日露戦争の脚気惨害(1)─脚気の惨害(4)

日清戦後の角逐(かくちく)

 台湾領収のための平定軍に脚気が大発生したことはすでに書いた。この時の総督府陸軍局軍医部長が森林太郎だった。1895(明治28)年9月、陸軍は森を更迭して第1軍軍医部長だった石阪惟寛(いしざか・いかん)軍医総監を送り込んだ。
 石阪は軍医界の序列でいえば石黒に次ぐナンバー・ツーだった。石阪は臨床経験が森よりはるかに豊富で、西南戦争でも活躍し、麦飯給与が脚気対策に有効であること、海軍の脚気減少が食事の改善であることも十分に理解していた。石阪は石黒の米飯至上主義には内心反対していたために、澎湖島要塞砲兵隊や一部の後備歩兵大隊に麦飯給与を黙認したことが記録に残っている。しかし、これは石黒に知られることとなり、石阪はわずか4カ月足らずで更迭されてしまう。
 石阪は1840(天保11)年、岡山に生まれた。大阪で西洋医学を学び、1870(明治3)年に岡山藩に雇われる。2年後に陸軍2等軍医副(少尉相当)に任官。広島鎮台に勤務、佐賀の乱(1874)、萩の乱(1876)、西南戦争(1877)に従軍、明治12(1879)年には陸軍本病院(東京)課長を務める。その間に順調に昇進、1880(明治13)年には1等軍医正(中佐相当)になり、その治療術の高さは有名だった。1887(明治20)年には軍医監(大佐相当)に進み、軍医界の中枢にいた。日清戦争には第1軍軍医部長、森林太郎の後に台湾総督府陸軍局軍医部長、土岐頼徳がその後任となり、石阪は休職後に第4師団軍医部長になる。その後1897(明治30)年9月に陸軍省医務局長と最高官をきわめ、翌年8月辞任、予備役編入。
 続いて台湾に赴任したのは第2軍軍医部長だった土岐頼徳(とき・よりのり)である。階級は同じく軍医総監。序列でいえば第3位の高官だった。この土岐が大反乱を起こした。現地の惨状を目撃した土岐は独断で全台湾部隊に麦飯給与の指令を出したのだ。戦時給与令を無視した越権行為であり、軍律違反にも問われるような重大な出来事だった。その結果については、わが国医学史界の権威者である山下政三博士の著作に詳しい。
 土岐頼徳は1843(天保14)年に岐阜県に生まれた。江戸医学所に学ぶ。このとき、石黒とは学友だった。のち大学東校に勤務、真偽は分からないが1874(明治7)年には2等軍医正(少佐相当)として官員録に名前がある。西南戦争(1877)には新撰旅団軍医長として従軍、のち仙台鎮台、名古屋鎮台、近衛軍医長を歴任する。1888(明治21)年から近衛諸隊4000人に麦飯(麦3:精米7)を給与し、脚気患者の激減を確認する。同23年には東京医学会総会で『麦飯を給与すれば脚気は消滅する』と口頭報告をする。翌年、陸軍軍医監(大佐相当)に昇任、第4師団軍医長を務め、日清戦争では第2軍軍医部長、1895(明治28)年に軍医総監(少将相当)に進む。翌々年には官等改正で軍医監(少将相当)、石阪の後任として台湾に赴任する。この時のことである。土岐は石黒に意見書を送った。
 山下博士は、長命した石黒の指示で隠されていた土岐の意見書を発見し、『明治期における脚気の歴史』で発表された。以下はその概要である。土岐は「野戦衛生長官訓令第30号」、すなわち石黒の麦飯否定、白米至上主義に疑問をもったと冒頭にいう。石黒野戦衛生長官は小官(土岐のこと)が台湾への赴任にあたり口頭で訓示されたが、その中に議会対策として軍医が麦飯で脚気を予防するとは言いにくい(予算承認の関係か)。しかし、陸軍大臣の内意として雑穀混用はできる。監督部長(のちの主計総監)に協議すれば麦を支給しても問題はないという内容があった。そこで私はそれを実行したわけである。
 そうであるのに、麦の混入を実施したら早速文句を(貴官は)いう。およそこの十余年間全国の軍隊や学校では麦の混入で患者数は減っている。第3師団では師団軍医部長に私が就任してから、前任者の消毒・環境改善方針を変更して麦を食べさせた。すると同20年には432の患者数があり、21年には771だったが、22年には8名に激減した。23年には4名、翌年は2名だった。
 このことは誰もが認めることで、『全国数万の常備兵を養ふ。各部隊に於て此旨味少なきと称する麦飯に安んじ、異を唱えることなし』、みな満足して異論をとなえる者もいない(筆者註:白米と比べれば不味いというのは当然)。加えて、麦飯実行以来十余年が経つが、胃腸病が増えた事実もなく(同前:麦は消化が悪い)、コレラおよびその他の伝染病の発生時にも麦飯を継続して有害だったという証拠もない(同前:麦は米に比べ栄養劣等は定説だった、森軍医はそう発表していてこれは間違いではない)。これが米食を主食とすることは動かせないというなら、国内軍隊現状は違法である。麦飯に脚気予防の効果はないというなら、なぜ、これを停止しないのか。
 今や脚気におよぼす米と麦の優劣を試験などしている場合ではない。純米食を兵食とすれば、多数の兵力を減殺し、兵士を滅殺することは明白である。内地においてさえ明らかなのに、台湾のような天候が炎熱の地で純米食を行なえば、害毒を流すこと当然。戦役の前の麦食する軍隊には患者が少なく、昨年の米食した台湾平定軍での患者激増はあまりに明白な事実ではないか。『皇天は吾人に理由を告げずと雖も』明確に米・麦の間に利害があることを示している(同前:天は理由は教えてくれないが事実は明らかなのだ)。
 こうして土岐は石黒を糾弾する。この続きにさらに学問界への批判もあるので、当時の日本人を知る上で有益と思うのでさらに紹介しよう。

