陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(1) 連載の始まりにあたって──火砲の基礎知識  荒木肇

□はじめに

 ウクライナへのロシアの侵攻で、これまでの戦争観が見直されました。まず、ミサイルが主力の時代だと思っていたのに、意外や野戦では砲身砲(内部にライフリングがされている砲身をもつ火砲)による戦いが激しく行なわれました。精密に誘導された砲弾は、まるでミサイルのような精度で数十キロの距離を飛び目標に当たります。ウクライナは野戦砲と砲弾の支援を要求してきました。同じようにロシア軍も砲兵による攻撃を烈しく行なっています。

 戦車の復活にも驚かされました。当初こそ、携帯対戦車ミサイルであるジャベリン、この活躍によってロシア戦車が多く撃破されたと伝えられました。しかし、いつの間にかウクライナは戦車の援助を要求し、支援する各国では一線級の主力戦車を提供するようになっています。

▼平和だから火砲も戦車も要らない?

 火砲、とりわけ砲身砲は軍縮になれば必ず真っ先に減らされます。精密加工品である砲身の製造には長い日時と経費がかかり、部隊配備されれば維持、管理費がかかるからです。わが国の陸上自衛隊でもこの30年で野戦特科(砲兵)火砲の数はおよそ4分の1に減らされ、現在、300門しかありません。

 戦車もまた同じです。開発、製造、維持・管理に経費がかかります。もう戦争は起きない、ソ連も崩壊し、ロシアはわが国への侵攻はまず行なえないだろう。そういった認識が大勢を占めて、陸上自衛隊でも過去1200輌があった保有数も、同じく300輌という現有数になりました。たくさんの戦車が溶鉱炉に投げ込まれたのです。

▼砲兵が耕し、歩兵が占領する

 

戦争の結果を決めるのは火力です。戊辰戦争(1867年)でも、砲兵火力に優れた新政府軍は、火力の集中に劣った旧幕府軍に勝利しました。西南戦争(1877年)でも官軍のクルップ野・山砲は薩摩軍の旧型の4斤野・山砲を圧倒します。日清戦争(1894~5年)では野・山砲兵は大活躍し、その発射する榴霰弾(りゅうさんだん)を清国兵は「天弾(てんだん)」といって恐れました。

 日露戦争(1904~5年)では野戦重砲が活躍します。わが国は世界で初めて要塞に据えていた重砲(口径10センチ以上の砲をいう)を野戦に持ち出しました。旅順要塞攻略で偉功を立てた28珊(サンチ)榴弾砲は、野外の会戦でもその威力を見せつけました。このときの野戦砲は「速射」を名に付けた国産野砲でした。

▼世界大戦(1914~1918年)は砲撃戦だった

 世界大戦のチンタオ要塞攻略戦(1914年)では国産重砲が大活躍します。日露戦争の教訓をしっかり生かしたのです。「火力重視」、これこそが20世紀の日本陸軍でした。その様子が変わるのが大正時代です。もう陸戦は起きない、わが国は海国だ、陸軍は時代遅れだという主張が起きました。世界大戦後の大不況、関東大震災の大被害、政府は軍縮を断行し、陸軍の砲兵は大削減されてしまいます。

 すでに日本陸軍は欧州諸国の陸軍のように、「砲兵が耕し、歩兵が占領する」という鉄則を十分に理解していました。それがどうして、火砲を減らし、砲兵装備を軽視するような動きになったのでしょうか。そんなことも、この連載を通して考えていくつもりです。

 また、時系列にそった内容ですが、火砲や砲術に関する専門用語の解説もしていきます。

▼火砲の種類と名称

 大砲の始まりは鉄砲より少し遅れて14世紀末頃のようです。わが国では室町幕府の治世下にありました。木製の台の上に砲身が載せられたものでしたが、15世紀には台に車輪がつくようになります。砲身の長いカノンや、短い臼砲(きゅうほう)が生まれたのは16世紀になった頃でした。

