空挺団物語(33)義烈空挺隊の最期

□台風25号シルバーウィークを直撃

皆様 大きな台風がまたまた関東にやってきます。先日は9月中頃までの日照時間が20時間もなかったことが話題になりました。今度はまたまた千葉県や茨城県、北関東に大きな影響がありそうな台風の来襲です。前回の大雨での被害が大きかった地域の皆さんに心よりお見舞いを申し上げますとともに、今度の台風の被害が少しでも小さくなりますようお祈りしております。

 

▼義烈空挺隊の進路

進撃する義烈空挺隊との連絡は、奥山隊長搭乗機にある無線に頼るしかない。航路は奄美大島の西側を通る。沖縄本島に接近するために東に変針する。そのときと、本島の到着時、目標到着時の3回と決められていた。企図の秘匿のためである。以下は田中賢一氏の『陸軍落下傘部隊戦史』からの引用である。

2150の変針予定時刻が過ぎても連絡はなかった。2200、目標へ突入の予定時刻になっても何もない。ところが、2211(5月24日午後10時11分)奥山隊から只今到着の連絡が入った。傍受する敵無線からは平文で、「北飛行場に異常あり」「在空機は着陸するな」「島外の飛行場へ向かえ」という電文が入る。

米軍の公刊戦史には、24日に海岸や沖合の艦船への日本機の来襲は頻繁になったとある。その夜、空は澄みわたって、満月が輝いていた。2000には空襲警報が発令され、解除になったのは2400だった。その間、日本機の来襲は7回にもなった。

第1回の来襲は数機で読谷、嘉手納の両飛行場を爆撃し、第3、第4と第5回目の来襲も飛行場に対する投弾を成功させた。第7回目の来襲は「挺進隊」と呼ばれた双発爆撃機5機で、2230頃に伊江島方向から低空で進入してきた。高射中隊は邀撃して、うち4機は炎上しながら読谷飛行場付近に墜落した。

最後の1機だけは胴体着陸に成功し、読谷飛行場の滑走路を北東から南西に滑走する。停止すると、少なくとも8名の武装した兵士が躍り出して、滑走路に沿って配置してある航空機に向かって手榴弾や焼夷弾を投げつけた。このためコルセア戦闘機2機、C54輸送機4機、プライベティア哨戒機1機が破壊された。

その他26機、B24リベレーター爆撃機1機、コルセア戦闘機22機、他3機が何らかの被害を受けた。人員の被害は戦死2、負傷18にもなった。2338には読谷飛行場に米軍の増援部隊が到着し、さらに来襲が予想される空挺隊に対応する配置についた。

▼米軍の調査によると

日本兵10名が読谷で戦死し、他の3名は機内で対空火器のために戦死していた。その他の4機の重爆には、それぞれ14名の武装兵が搭乗していたが、すべて地上で炎上した機内で死体となって見つかった。遺体の総数は69体を数えたが、翌日、残波岬で1名の日本兵が交戦して射殺された。おそらくこれが空挺隊の最後の隊員であっただろう。

読谷飛行場は滑走路上に散乱した破壊物の破片のために、25日の午前8時まで使えなくなった。この読谷飛行場に対する攻撃と同時に、日本軍機23機が伊江島飛行場に来襲した。飛行場には大きな損害は与えなかったが、米軍は60名の死者を出した。この夜は空中戦闘で日本軍機11機を沖縄本島上で、同じく16機を伊江島上空で撃墜する。米で敢行された『オキナワ』という本の引用がある。滑走路に胴体着陸を行った97式重爆からは、まだ停止しないうちに空挺隊員が飛び出して、手榴弾や爆薬を周囲に駐まる航空機に投げつけた。同時に、手にした小火器で周囲を掃射した。米軍は混乱し、真実が分からなくなってしまった。

▼不時着機があった

出撃した爆撃機は12機、しかし、うち4機は故障や目標への飛行ができずに九州の飛行場以外の場所に不時着をしている。こうしたことは戦時中では多くあった。飛行中の機材の不具合、不調、故障などは、当時の実情から容易に納得できる。夜間洋上飛行も、当時の航空機にとっては、なかなか難度の高いことだった。

田中氏は4機のうちの山田中尉の搭乗した機体について紹介している。搭乗が完了し、いよいよ出撃となったが、片方のエンジンが始動しない。第3独立飛行隊には編制上、整備員が少なかったので、地上の飛行第60戦隊の整備員の支援を受けている。それが一向にトラブルは解決しない。とうとう、予備機に乗り換えて出撃することになった。これで1時間遅れである。

大隅半島上空で誘導機と会合する予定だったが、機影が見当たらない。では、単独で飛ぼうと機長が決断し、針路を計算し飛行を続けた。3時間が経ち、そろそろ変針点ではないかと予想した時、突然、地上から激しい対空砲火を浴びた。艦船からのようで、泊地の上空だったかと思ったら、風防ガラスに大穴が空いた。同時に左エンジンから火が出た。この火はすぐに消えたが、エンジンの出力が上がらない。左旋回ができなくなった。右旋回を重ねてなんとか沖縄本島に向かおうとするが、航空図がない。先ほどの操縦席風防の被弾で空いた孔から吸いだされたものか。

▼帰還して再起を図ろう

操縦者は現在位置も不明だという。隊員はどこでもいいから地上に降りようという声も出たが、田中小隊長はうなずかなかった。「逆方位で飛べば九州まで行けるだろうか」と操縦者に声をかけた。操縦者は重量を減らせば帰れるだろうと答えた。死に急ぐことはない、またのご奉公を考えよう。田中中尉は帰投を決心した。機はかろうじて陸地にたどり着いた。場所は川原である。対岸で眺める人に聞くと、大牟田の北の矢部川だった。村上中尉が搭乗した機は熊本県八代付近に不時着し炎上した。操縦者だけが脱出できなかった。

生存者は帰るべき部隊を失った。第1挺進団の各部隊に転属を命じられる。そうして奥山隊長に続く再起の機会を待ち続けた。次回はその他の部隊の行動を紹介しよう。

(つづく)

 

荒木肇(あらきはじめ)
1951(昭和26)年、東京生まれ。横浜国立大学大学院教育学修士課程を修了。専攻は日本近代教育制度史、日露戦後から昭和戦前期までの学校教育と軍隊教育制度を追究している。陸上自衛隊との関わりが深く、陸自衛生科の協力を得て「脚気と軍隊」、武器科も同じく「日本軍はこんな兵器で戦った」を、警務科とともに「自衛隊警務隊逮捕術」を上梓した(いずれも並木書房)。陸軍将校と陸自退職幹部の親睦・研修団体「陸修偕行会」機関誌「偕行」にも軍事史に関する記事を連載している。(公益社団法人)自衛隊家族会の理事・副会長も務め、隊員と家族をつなぐ活動、隊員募集に関わる広報にも協力する。近著『自衛隊砲兵─火力戦闘の主役、野戦特科部隊』。近刊として『第一空挺団(仮題)』((並木書房)。