空挺団物語(39) こぼれ話(5)落下傘のこと

▼当初の訓練は92式から

陸軍航空技術研究所の文官だった出川技師は、昭和5(1930)年から落下傘の仕事を始めた。その頃、陸軍の操縦者はアービング式という米国製の落下傘を使っていた。航空機に搭乗するときは尻の下に敷く座布団のようになっている。同乗者用はサルバトール式というイタリア製だった。背中に背負っていたのだが、機上作業ではどうにも邪魔になる。ひとつ国産化してみようという声があがった。

いまも落下傘製造では市場を独占している藤倉工業(当時、東京府下荏原町にあった)が協力した。まず、機内作業の便を考え、前掛け式にして機内では着脱もできるようにしてみた。これを何種類か作り、投下試験を各200回ばかりしたところで制式化した。1932(昭和7)年のことで、これが92式落下傘となった。

操縦者用のアービング式も改良して95式を作り、一部改良して97式をつくった。ただし、これはあくまでも緊急脱出用のもので傘体も小さく、したがって降下速度が速く、着地衝撃も大きかった。挺進練習部ができた時は、とりあえず92式を使って訓練することになった。

▼92式から1式へ

92式には大きな課題があった。機上作業用の着脱自在の方式なので、前掛け式になっている。そのため降下兵の装具が身体の前につけられない。加えて、頭部が下になるように空中へダイビングする姿勢をとるが、どうにも邪魔になる。そこで97式のほうが身体の前に装具も付けられるし、尻の下に敷くタイプだから蹴出姿勢もとりやすい。問題は、操縦者の緊急脱出用だから脚や腕に怪我をしても仕方がない、生命だけは助かるようにという設計なので傘も小さくて降下速度が高かったことである。

昭和15(1940)年の落下傘部隊編成の動きが始まった頃、とにかく確実に開くということを最優先に考えていた。兵器や装具などをどのように携行するかなどは考えていなかったらしい。

主傘を背負い、予備傘を胸の前につけたのが1式傘である。大きな主傘は自動索で機体につながり、跳び出せば開いてくれるが、事故などで傘が開かなかったときに手動で操作するのが予備傘である。これが、従来のものとは大きく異なっていた。

自動索は傘本体の頂部に結ばれていて、背中から主傘を引っ張り出し、完全に引き出すと、その重さで仮縛(かばく)部が切断される仕組みだった。仮縛部とは索と本体とを繋いでいる部分である。したがって手動で傘を開くことはできない。予備傘の方は手動索方式で、索を引き抜くと小さな誘導傘が飛び出して、その力で予備傘が引き出された。

▼物料傘が先だった

この自動索方式は、すでに昭和10(1935)年頃には開発されていた。満洲事変勃発(1931年)から、地上部隊の各地への進撃は早くなり、物資の追送補給が追いつかなくなっていた。そこで輸送機による空中投下方式を採用したらという意見も出て、物料を安全に落とすという考え方ができた。

陸軍航空技術研究所の開発部署に年度終わりの頃、予算が7000円か8000円ほど余ったから何か研究しないかという声がかかった。いまの価額ではざっと3000万円ほどになろうか。そこで物料を投下する落下傘を研究しようとなった。

当時は初期の翼の下にむき出しに爆弾を吊る時代ではなかった。胴体に爆弾倉を設けて、空気抵抗を減らそうという考えである。そこで、物料も外形が爆弾倉にきれいに収まるようにしなくてはならない。落下傘も物資の重量に合わせて、大きさも30キログラム、50キログラムの2種類にした。自動索付仮縛式はここから始まった。

昭和15(1940)年、ヨーロッパで空挺部隊の活躍が報じられた。15年にはきちんと予算がついて、人体傘の研究が本格的に始まった。

▼1式落下傘の誕生

降下部隊用落下傘というのが開発名称だった。技研と藤倉工業の協力で試作品ができ上がっていった。92式を仮に採用していた練習部では事故も起きた。急いで完成させねばということから多くの投下試験を行なって、その成果を次の試作に活かす形で進めた。ふつうは午前中だけの試験を、午後にも行なった。

飛行場では狭かったので、立川近くの多摩川の川原、草原などに試作品を落とした。16年の8月になって、昭和16年は皇紀2601年にあたった。そこから末尾を採って1式と名付けられた。予備傘があったのが何より頼もしかったと隊員は語った。

▼藤倉も内々で研究していた

思い出話の中にあるが、降下部隊用落下傘の開発は完全な陸軍主導ではなかった。すでに国際ニュースなどで欧州の戦況を見て、藤倉工業内部では研究を始めていた。予備傘については、とにかく緊急用だから片脚くらいは折れても仕方がないという発想だったから傘の面積を30平方メートルくらいにした。主傘が45平方メートルであるから、ずいぶん小さい。

当時、会社に見学に来るのは陸海軍人ばかりだったが、誰も人体用の降下部隊落下傘と予備傘に興味を示さない。それが秋ごろか11月に入ってからか、軍服を着ないで、当時の国民服を着た男性が2人でやってきた。どうやら機密保持のためだったらしい。本格的な部隊をつくるから協力して欲しいという話だった。

その1週間後、今度は海軍士官がやってきた。陸軍は予備傘を必ず使うことを伝え、空中で操縦できるので「2点吊り」にすると教えた。すると海軍は「1点吊り」でよいと言う。ドイツの1点吊りを承知しているから、そういう話にもなったらしい。予備傘は不要で、その分、海軍は兵器を胸元に抱えて降下するという。

「2点吊り」か「1点吊り」かの比較については次回に回そう。

 

 

(つづく)

 

 

 

荒木肇(あらきはじめ)
1951(昭和26)年、東京生まれ。横浜国立大学大学院教育学修士課程を修了。専攻は日本近代教育制度史、日露戦後から昭和戦前期までの学校教育と軍隊教育制度を追究している。陸上自衛隊との関わりが深く、陸自衛生科の協力を得て「脚気と軍隊」、武器科も同じく「日本軍はこんな兵器で戦った」を、警務科とともに「自衛隊警務隊逮捕術」を上梓した(いずれも並木書房)。陸軍将校と陸自退職幹部の親睦・研修団体「陸修偕行会」機関誌「偕行」にも軍事史に関する記事を連載している。(公益社団法人)自衛隊家族会の理事・副会長も務め、隊員と家族をつなぐ活動、隊員募集に関わる広報にも協力する。近著『自衛隊砲兵─火力戦闘の主役、野戦特科部隊』。近刊として『第一空挺団(仮題)』(並木書房)。