『また、学問界に多少脚気研究に熱心な者もいるが、青魚中毒説や米の黴説など自分一身の名誉を得ることに熱心で、自分に関係が少ないので米麦の優劣に関わる者が少ないのが現在の学者社会の実情といえる。このような米麦関係に冷淡な学問界の承認を得なければならないというのは何という考えか』

 つまり、大学の学者たちは自分が有名になりたい、地位を高めたいというだけである。現実社会の実態や困窮に冷淡だと非難する。こうしたことはどうやら、当時の社会だけでなく現在でも通じる「学問界」の実情だっただろう。一般民衆や兵卒などという世間とは関係しない。西洋風エリートである学歴主義者たちはいまもその眼差しを庶民には向けないのだ。米麦論争などという過去の漢方医学と経験論が幅を利かせてしまうものは、当時の学問的には価値がなかったからだ。
 この意見書を石黒は隠してしまう。つい先ごろ、自身は日清戦争の論功行賞で功3級金鵄勲章と旭日重光章を授けられた。さらには男爵までも叙せられたばかりである。それなのに自分が戦時中の麦食を禁じたばかりに、多くの死者を出した。戦地入院脚気患者は3万7000人、脚気死亡3800人、しかもそのうち台湾では入院2万1000人、死者は2100人にのぼった。対して戦闘死は284人である。日清戦争の損害の実態は大陸の戦闘ではなく、大部分が戦後の台湾領収のための戦いによるものだった。
 そんなことが明らかになれば身の破滅であり、陸軍軍医界の権威も損なわれる。台湾平定軍の脚気の惨害が明らかになるにつれて、海軍軍医たちからの非難はますます高まっていった。ところが、石黒たちは台湾の脚気惨害の実態を隠そうとした。そして、それは世間に対してはほぼ成功するのである。
 土岐は冷遇された。1896(明治29)年5月10日に東京に帰る。同日に休職になり、同34年5月10日予備役編入、同36年4月に後備役の後に退役、同44年死去。その間に目立つ言動は一つもなく、軍医界との交渉もなかった。「軍医団雑誌」にも死去については何も書かれていない。当時の医務局長は森林太郎であり、そこに石黒の息がかかった主流派の意図が見える気がする。

