日露戦争の脚気惨害(2)─脚気の惨害(5)

一汁一菜の贅沢

『軍隊はいい所(どこ)でがんした』。これは戦後すぐに、古着の行商をしながら東北地方の農山村を歩いた大牟羅良(おおむら・りょう)氏の聞き書きにある話である。
『軍隊ず(という)所(どこ)ァいいもんでがんした。明るくなるまで寝せておいてくれで、暗ぐなれば、寝ろって寝せでくれだ』『洋服着せで革の靴はがせて呉れだった』『おらハァ、軍隊のおかげで字っコを覚え、手紙っコも書げるようになりあんした』『あそこのオンジ(次三男)は、軍隊で伍長になって来てス、それがら青年訓練所の指導員かなんかやって、今では村会議員でがんす』『大学出もおらも、同じに撲(なぐ)ってくれるっけス』と続き、『米のメシを食(か)せでけるっけァ、いい所(どこ)だった』と兵隊から復員してきた人たちの軍隊話は続く(『軍隊は官費の人生道場?!』)。
 米の飯を食べることは私たちの祖父母たちにとって、どれほどの喜びだったのか。それを理解することは、私たちが小説や映画で作ってきた近代史の中の民衆の姿を見直す一つのきっかけになるだろう。百年少し前の陸軍兵の多くが脚気に倒れた。米飯をやめて麦を混ぜて食べれば、確実に罹患者は減らせることができた。それなのに、陸軍軍医界の上層部の都合で麦の支給は見送られた。だから、前線に立つ兵士の多くは脚気に苦しんでいたのだ。
 私たちが過去の時代相(ある時代のイメージ)を作るときの手がかりは小説や劇映画であることが多い。ところが、その中で脚気に苦しむ人の姿を見たことはない。江戸時代、都市、地方を問わず、登場人物たちのほとんどは居酒屋や飯屋で今と変わらない食生活を送っていたように描かれている。時代劇の中の侍や、岡っ引きや、商店主たちは刺身を食べている。江戸や大坂では、鶏やイノシシ肉の鍋を囲み、野菜の煮付けや漬物をおかずにして酒を飲んでいるようだ。庶民はアサリや納豆、豆腐を買い、朝食のおかずにし味噌汁を飲んでいる。
 先ごろ亡くなった時代小説作家たちがいる。藤沢周平はグルメだった池波正太郎と比べると、さらりと食事風景を描く人だった。具体的な献立より米の量に関わる話が多い。用心棒を稼業とする侍は『ざっと二食、しかも粥にして二食』と米櫃(こめびつ)の中の残った米を見て考えている。稼ぎに行かなくてはと侍は決意する。そんな文章を見ると、江戸時代の人はどれほどの米を食べていたのだろうかと考えてしまう。
 江戸時代でも19世紀になると菜種油が町には出回るようになった。おかげで暗くなったら寝ていた時代に比べると活動時間が長くなった。一日三食の習慣が定着してくる。木炭を手軽に使えるようになった七輪(しちりん)の普及もこれを助けた。幕末の資料だが、ある大坂の商家では1人当たり年に一石六斗(240キロ)を食べていた。1日に直すと約670グラム、四合五勺弱である。大ぶりの茶碗でいえば10杯というところになる。
 明治時代でも初めのころは老若男女すべての平均で米は300グラム以上、これに100グラムの麦が消費されていた。米の消費は増え続け、大正時代(1912~1926)の中ごろには年間226キログラム、1日当たり620グラムにもなった。やはり四合を超している。
 大正時代、シベリア出兵による米の投機で米価は上がった。軍の兵站が兵食として買い上げるだろうという予想がでたからである。教科書にも載る米騒動(1918年)は富山県魚津で漁師のおかみさんたちの暴動から始まった。漁師は1日に1升2合(1.8キロ)の飯を食っていた。同17年から米価はじりじり上昇し、事件の6月には1升34銭、7月には45銭にもなった。同16年と比べると3倍の値段になる。親子で出漁したら2升4合、それに家族が3人で1升として1日に3升4合、ざっと1円50銭。月収はせいぜい30円、コメだけで45円もかかったのでは家計を預かる女房たちの怒りが爆発するわけである。
 食物史の研究者は米食の普及は大正時代だったという。また、全国津々浦々まで米食が広まったのは1939(昭和14)年の米穀配給統制令による米の配給制度のおかげだったらしい。それではおかずはどうだったのか。実は「米、味噌汁、漬物、茶」という一汁一菜の食事は大正時代に「小家族」が生まれたからだと民俗学者の柳田國男はいう。資本主義の発達のおかげで、農村の次三男は都会に出た。それが小家族、つまり核家族のことだ。夫婦と子供だけの食事が豊かさをもたらしたという。
 それがいま、私たちは一菜というと、魚や肉や、あるいは炒め物などのおかずを考える。しかし、研究史上ではこの一菜は漬物のことをいうのが常識であるらしい。
 明治時代の職工や女工の実態を調べる当時のドキュメンタリーを見てみよう。紡績工場の朝食である。「たくあん・らっきょう・菜・梅干」という漬物と「小松菜・切干大根・豆腐・大根・ワカメ」の味噌汁だけだった。主食は何かといえば、「南京米(なんきんまい)」という中国産の粘りも甘みも少ない「外国産米」と麦である。脚気の予防ではない。外米は安く、麦も廉価だった。給食のコストを下げ、米を減らし、かさましを狙った米麦混合である。
「挽き割り麦1升に米2合」「南京米に同量の挽き割り」「南京米2升5合、挽き割り麦5合、国産米2升5合」という配分で、「蒸したるもの・・・美味なく」という表現がされている。栃木県桐生といえば絹の名産地である。そこでの織物女工の食事の様子も描かれている。
『飯は米と麦を等分にしたワリ飯。朝と晩には汁はつくが昼には汁なし、おかずなし。しかも汁は特に塩辛くした味噌汁で、ふつう汁の具は菜っ葉で、大根などは秋に入れば刻んで入れるが、それは珍膳佳?(ちんぜん・かこう:めったに見られない素晴らしいおかず)だった』
 大正末期(1920頃から)になっても『鮮魚の刺身は一度もなく、牛肉は月に1、2回食べさせたが、皮のむいていない馬鈴薯(ジャガイモ)と共に煮つけたものが一人前5匁(約20グラム)くらいが関の山だった』とある。では、これが特に悲惨だったかというと、日本中どこであれ庶民の食生活はこのようなものだったらしい。だから、多くの貧しい青年が多かったからこそ、肉や魚、野菜をバランスよく配合し、白米を食べさせた軍隊は「いい所」だったのだ。

