脚気の惨害(補遺)─脚気の惨害(6)

脚気は撲滅できたか?

 海軍は日露戦争では脚気罹患者がわずか87名という数字を公表している。これに対して陸軍は海・陸の活動環境の違いなどをあげて患者数の多少を説明しようとした。ところが、旅順要塞戦に海軍部隊は参加していた。陸戦重砲隊を揚陸し、陸軍の攻撃を支援していたのだった。そのときの逸話である。
 戦後の論争の中で、乃木第3軍司令部に大本営連絡将校として派遣された上泉海軍中佐の目撃談が暴露された。このときの海軍陸戦重砲隊の指揮官は、のちの海軍大将黒井悌次郎中佐だった。艦砲の12斤砲、12糎、15糎砲合計16門をもち、隊員750名の勢力である。この中には砲隊長として永野修身海軍中尉(のち元帥)もいた。
 給与は当然、第3軍兵站から受けた。ところがその支給された食糧を見て、重砲隊の軍医長は驚いた。あまりに貧しい副食、それに発酵したような白米が大量に渡されたのだ。現地を視察した大本営付きの連絡将校だった上泉中佐は次のような裏話をしている。

『多くの陸軍兵士が脚気の惨状にあるのに、一方米俵は雨ざらしとなりその発酵した米で米飯を炊き、おまけに副食物の粗悪なこと言語に絶するほどなのを見て、素人ながらも脚気の原因ここにありと推断し、帰朝後ときの山縣参謀総長に直面して、忌憚なく復命したので、それは大変だと急に陸軍経理局長を派出させて実際をたしかめ、医務局長の意見に関係なしに、どしどし麦を輸送して、38年3、4月ころからはじめて麦飯を支給することとなったのである』

 重砲隊の軍医長が聯合艦隊軍医長に直訴し、東郷司令長官もそれを受け入れ、隊員たちは艦隊から海軍兵員食を支給された。おかげで重砲隊からは脚気患者は出なかったという。
 この話を公表したのは、当時の医学界の大手業界誌『医事新報』に載った一人の仮名の海軍軍医である(1907・明治40年)。山下博士によれば、この記事の筆者は当時の横須賀海軍病院副院長の斎藤軍医大監(大佐相当)である。斎藤は開戦前に海軍省医務局第2課長、開戦と同時に大本営附になり戦地衛生行政の担当者だった。だからこの裏話も信じられるようだが、陸軍はすでに開戦の年の11月には寺内陸相が記者会見し、対策として3月から麦飯支給を行なっている。すでに大本営陸軍部では現地の実情を知っていて、改善の手は打っていたのである。山縣参謀総長が海軍中佐の直訴だけで動くとはとても考えられない。当事者だけが知るというこうした施政上の裏話を公開するのは、多くがためにするためのことが多い。この斎藤大監も陸軍への攻撃に熱が入りすぎたというところだろう。

粉飾の疑いをもたれた海軍の報告

 実は脚気は海軍でも増えていた。高木は若くして後進に道を譲り、1892(明治25)年に予備役に編入、海軍を去った。まだ44歳だった。高木の海軍軍医としての活躍は何より脚気の撲滅にあった。同85(明治18)年に37歳で軍医総監(少将相当)にのぼり、7年間の医務局長の激務を終えた。その後を継いだのは同じく薩摩出身の実吉安純、次もまた薩摩人の木村荘介だった。この木村が海軍医務局長在任時(明治38~大正4年)には海軍の脚気患者数はいくらか増えている。それでも70名から40名前後の少数がふつうだった。
 ところが、1915(大正4)年に東京帝大医科大学卒業の本多忠夫が医務局長になると、とたんに脚気の患者数が増えていった。まず、同14(大正3)年に100名余りだった患者数が翌年(大正4)には218名と倍増した。同19年になると300名を超え、同21年になると365名、1928(昭和3)年になると1100名という増大だった。この後も毎年の増減はありながら、1937(昭和12)年には2000名という過去最大の発病者を出した。
 山下博士は次のように指摘している。まず、海軍の統計を見て驚かされるのは、脚気の入院率の異常な高さだという。脚気患者の入院率は5割から7割である。脚気と診断されてからも陸軍では在隊治療も多いのだが、海軍は半数以上が入院する。通常は数パーセントという入院率が海軍ではそんな異常に高い数値がある。これこそ、重症患者だけを脚気とし、軽症患者は脚気ではないとしているのではないか。海軍にはすでに日露戦争中から、脚気を「末梢神経疾患」「神経痛」「神経疾患等」と診断しているという噂があった。これを見直せと本多軍医総監は指導したのではないか。もともと、本多は若いころから森林太郎の研究姿勢には共感をもっていたらしい。森が構想、設置に推進した臨時脚気病調査委員会の設立運動にも熱いエールを送っていた人物である。
「わが海軍には脚気はない」と思いこめば、初期症状を神経系の病気と誤診しても当時は仕方がない面もあった。そのように山下博士は推論する。

