空挺団物語(16)「空挺部隊」(1)
□ご挨拶
半年ぶりに連載が再開されます。たいへん有難いことで、エンリケ航海王子様には心よりお礼を申し上げます。また、読者の皆様におかれましても、筆者と読者の双方向性を重視するということからご意見、ご感想、ご指導等をいただければ幸いです。エンリケ様がおっしゃる「思考の場」ということを大切にしたいと思います。
今回は再出発にあたり、これまでの空挺部隊の歴史についての記述内容をダイジェストしてみましょう。
▼空挺とは空中挺進
「挺」という言葉の訓は「ヌキンでる」、その意味には「進み出る」というものがある。人より先に進み出ることを「挺進」という。落下傘や滑空部隊に空中挺進、略して「空挺」が使われたのは、大東亜戦争の最中に海上挺進という言葉もあったからだろう。海上機動旅団という船舶兵を中心にした島嶼作戦用の挺進部隊があった。
わが国の空挺作戦についての研究は、当時の主敵とされたソ連軍が、ウラジオストクに降下部隊を移動させたという1936(昭和11)年の情報があってからだ。当時のソ連軍は数百名の落下傘降下部隊を降下させ、輸送機の着陸を可能とする地域を占領し、次に兵員・戦車・火砲などを空輸して戦場の要点を占領するというものだった。これに対して、わが陸軍は対降下部隊戦闘についての研究は行なってはいたが、自前の降下部隊を持つという積極的な姿勢はなかったといっていい。
▼陸軍大臣官邸の報告会
ドイツ軍が本格的な空挺部隊を使ったのは1940(昭和15)年4月である。ノルウェーに1個中隊の落下傘兵を飛行場に降下させ確保、続いて輸送機250機を着陸させて5000名の兵力が展開した。5月にはオランダに落下傘兵を降下させ、ベルギーには主にグライダーによる進攻作戦を行なった。
わが帝国陸軍も刺激を受けて、空挺作戦の研究を本格化した。そうした中で10月には欧州駐在勤務を終えて帰国した井戸田勇中佐が陸軍大臣官邸で報告会を開いた。東條陸相以下首脳部に、ドイツ軍の用兵、主に航空、機甲、落下傘部隊の使用について話した。
落下傘部隊の建設は陸軍航空本部が担当することになった。輸送機、落下傘、携帯兵器などの研究もしなければならない。最も重要だったのは、部隊訓練の教官要員をどのように訓練するかである。落下傘部隊の規模、どれほどの人員をいつまでに揃えるのかが大切なところだ。
▼浜松陸軍飛行学校練習部
部隊の編成管理官は陸軍航空総監、編成担任部隊は、浜松陸軍飛行学校となったのが11月30日である。練習部長は中(少)佐1名、部員少佐(大尉)2名、他に操縦者たる尉官1、教官少佐(大尉)1、尉官16、主計尉官1、軍医尉官2、合計25名の将校が配属される。ほかに准士官以下45名内外の人員が配属される予定になった。航空被服も340組が用意されていたというから、当初は1個中隊規模と考えられていたらしい。
問題は輸送機である。陸軍航空の泣き所は輸送機が少なかったことだ。対ソ連戦では制空権を戦闘機で奪い、敵飛行場に軽爆撃機、重爆撃機で攻撃を行なう。地上部隊への補給など物資輸送はトラックや馬車などで行なうといった従来からの方針があったせいである。
ATと略称された97式輸送機、MCと呼ばれた100式輸送機、ほかに米国ロッキード社から購入した1式(ロ式)輸送機があった。ただし、すぐに使えるのはフォッカー・スーパー・ユニバーサルしかなかった。これは上翼式で乗員2名、乗客6名の小型輸送機だった。最高速度も時速190キロでしかなく、練習部員たちの空中慣熟などに用いるしかなかったという。
▼訓練の開始