日露戦争の給食の実態

 陸軍は副食の価値をほとんど理解していなかった。それは国民国家の軍隊は、その国の民度と文化の実態の反映でもあるからだ。麦は下級の食物であり、
白米を食べることは幸せである。
 先に女工や職工の給食にふれたが、野戦病院の献立を見てみよう。
1904(明治37)年8月の第1師団第2野戦病院の1週間の記録がある。
 朝食はワカメのみそ汁、梅干1個、味噌漬大根、福神漬け、ネギのみそ汁、大根漬け、かんぴょうのみそ汁である。ただし、汁のあるときには漬物は付かない。昼はかんぴょう、干鱈(鱈を乾燥させた塩味)、切り昆布の煮付け、麩、ネギの煮付け、芋、缶詰の鮭、切干大根と牛肉の煮付け。夜は麩の煮付け、かんぴょうの煮付け、牛肉とネギの煮付け、卵、煮干し(雑魚とある)というのが1週間のメニューのすべてだった。他に鰹節がある。これが滋養を旨とした患者の入院食である。
 野戦の兵士の給食も記録があった。
『五分(1.5センチ)ばかりの奈良漬が朝食のおかず。昼は干したエビが少々、夜は千切り大根と牛肉缶詰を煮たもの少し、肉には出会えない。翌日は梅干2個が朝食、昼は千切り大根に牛肉8匁(30グラム)、夜も昼と同じ。3日目はたくあん漬けの大根1切れで朝食、昼は卵1個と千切り大根、夜は馬鈴薯に千切り大根』という、これまた貧しい内容が日記に書かれている。白米と貧しい副食、メニューを見ただけでビタミン欠乏食であることが分かる。
 また戦争も2年目となると、内地の補充隊でも食事は貧しくなっていった。作家長谷川伸(1884~1963)が補充兵として入隊(明治37年11月1日)したのは千葉県国府台にあった野戦砲兵第一聯隊の補充隊だった。中隊長はのちの元帥陸軍大将畑俊六(はた・しゅんろく)である。畑は東京府立1中から中央幼年学校へ進み、1900(明治33)年に陸士卒業、野戦砲兵第一聯隊付きの砲兵中尉として出征した。旅順要塞西方高地を攻撃中に敵弾を胸に受け、野戦病院から内地に還送され、翌年3月原隊に復帰、補充大隊中隊長になった。そこでのちの大作家と出会うことになる。
 この長谷川伸の弟子が高名な兵隊作家棟田博である。棟田は師匠の思い出話として、支給されたシャツとズボン下がボロだったこと、銃剣も当初、支給されなかったことを書いた。だいぶ後になって、戦場で鹵獲したロシア製の銃剣を帯びたともいう。班内にはベッドもなく、藁を床に敷いて1枚の毛布を2人でかぶったという話もあった。食事は麦7、白米3で、規定では1日6合6勺(990グラム)だったが、5合くらいしかなかったという。さらに副食である。水曜日と土曜日の昼飯だけはご馳走が出た。コノシロという魚の煮つけとカマボコが一切れ、イモの葉っぱか何かを煮たものが少し。あとは毎日、ネワラとあだ名した切り干し大根にワカメを少し混ぜて、酢醤油に通したものだった。その形と色が、馬の寝る厩舎にあった寝藁(ねわら)にそっくりだったからという。戦場に送られてゆくべき補充兵への給養の低下、まさに国力の限界を示すエピソードである。