なぜ、海軍で脚気は「再発」したか

 高木が撲滅したはずの海軍の脚気はなぜ再発したか。そのカギは兵食の改悪にあった。海軍で初めて兵食が規定されたのは1886(明治19)年のことである。高木の積年の努力が実った結果である。その1日の食糧は、米120匁(450グラム、以下グラムで表記する)、麦300、パン187.5、肉225、魚187.5、野菜525、鶏卵60、漬物225だった。4割の麦飯と贅沢な副食であり、ビタミンB1の量は軽く2ミリグラムを超えている。現代の目から見ても十分すぎる健康食である。
 ところが高木が退職後の2回の改正、とりわけ1900(明治33)年の改正兵食から問題が生じてしまう。艦船が洋上にいる航海食の場合、白米375、麦131、貯蔵獣肉150、貯蔵魚肉150、乾物野菜75グラムとなった。主食はわずかに2割6分の麦混入率になる。金給された賄い費用の1割で兵員は自由に白米を買っていたという。しかも麦の味の不評に対抗して麦の精白技術も向上した。胚芽が落ちてしまう、麦の脚気予防力も落ちてきているのである。
 それに加えて、缶詰肉や缶詰魚肉、乾燥野菜だけを摂っていた航海中には副食からのビタミン補給は望めなかった。また、日露戦後の海軍の行動範囲はますます拡大した。貯蔵食品、缶詰に頼らざるを得なかった。その時に問題になるのは、高木が唱えた「タンパク質が少なく、炭水化物が多い」という脚気原因論である。そのため西洋食への切り替え、続いて主食を麦飯にした。その結果、脚気は激減したが、それはタンパク質の増加が原因ではなく、たまたま副食の豊かさがビタミンB1の摂取増量につながった結果だった。
 海軍軍医界は脚気患者数の減少に狂喜した。高木の「窒素と炭素の比例が失われているからだ」との誤った(とはいえ、ビタミンなど誰も知らなかった)理論を信じてしまう。そのため、タンパク質の量だけを問題にし、缶詰食で十分だとした。缶詰や乾燥野菜にはビタミンは破壊され、ほとんど残っていなかった。
 そして脚気はないと思いこんでしまえば、初期の症状を他の病名を診断してしまう。また、当時のというより戦前社会の兵士たちは白米食が大好きだった。元海軍主計中佐で、戦後には陸上自衛官になり需品学校長になった瀬間喬氏の『素顔の帝国海軍』によれば、兵員が白米食を喜ぶ有様が次のように描かれている。

『本日は銀飯だと聞くと、兵員一同万歳を三唱し、君が代を斉唱するほどだった』

 そして、米麦食のうち米の消費ばかりが多くなり、麦が余ってしまう。それを監査の前には夜のうちに主計兵が海にこっそり流してしまうほどだったらしい。
 全身がけだるい、食欲がない、脚が重い、しびれる、胸に圧迫を感じる、動悸がする、息切れがひどいなどの症状を訴えると、軍医はまず「神経衰弱」とし、「脚のこむらがえり」「下肢の筋痛」「神経麻痺前の異常知覚」「刺激感」「ピリピリ感」などの脚気初期症状を「神経痛」と診断を下していたのである。
 本多は軽症脚気患者が実際は多いことに気づき、軍医たちに注意させるようにした。脚気はあると思えば、症状に目が向いてくる。こうしたことから海軍にも脚気が「増えて」きたことになった。

森の何がいけなかったのか?