初代の部長は陸士33期の河島慶吾中佐だった。部隊の要員は昭和16年1月には浜松に集結した。その後、東京牛込の陸軍戸山学校に移動し、約1カ月の地上訓練を受ける。当時、二子多摩川にあった読売遊園地の落下傘降下塔も使い秘密裡に訓練を続けた。
落下傘は当初、97式操縦者用を使い、次には92式同乗者用を使った。改善を重ねられ、のちに1式落下傘として制式化され、現在も続く藤倉工業株式会社(現・藤倉航装株式会社)で生産が一手になされた。予備傘も装備され、主傘が開かなかったときは、これを用いた。
昭和16年5月には浜松から満洲白城子に移動する。浜松では機密保持上、難しかったからだ。ここで訓練を始めたのは約400名だった。使用された輸送機はAT(97式輸送機)約10機と少数の1式(ロ式)輸送機である。
8月の末には部隊は宮崎県新田原に移動した。同時に、2個聯隊による第1挺進団と挺進飛行隊を編成することが研究・準備される。
教導飛行隊は当初、ATが使われたが、逐次、貨物用輸送機として開発・設計された1式輸送機が充てられた。ところが、安定性とエンジンの信頼性が低く、代わりに100式輸送機(MC)が11月ごろには5隊50機が集結するようになった。
▼第1挺進団の発足
昭和16年12月1日、挺進第1聯隊に動員が下令される。動員完結とは戦時編制を整えて、直ちに戦闘に入ることができることをいう。その後、団司令部、挺進飛行戦隊、挺進第2聯隊と逐次動員が下令され続けた。隊員たちは戦時補職に就いた。編制の特色は団の中に飛行戦隊をもっていたことである。
戦隊は飛行中隊4個と飛行場中隊で成り、保有機数は各12機で、うち常時可動機は9機だった。ただし、第4中隊の編成完結が4月になったので、パレンバンでは3個中隊が出動し、1個中隊の不足分は南方軍から第12輸送中隊が応援に入った。
機種は第1・第2中隊が「ロ式」で各機に10名が搭乗、第3・第4中隊は「MC」で同じく13名が乗り込んだ。のちにすべてがMCに統一されたが、作戦時にはほかに物料投下の重爆撃機も加わった。飛行第18戦隊からの応援である。
挺進聯隊の編制は4個中隊であり、第4中隊だけその3個小銃小隊は工兵の将校以下で編成されていた。爆破や漕渡などの軽易な工兵作業ができるように配慮された。
一般小銃小隊は4個分隊で、機関銃(MG)小隊は2個分隊、速射砲(AT)分隊は94式37ミリ速射砲をもったが、パレンバンでは速射砲の投下はまだ研究途上にあり、何個かに分解して梱包しても爆弾倉の扉にひっかかってしまった。そのため、94式20ミリ自動砲と二重装備になっていた。ほかには11年式平射砲兵砲も投下した。機関銃用の物料箱に入れて持って行った。
編制上の特徴は、各中隊に副中隊長が定員としてあった。これは全陸軍でも珍しいことだったという。
▼開戦と齟齬
挺進第1聯隊は船舶事故で装備をすべて失ってしまった。幸い、人員は無事だったが、準備した落下傘や兵器、個人装備などが全部海没してしまう。そこでまだ実戦部隊員としての資格である4回の降下をすべて経験していない練習員もいた挺進第2聯隊が起用されることになった。
1942(昭和17)年1月15日に門司港を出て、30日にはベトナムのカムラン湾に到着した。問題になったのはパレンバンの何を狙うのかということだった。大本営は製油所の奪取を期待していた。ところが、南方総軍の考えは異なっている。もちろん、石油施設を敵が破壊する前に占領することが重要だとは理解していた。しかし、蘭印作戦の企図から見れば、敵の飛行場を一挙に占領してもらいたい。パレンバン飛行場を奪取すれば、シンガポールの英軍の後方を絶つことになる。