 このカノンという名称はもともとラテン語で「筒」を表す言葉だったといいます。カノンは平射(へいしゃ・射角が45度以下の射撃)といって、弾道が直線に近く、主に目に見える的(てき)を撃ちました。砲身が長く、初速(しょそく・砲口を出たばかりの弾の速度)が大きく、遠距離射撃に向いています。

 陸軍ではカノンに「加農」という字をあてました。しかも加農砲とは決して言いませんでした。制式名称も加農です。語源はおそらくフランス語でしょう。それまで「大筒(おおづつ)とか「大砲」と呼んでいたのを、伝習された当時のフランス語のCANONに統一して、これに加農という字をあてたのではないでしょうか。

 英語では火砲をCANNONとしました。これは一般的に火砲ですが、普通はGUNを使います。

 興味深いのは「榴弾砲(りゅうだんぽう)」です。この砲は擲射(てきしゃ)あるいは曲射(きょくしゃ)を任務として、主に45度以上の射角で撃ちます。中が中空になっていて炸薬(さくやく)が詰められ、着弾すると信管(しんかん)によって爆発し、爆風や衝撃波、破片によって被害を与える砲弾を榴弾といいます。

榴弾とは植物の「柘榴(ざくろ)」の榴を使ったものです。ザクロの実がはじけて中の種子が見える様子からとったものでしょう。この砲弾の発射を主にする砲を榴弾砲といいました。カノンと比べると砲身が短く、初速は遅いのですが、重い砲弾を高く打ち上げることができました。カノンに対してこれはHOWITZER(アメリカではハウザー、英語ではハウィッツアーなどという)という語があります。

そうして現在では、カノンという名称はなくなり、すべてが榴弾砲になりました。陸自でも99式自走榴弾砲(99SPH)といった具合です。ちなみに主力野戦砲のFH70(ナナマル)もフィールド(野戦)・ハウザー(榴弾砲)70ということになります。ついでに陸自では0はマル、1はヒト、4はヨン、9はキュウと発声しますから99式はキュジュウキュウシキではなく、キュウキュウシキとなるのです。同じように10式戦車はヒトマル式であり、ジュッシキとは言いません。

▼口径について

 口径とは銃身でも砲身でも、その内径をいいます。陸軍はフランス式ですからメートル法を用いて、珊(糎・センチになるのは大正10年以降)と粍(ミリ)を使いました。海軍は英国を師匠としましたからヤード・ポンド法です。だから戦艦大和の主砲は「18インチ」でした。46糎砲というのはおよその数です。陸軍ではふつう野戦用では口径10センチ以上を重砲といいます。野砲はほとんどが75ミリです。

 気をつけねばならないことがあります。口径には2通りの使い方があります。警察官が使う拳銃を「38口径の拳銃」という人がいますが、これは口径が0.38インチ(約9ミリ)の拳銃のことです。38は小数点以下の数ですから「サンハチ」と読むべきですから、「サンジュウハチ口径」と読むのは間違いです。

 軍用語では38口径というと、砲身の長さが口径の38倍の長さであることを意味します。ある程度、その砲の性能を示すものでもあります。

 加農と榴弾砲(すでに書いたように、加農砲とはいいません)の区別が口径で分かることもあります。口径が大きい方、つまり砲身が長い方が加農で短い方が榴弾砲です。ただし、厳密な定義はなく、とくに最近では砲身が長くなる傾向があります。外見や口径数では両者の区別はつきません。

 なお、射程(しゃてい)というのは火砲の位置から弾が落下する位置までの距離をいう言葉です。だから、「射程距離」というのは意味を重ねた言葉になります。さらに正確にいうと、最大射程とは火砲と同一平面上に落下する弾の位置までの最長距離をいうのです。だから目標が火砲より高い位置にあるときと、低い位置にあるときとは距離が変わります。実際に射撃をするときには、「射距離(しゃきょり)」と言うのです。

 次回は幕末・明治建軍の時代の火砲、砲兵について語ります。(つづく)



荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を行なう。横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行なっている。自衛隊家族会副会長。著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか-安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『東日本大震災と自衛隊—自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器で戦った』『自衛隊警務隊逮捕術』(並木書房)がある。