行われた麦飯給与

 日露戦前、国内ではすでに行なわれていた麦飯給与は、戦地ではなかなか実行されなかった。第1軍軍医部長は開戦の月には「米麦混食」を上申した。ときの野戦衛生長官は陸軍省医務局長の小池正直である。小池は1854(安政元)年、山形県鶴岡藩の医官の家に生まれた。1873(明治6)年に上京、ドイツ語を学び、11月に第1大学区医学校予科に入学する。同77年に在学中に陸軍軍医生徒に応募、採用された。同81年に東京大学医学部卒業、鴎外森林太郎とは同窓で同期生になる。6月陸軍軍医副(少尉相当)、朝鮮釜山領事館附属病院の院長などを歴任。中央勤務が多かった森とは対照的に地方回りが多かった。
 1888年にドイツ留学、ミュンヘン大学で衛生学の研究法を学ぶ。同94年、日清戦争で第5師団軍医部長、第1軍兵站軍医部長、占領地総督部軍医部長を務める。同98年、陸軍軍医監、陸軍省医務局長となる。日清戦争では終始戦場にあって戦功を大きく評価された。それだけに、日清戦時中の脚気惨害にも直面した。ところが、彼もまた東大卒であり、ドイツ留学組でもあった。麦食という脚気対策には必ずしも熱心ではなかった。
 その小池が医務局長となり、戦時体制になると野戦衛生長官を務めることとなった。第1軍軍医部長の上申は一応受け入れられた。大本営会議で協議はされた。しかし、戦地で主食を複雑にするのは実施上の困難が多いという理由で米麦混食は認められなかった。第5師団でも出征前の会議では軍医部長が麦を混ぜることを提案したが、麦は虫がつきやすい、変敗しやすい、輸送が困難になる、味が悪いなどの反対が多く否決されてしまった。代わりに実行されたのは重焼?麭といわれる堅いビスケットの支給だった。挽割麦の発送は5月まで行なわれなかった。
 その結果は、脚気患者が増えて兵站病院も収容しきれないという有様になる。世間にも知られるようになって陸軍への非難は激しさを増してきた。11月には寺内陸軍大臣が新聞記者を集めて弁明までさせられる始末である。1905(明治38)年3月、陸相訓令が出された。
「脚気予防のため、麦飯を喫食させる必要がある。主食日量精米4合、挽割麦2合を給与することに努力せよ」というのがその主旨だった。
 この効果は確かにあった。開戦の年8月に1万6000名を数えた患者は一部に麦飯が支給されたことによって、年末には約7000名となった。そして、訓令の結果、翌6月には3000名余りと激減したのである。しかし、減りながらもなお患者の発生は止んでいない。夏の最盛期には再び6000名が脚気患者として後送されていた。全体の3割程度の麦飯では脚気を完全に封じることはできなかったのである。現在の栄養学から見ても、米4合・麦2合のビタミンB1の量は0.9グラムほどにしかならず、兵隊には不足しているという。

