梓した(いずれも並木書房)。陸軍将校と陸自退職幹部の親睦・研修団体「陸修偕行会」機関誌「偕行」にも軍事史に関する記事を連載している。(公益社団法人)自衛隊家族会の理事・副会長も務め、隊員と家族をつなぐ活動、隊員募集に関わる広報にも協力する。近著『自衛隊砲兵─火力戦闘の主役、野戦特科部隊』。近刊として『第一空挺団(仮題)』((並木書房)。


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