日露戦争でも再現された脚気の惨害

 日露戦争(1904~05年)の戦時兵食も精白米1日6合とする規程が出された。当時の陸軍大臣は麦飯愛好者であり、麦食給与推進派の寺内正毅である。麦飯を脚気対策に効果ありとする陸軍幹部も多かった。また師団軍医部長クラスの高級軍医たちの間にも、麦飯採用を推す人々もいた。それなのに、大本営が出した給与令はまたまた白米だった。
 非難は簡単だが、そうした愚かとしかいえない決定には、さまざまな事情があった。まず、国民一般の白米嗜好である。『白い飯を腹一杯食べる』ことは憧れだった。麦は不味い、低級なものだというのがふつうの見方である。すっかり忘れていることだが、わが国でも誰もが精白米を食べられるようになったのは昭和40年代(1960年代後半)という、つい先頃のことになる。
 平和な生活から召集を受け、一転、軍隊という過酷な環境に投じられ、戦地に連れて行かれ、明日をも知れない境遇になる。それが国民国家、近代の国民の運命だった。せめて、そうした人たちに白米を食べさせたい。それが現場に近い軍人たちの思いだったのである。理屈では十分に理解している、麦飯は脚気予防になる、しかし、心情面では白米を腹一杯食べさせて死地に赴かせてやりたいというのが多くの指揮官たちの思いだった。
 日露戦争では陸軍衛生部門では次のような構成をとった。
 各聯・大隊には軍医、看護長(下士)、看護手がいた。軍医の半数は最前線に立った。半数はやや後方に仮繃帯所という臨時治療部署をつくった。師団には多くの人員をもつ衛生隊があった。軍医や看護長、看護手だけでなく、負傷者の捜索や収容、輸送のために担架中隊もあり、各所に繃帯所を開設する。野戦病院はふつう歩兵聯隊の数だけある。繃帯所や戦線から患者を収容し、病院に近い環境で治療する。野戦病院長は軍医である。師団が長く駐留をする場合には、舎営病院を開くこともある。以上を野戦衛生機関といい、運用と指揮には師団軍医部長があたった。
 軍がもつ兵站には衛生予備員がいた。前進する部隊が置いていった野戦病院を引き継いで、あるいはその後方に定立病院を開いた。戦況によっては患者集合所、患者療養所を設けることもあった。兵站病院はその定立病院の患者を引き継いだ。患者輸送部は、兵站線の中の傷病者の輸送を任務とする。主に野戦病院と定立病院の間の患者輸送を行う。途中に患者収容所や同宿泊所を置くこともある。これらを兵站衛生機関として、兵站軍医部長が業務を指揮監督する。
 師団の戦闘担任地域を野戦地区といい、野戦衛生機関は主にこの地区で活動した。複数の師団その他で構成された軍野戦地域の後方はその軍の兵站地区という。そこは兵站監と兵站軍医部長がその業務を指揮監督する。すべての最高指揮官は軍司令官であり、軍軍医部長は隷属し衛生部門を統括した。
 『明治三十七八年戦役陸軍衛生史』は公刊された報告書だが、その数字の解釈は難しい。まず、数値は入院患者を中心に調査したものだ。山下博士も指摘するように、入院後病床日誌を作成する前に亡くなった者や内地への送還者は除いてある。だから実際の患者数はもっと多いはずである。
 戦死は4万6400人、戦傷15万3600人、戦傷死合計20万人である(いずれも概数)。海外出征数100万のうち、およそ2割が戦傷死した。戦地入院数は25万1000人になる。その入院患者数の半数以上が脚気と診断された。11万人である。ところが、この他に症状を訴える在隊患者がいた。14万1000人にのぼる。合計すれば25万人を超す膨大な脚気患者数になった。戦地に立つ4人に1人が脚気である。
 しかも死者は巧みに隠されている。戦地入院患者の中で治癒は5万7000人とあり、死亡者は5700人とあるが、事故2万2000人とある。この事故が脚気衝心(急性心臓麻痺)と考えると、脚気死亡者は合計で2万7000人にもなるのだ。これは日清戦争の患者4万人、死者4000人という数字と比べると、患者数は6倍強、死者は5倍強という恐るべき惨害となった。
 この時も、まだ脚気の原因については不明のままである。どうにも医学界でも仕方のないことだったと言えよう。次回はいよいよ最終稿として、兵站の終末点、兵食の実態や海軍との比較、戦後の対応などを語ろう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2016年(平成28年)4月6日配信)