空挺団物語(37) こぼれ話(3)特別操縦見習士官(1)
明治期の「1年志願兵」に始まる帝國陸軍の予備役士官養成制度は、昭和2年の兵役法制定によって「幹部候補生」制度へと発展した。日華事変以降の大規模動員に伴い、予備士官学校が各地に設置され、士官教育の短縮も進められた。一方、海軍でも商船学校出身者を中心とする予備士官制度が拡充され、大学・専門学校出身者を対象とする予備学生や2年現役士官制度が整備された。
今回は、帝國陸海軍の予備役幹部養成制度の歴史と教育の実態を解説し、次回の主題となる「特別操縦見習士官(トクソウ)」誕生の背景を明らかにする。
□ご挨拶
台風の影響もようやく去り、穏やかな秋晴れが続くようになりました。朝晩は冷え込むこともあり、かと思うと昼頃には25度を超すような真夏日もあり、毎日の温度管理にも気を遣う日々でもあります。インフルエンザの早い流行も心配です。わたしは外出時には必ずマスクを用意しています。
▼陸軍の予備員養成
明治の昔から陸軍では「1年志願兵」という名称で、予備役士官・下士の養成課程をもっていた。通常の現役が3年であるのに、中等学校以上を卒業した者は1年間の現役で、終末試験の結果から士官(兵科・経理部・衛生部・獣医部)や下士(前同)になって予備役に編入されるといったシステムである。ただし、時代によって金額の変遷はあるが、入営中の経費を事前に納入することが必要だった。
一般徴兵が衣服も食事も官給だった頃に、被服や兵器の損耗や暮らしに関わる費用を自弁するといった理由があり、何より戦時の動員による幹部(下士以上をいう)の貴重な供給源でもあった。
現金収入の差が大きかった時代、一括して200円以上の納金ができる階層は少なく、また中等学校への進学率が10%にもならない時代には富裕層への優遇措置だという批判はあった。しかも、時期によっては自宅からの通勤もできるといった特権もあるということかから特別扱いを非難されたりもしたが、日露戦争の動員で予備役幹部の死傷率も一般兵よりはるかに高い事実があった。
▼兵役法時代の改正
昭和2(1927)年には、兵役に関する法令が、徴兵令から兵役法になった。ここで生まれたのが「幹部候補生」制度である。幹部とは現在の自衛隊が士官以上を指すのと異なり、当時は判任官以上をいった。幹部候補生という名称が予備員養成であることを示した。現役将校となる陸軍士官学校の生徒は士官候補生といい、襟には五稜星といわれる星のマークを着け、幹部候補生は丸い台座の上に星がついていた。のちに口の悪い人たちが「ザガネ」といった徽章だった。
前制度と比べて変わったのは、大正末から始まった現役将校学校配属制度による教練検定である。中等学校以上にはほとんど、この現役武官教官が配属されたので、この教官が行なう軍事教練で検定合格をとらなければ幹部候補生への希望資格がなかった。
書類選考とこの教練の成績を審査され志願受理、不受理の決定がされた。志願が受理されても、なお納金をしなければ幹部候補生にはなれなかった。教育は各部隊で行なわれ、途中成績で付与される階級が異なり、終業時には階級が決定し予備役に編入された。1933(昭和8)年から、甲種(士官要員)と乙種(下士要員)と分かれることになった。
▼要員決定まで
昭和10年頃には、初年兵として入営して2か月ほどで選考の上で1等兵に進んだ。聯隊内で集合教育が始まり、半年後にはその成績で甲種、乙種の指定を受けた。このときは上等兵の階級に進んでいた。
日華事変の大動員と部隊の新設、増設が続くなか、昭和13(1938)年からは時期の前後はあるが各地に予備士官学校が生まれる。伍長の階級章と襟に徽章を着けた甲種幹部候補生は、そこで本来は11か月の教育を受けた。本来というのは、実態は7か月ほどに短縮されていたからだ。
予備士官学校は岩手県盛岡に初めに置かれ、愛知県豊橋、福岡県久留米に開校され、主として歩兵小隊長教育を行なった。やがて砲兵や輜重兵の教育も行なったが、各部や他兵科の候補生は各実施学校の中の幹部候補生隊で教育を受けた。たとえば、経理部は経理学校で、獣医部は獣医学校で行なうようなものである。
乙種はそのまま聯隊内で行なわれ、上等兵、伍長を経て、入営2年後に一部が軍曹に昇進し予備役編入となった。学校教育が終わった甲種は曹長に進み、見習士官として聯隊で服務し満2年で少尉として予備役に編入された。
▼海軍の予備士官
海軍予備学生というと知名度が高い。大東亜戦争末期の特別攻撃隊で散華された方が多かったせいもある。しかし、元々は高等商船学校の生徒に予備生徒の階級を与え、航海科、機関科の卒業生に予備士官の階級を与えるものだった。服装では、軍帽前章や階級章の桜がコンパスマークになっていて、冬軍服の袖のカールも直線ではなかった。もともと優秀な商船士官、機関科士官を海軍の予備員としたことが始まりだった。同じように地方の商船学校卒業者は予備下士官になっていた。
この制度を拡充したのが昭和9(1934)年からの飛行機操縦予備将校制度であり、昭和17(1942)年には、全兵科に拡大する。大学や専門学校卒業者や、のちに在学中の者も予備員に採用することになった。
予備士官の教育は規則上は1年半に及んだが、実際はやはり短縮もされていた。1年半の教育のうち、最初の半年は砲術学校(飛行専修者は土浦で2か月)で海軍士官としての基礎素養を培われ、飛行、陸戦、通信、整備、気象などの専門分野別に術科学校で学んだ。
2年現役士官、俗称で「タンゲン」といい「短期現役」として知られているが、正式には2年現役である。兵科ではなく、軍医、主計、技術の各部士官の就く兵役だった。大学卒は中尉に、専門学校卒は少尉として勤務し、現役服務が終わる2年後に予備役として民間に帰るか、現役として服務を続けるかを選択できた。
▼見習尉官ほか
タンゲン士官たちの基礎教育機関は3から4か月ほどで、予備学生より短くなっている。専門技能尊重の海軍らしいが、いきなり士官になるのではなく、5か月の基礎教育を見習尉官として受けることになった。
陸軍ではこれに似た制度で2年現役の軍医候補生や技術候補生という制度がある。また、次回に述べる入隊時から曹長の階級をもつ特別操縦見習士官(俗称はトクソウという)制度が始まった。海軍の予備学生制度に合わせたものだった。トクソウから滑空機の操縦員になったことなど、大東亜戦争末期の予備員養成の話をしよう。
(つづく)
荒木肇(あらきはじめ)
1951(昭和26)年、東京生まれ。横浜国立大学大学院教育学修士課程を修了。専攻は日本近代教育制度史、日露戦後から昭和戦前期までの学校教育と軍隊教育制度を追究している。陸上自衛隊との関わりが深く、陸自衛生科の協力を得て「脚気と軍隊」、武器科も同じく「日本軍はこんな兵器で戦った」を、警務科とともに「自衛隊警務隊逮捕術」を上梓した(いずれも並木書房)。陸軍将校と陸自退職幹部の親睦・研修団体「陸修偕行会」機関誌「偕行」にも軍事史に関する記事を連載している。(公益社団法人)自衛隊家族会の理事・副会長も務め、隊員と家族をつなぐ活動、隊員募集に関わる広報にも協力する。近著『自衛隊砲兵─火力戦闘の主役、野戦特科部隊』。近刊として『第一空挺団(仮題)』((並木書房)。


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