これまでマレーもフィリピンもボルネオの上陸作戦も、すべて航空優勢の下で戦われてきた。だが、開戦から1カ月が過ぎてくると、敵空軍も立ち直りつつある。蘭印にあった敵空軍は約600機だった。しかも主力は米陸軍航空隊で、その中には「空の要塞」といわれたB17もあった。すでにフィリピンでは海軍の零式艦上戦闘機との空戦も起こり、なかなか撃墜しにくかったことが報告されていた。詳しい方なら坂井三郎氏の空戦記録で読まれたこともあるだろう。
これがパレンバン飛行場を使うようになれば、スマトラ、ジャワへの上陸作戦は重大な脅威を受けることになる。総軍としては飛行場の奪取こそ喫緊の課題と認識していた。
こうして挺進団は第3飛行集団に配属されることになった。飛行集団とは、のちに飛行師団と改称されることになる陸軍戦略単位である。ここに落下傘部隊が配属された理由とは何か。田中賢一氏は著書の中で解説されている。
落下傘部隊は大事な虎の子である。したがって、全般の作戦を左右するような喫緊の時機と場所に投入しなければならない。南方総軍の作戦どころか、石油資源奪取ということなら戦争目的そのものに直結した運用になる。何に使うか、いつ戦力投入するかは総軍レベルで決定されたが、作戦そのものは航空作戦である。そうなると航空部隊の上級指揮官が運用しなければ動かせない。
降下した部隊はどうかというと、降りてしまえば地上部隊である。降下するまでは、マレーと蘭印の航空作戦を担当している第3飛行集団に配属し、降下したら第16軍に配属することと決まった。したがって、命令は第3飛行集団長に第1挺進団を配属するからパレンバン挺進作戦を実施せよということになった。
▼プノンペンに集結した挺進団
第2聯隊は2月2日に、サイゴンの西南方のメコン川上流の町であるプノンペンに集結を終わった。第38師団の上陸作戦実施日(L日)は10日となっていた。降下は9日と予定されていた。
落下傘は門司港で急遽交付を受けたばかり、一応、展張して畳み直さねばならない。投下する兵器を物料箱に入れて、落下傘を装着して重爆の爆弾倉に懸吊(けんちょう)する準備が必要だった。ただし、作戦計画が決まると、その区分計画に従って携行する物が異なるから何でも詰めればよいというわけではない。重爆も毎日、その本来任務で行動しているから、物料箱を早く積み込むわけにもいかなかった。新田原では教導挺進飛行隊に重爆があったが、今回は入っていない。その対応のうちに、L日は15日となり降下日は14日に延期された。
パレンバンへは航空機の航続距離の関係もあり、南部マレーのカハンとクルアン両飛行場が予定されていた。プノンペンにいては後方過ぎた。そこで11日には北部マレーのスンゲーパタニーに前進する。ここで最終的な準備を行ない、13日にカハンに前進して14日に作戦を実行することになった。
次回はパレンバン降下の実態、その後の挺進団について駆け足で進んでみましょう。
(つづく)
荒木肇(あらきはじめ)
1951(昭和26)年、東京生まれ。横浜国立大学大学院教育学修士課程を修了。専攻は日本近代教育制度史、日露戦後から昭和戦前期までの学校教育と軍隊教育制度を追究している。陸上自衛隊との関わりが深く、陸自衛生科の協力を得て「脚気と軍隊」、武器科も同じく「日本軍はこんな兵器で戦った」を、警務科とともに「自衛隊警務隊逮捕術」を上梓した(いずれも並木書房)。陸軍将校と陸自退職幹部の親睦・研修団体「陸修偕行会」機関誌「偕行」にも軍事史に関する記事を連載している。(公益社団法人)自衛隊家族会の理事・副会長も務め、隊員と家族をつなぐ活動、隊員募集に関わる広報にも協力する。近著『自衛隊砲兵─火力戦闘の主役、野戦特科部隊』(並木書房)。



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