戦後の大紛争

 1907(明治40)年1月、紛争の口火を切ったのは海軍軍医だった。脚気は食糧によって予防できる、陸軍は海軍の脚気予防の実績を見習うべきだというのだ。続いて帝国大学医科大学(東京帝国大学医学部の前身)卒業の内科医師の発表があった。広島陸軍予備病院に勤務したときの経験から、脚気の病因は運搬中や貯蔵中に変質したコメの中毒によるという説である。米麦混食は脚気を減少させるだけだから、米食を全廃せよとも提言した。
 これに対して、余計なお世話だとばかりに陸軍軍医が反論した。陸軍だって脚気の原因究明には努力している。伝染病か、中毒か、それ以外が原因か、医学的な検討は十分している。それに加えて、返す刀で海軍だって実は脚気患者がいるのに病名を変えて統計をごまかしているのだと発言してしまった。
 これには海軍軍医も黙っていなかった。陸軍が言う、環境に陸海では差があるという主張はばかばかしい。反論としては旅順要塞戦での海軍陸戦重砲隊での事実を示した。陸軍の糧食があまりに粗末だったので、陸戦隊軍医長は聯合艦隊軍医長や司令長官に具申した。結果、陸戦隊員には艦上と同じ食事を運ぶことになった。すると、海軍兵には一人も脚気などにかかる者はいなかった。これから見れば、主食は麦を混ぜ、副食を豊かにすることがとにかく重要な対策なのだと主張した。
 そして、いつか批判の的は小池軍医総監に向けられるようになってきた。しかし、これは個人攻撃にする方が無体(むたい)だと思える。小池は野戦衛生長官として、たしかに仕事に励んだ。膨大な死傷者、環境の劣悪さの中で陸軍衛生部は小池以下、みな奮闘をした。物資の不足、補給兵站の貧しさ、国力のないなかで、みなが勇戦敢闘をしたと言っていい。
 陸軍が当初に麦を送らなかったのは送れなかったからである。弾薬、兵器、馬、兵員を戦場に送るだけで手一杯だったのだ。『輸送が困難だったから麦が送れなかった』というのは嘘ではなかった。しかし、そうした実態を知らせては国内に厭戦気分が生まれてしまう。ただでさえ、世界最大の陸軍国であるロシアと開戦することに不安をもつ人は多かった。しかし、戦争は綱渡りの連続でなんとか勝ち抜いていた。そうした実態を知らせなかったから、国内ではすべて陸軍衛生部の責任にするのは当たり前だった。
 山下博士はさらに一人の補助輸卒隊にいた輜重輸卒の手記を紹介している。手記には第1軍で大量の麦の輸送を行なっていたことが書かれている。開戦直後の3月のある日、精米2斗(30キログラム)入りの叺(カマス)359、麦504叺を港から内陸へ、別の日には韓国米5斗入りの米俵を24、同じく2斗入りの叺23、大麦626叺を運ぶ。また、ある日には麦1斗入り叺250、精米2斗入り叺200、大麦同200を運んでいる。そして、4月には精米180叺、大麦400叺、塩鮭400俵(重量は不明)、醤油エキス(乾燥粉末醤油)12箱、福神漬17箱を送っている。
 手記はまた、過酷な労働を行なう輸卒の姿が赤裸々に描かれている。脚気はこの輜重輸卒隊にもっとも多く発生した。歩兵ほか戦闘兵科の兵士の脚気罹患率はほぼ2%である。これに比べて補助輸卒隊では5%強とたいへん多い。山下博士も指摘するが、およそ3倍近くも輸卒は脚気にかかっている。

大団円

 1908(明治41)年5月末、臨時脚気病調査会の官制が公布された。当時の医学界の総力をあげたメンバーである。この発会の席で陸軍大臣寺内正毅は爆弾発言をする。それは日清戦争当時、脚気対策に麦を送れという大方の声を、当時の石黒医務局長と森林太郎が妨害したというのだ。そのことを現医務局長鴎外を前にして公言したのである。実は鴎外は石黒とともにコメの優秀性を主張し、麦食に理解がなかった。おかげで序列も下げられ、人事上では恵まれてこなかったのである。そのことを明らかにされた鴎外の胸中はどんなものだったか。
 脚気の原因は意外なところから解明された。インドネシアのジャカルタ付近では、鶏に白米ばかりを食べさせると脚気に似た症状を起こす病気が有名だった。ベリベリという。それをオランダ人医師エイクマン(明治初期のお雇い医師の実弟)が研究し、人のベリベリと鶏の脚気は同じだと発表していた(1889年)。そして明治30年代の終わりころには、ベリベリの原因が白米食にあることが知られ、予防には豆や玄米が使われるようになっていた。それが少しもわが国の関心をひかずに、だれも気がついていなかったのだ。学界の目も陸海軍軍医たちもヨーロッパには関心をもったが、列強の植民地のアジアについての話題など知らなくても済んでいたことがわかる。
 都築2等軍医正(中佐相当)は直ちにインドネシアに出張した。そこでのエイクマンらの業績を追試した結果、白米主食の問題点と「未知なる不可欠栄養素」の存在を報告した。伝統的な「一汁一菜」では確実に、ある栄養素が不足することが確認された。
 1910(明治43)年には東京帝国大学農科大学教授の鈴木梅太郎が『白米の食品的価値並びに動物の脚気様疾病について』を発表し、注目を集めた。それは精米過程で出るコメの表皮や胚芽に含まれる糠(ぬか)を分析した結果である。この糠に含まれる不可欠栄養素はコメの学名「オリザ・サティバ」にちなんで「オリザニン」と命名された。発見は世界的にも評価を受けた。なお、この後も鈴木の苦労は続くが、世界大戦の影響などで研究は中断し、純粋なオリザニンの開発は1931(昭和6)年にずれこんだ。
 この脚気病調査会の設立、継続には鴎外森林太郎は大きな功績をあげたと山下博士は指摘する。陸軍は兵食を改善し、少しでも豊かな副食を支給しようと努力するようになる。それには森の貢献も大きいものだったという。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2016年(平成28年)4月13日配信)