 ある時期から、森林太郎(森鴎外)が脚気の戦犯だと言われるようになった。とくに日清・日露の戦役での脚気惨害の責任をすべて森が負わねばならないかのような主張もあった。しかし、それは軍隊、軍事衛生、軍医官についての無知がいわせたものだ。戦時には最高統帥機関として大本営が置かれる。陸軍の衛生管理については野戦衛生長官部がすべて指揮した。日清戦争では石黒であり、日露戦争では小池という2人の軍医総監がその最高責任者だった。
 そのいずれの戦時にも森は最高責任者ではなかった。日清戦争では兵站軍医部長、軍司令官の部下であり、陸軍の給食を左右する権限などこれっぽっちもなかった。台湾でも総督府陸軍部軍医部長だったに過ぎない。日露戦争でも軍司令官の幕僚である軍軍医部長でしかなく、その行動はすべて野戦衛生長官の区処を受けた。麦をどうこうしようとしても、輸送・配当に関しては野戦運輸長官の職分だった。調達・購入や貯蔵・保管については野戦経理長官の職掌であり、たかだか少将相当官の一軍医が口出しできるものではなかった。それが軍の統帥というものであり、いかに文豪であろうと、医学博士であろうと、森はただの軍医官でしかなかったのだ。
 森が白米食に固執したという人がいる。前にも述べたように、たかだか海外から帰ってきたばかりの若い軍医が主張しようが、それは戦時の就職には何がいいかという決定には何の関係もなかった。戦時兵食が白米であることは、大本営の決定と勅令で決まったことなのだ。森は白米食を主張などしていない。上司に命じられるまま、兵食試験を行ない、米飯が最も優秀、麦飯がそれに次ぎ、洋食が不良だと、当時の先進栄養学の結果を報告しただけである。カロリーとタンパクの補給の観点、体内での活性度を測定し、正しい結果を出しただけだった。ビタミンの存在を知った今から見て、もっともビタミンがない白米を優秀だと報告したというのが間違いだというのは、まさに「後ろ向きの予言」にしか過ぎない。
 ただ、山下博士の指摘によれば、森の悪評には理由があるという。まず、海軍の兵食改革に悪口を言いすぎたことだ。1888(明治21)にドイツから帰国した森はドイツの最新の栄養学の成果をもとに、「日本食擁護」を唱えた。日本食はタンパク質が不足しているといった高木の説を真っ向から否定してしまった。26歳の軍医中尉が海軍軍医少将に喧嘩を挑み、あろうことか「ロウスビーフ(ローストビーフ)ニ飽クコトヲ知ラザル英吉利流ノ偏屈学者」と高木を名指したのである。
 次に、ドイツ医学が採っていた脚気伝染病説を信じていたことだった。また論理がことのほか好きだったのだ。医学、とりわけ軍医が奉じなくてはならない軍陣医学は実学である。「脚気に麦飯が効く」と言われたら、「ほんとうに効くか」という真偽をたずねる態度に出なくてはならない。それを、森はまず、「どうして効くのか」という学理的な根拠を要求してしまう。事実より論理を優先するのは医学的にはおかしい。海軍兵食改革への非難も、まず脚気が激減している事実を認め、そこから何が効いているのかを考えるのがふつうだろう。それなのに伝染病説を妄信して、タンパク質の不足論を論理的に非であるとした。麦飯が効果ありとする先輩軍医たちにも食物原因論は間違っていると主張した。麦は消化吸収が悪い、栄養的には白米が上だ、漢方医学は古臭いと言ってしまった。
 第三に医学界の大ボス、石黒に引き立てられていたことがあった。森の大学の卒業成績は優秀だったが、決して序列的には高くなかった。それを抜擢してドイツ留学に真っ先に送りだしたのは石黒だった。有名な「舞姫」事件では奔走して無難に収めた。最初の結婚である赤松海軍中将の娘との縁組も奔走した。これを恩義に感じないわけがない。台湾で麦飯の支給を許可しなかったのも、石黒野戦衛生長官の命令を忠実に守っただけである。
 たしかに以上のように森にも多くの失敗があった。しかし、以後の森は軍医界最高のポストに就いてからは、懸命に脚気の原因究明に努めるのである。

やはり偉大だった高木兼寛

 高木は脚気の原因に食物があることに注目したことで世界的な評価はいまも高い。「ビタミン」という術語を創り出したフンクは、その著書『ビタミン』(1914年)の中で、先覚者のトップとして日本海軍軍医中将の高木を1ページにわたって紹介している。アメリカでも有名な栄養化学者マッカラムは、1929年の著書の中で「高木によるヒトの脚気の研究」として先駆的業績として評価した論文を載せている。近く(1982年)には英国の医学書の中でも、ビタミンB1発見史の中で高木の仕事を「脚気の征服の始まり」として、ビタミンB1の発見で1929年にノーベル医学賞を受けたエイクマンより先に紹介されていた。ビタミン発見史の中でその名声は日本海軍とともに不朽である。
 一方で森林太郎は地道な研究をリードし、「脚気の原因はビタミンB」の欠乏によることを確定する大業績を挙げた。文豪として高く評価される森はやはり誠実な軍医官だったことは間違いない。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2016年(平成28年)4月20日配信)