空挺団物語(9)降下即突撃

▼挺進飛行戦隊

 1941(昭和16)年12月1日に挺進第1聯隊が動員される。つづいて団司令部、挺進飛行戦隊、挺進第2聯隊と次々と動員が下令された。2個挺進聯隊は各4個中隊、各中隊は3個小銃小隊(各4個分隊)、機関銃小隊(2個分隊)、対戦車分隊(20ミリ自動砲や11年式平射歩兵砲)で成っていた。

 外国にも例がないことは、団の中に飛行戦隊をもっていたことだ。現在の陸上自衛隊空挺団も輸送航空部隊は別になっている。この挺進飛行戦隊は4個飛行中隊から成り、各中隊は輸送機12機を保有し、常用は9機だった。

 機種は第1、第2中隊が「ロ式」、第3、第4中隊は「MC」である。ただし、「ロ式」が使われたのは第1回の出動だけで、のちに全部が「MC」に統一される。作戦時には輸送機だけではなく、物料投下の重爆撃機(97式)も必要とした。パレンバン降下作戦では、飛行第98戦隊が配属された。

 挺進聯隊の第4中隊は編成上、中隊長も工兵と指定され、3個小銃小隊も工兵将校以下で編成し、爆破や漕渡(そうと)などの軽易な工兵作業ができるようになっていた。なお、各中隊には副中隊長がいて、これも当時の陸軍部隊の編制では珍しいものだった。

▼挺進部隊戦闘規範

参謀本部作戦課の田中耕一氏(陸士45期)の記憶によると、ご自身も審議に参加された「戦闘規範」があった。すべてが攻勢的であって、敵のいるところに飛び込んで行って勝敗を決してしまおうということである。

飛行場を攻撃する時に、どこに降下するかということが大きな問題になった。飛行場の真上、少し間合いをとってか、あるいは著しく離れたところかということである。南方総軍からは、遠方に降りて自動車を鹵獲して敵飛行場に乗り込めばいいなどという話もおりてきた。もちろん、挺進部隊では、そんなことには誰も納得しなかった。

部隊での話題はパレンバンの飛行場の真ん中に降下するか、ちょっと間合いをとって降りるかということになった。論議の結果、間合いをとって飛行場の外周に降りようということになる。これは降下時の装備としては拳銃と手榴弾しかない、だから敵の防衛力が高いであろう飛行場の直上から降下して、真ん中に着地はできないだろうということからである。

幸い、挺進第2聯隊が降下したパレンバンでは敵の抵抗が弱かった。しかし、いつもこうではない、十分な装備を持っていくべきだと「戦闘詳報」には相当強調して書いたそうだ。

▼第1聯隊の装備海没す

 12月1日に動員され、南方への出征が命じられた第1聯隊は13日に門司港を出ると予告された。装備品の受領と梱包に明け暮れる毎日だった。落下傘や物料傘などは、戦地の航空廠や兵器廠にはあるはずもなかった。みなすべてを部隊が携行しなくてはならない。そんなことも初めてだった。

 8日の大東亜戦争開戦の知らせにはみな躍り上がった。9日朝9時には第1聯隊は、日豊線三納代(みなしろ)駅(現日向新富駅)を出発して乗船地門司に向かった。挺進飛行戦隊の飛行場中隊員など地上勤務者のその中にいた。南方へ向かうために全員が夏服であり、さすがに南国九州とはいえ寒気もあったというが、寒いという声はなかった。それほど、みな興奮し、戦意にあふれていたのだった。

 13日には輸送船明光丸は門司港を発つ。27日には木下英明高級部員(陸士35期)以下司令部の大半は輸送機に乗ってサイゴンに進んだ。団司令部には団長と副官が残って第2聯隊の編成業務の指導などにあたっていた。

 1月3日のことだった。明光丸が南シナ海で沈没したという極秘電報が入った。人員は護衛艦に救助されたというが細部は不明だという。第1聯隊は人員の損耗はなかったが、装備、兵器を失ってしまった。こうして、パレンバン降下という初陣の名誉は第2聯隊が受けることとなった。


▼滑空部隊編成の必要

 パレンバンの作戦準備中に話題になったことがある。それを田中氏が『空挺部隊全史』の中に書かれている。

(1)速射砲をもって行けなかった。物料投下は重爆で行なったが、37ミリの94式速射砲を数個に分解して、物料箱に収めて投下することはテストで行なっていたが、車輪の梱包が大きくて爆弾倉が閉まらなかった。同速射砲の設計は1933(昭和8)年7月から開始し、12月には試製砲が竣工してテストが始まった。

 1936(昭和11)年には「九四式三十七粍砲」として制式化された。約46口径だから長砲身、単肉自緊砲身である。全備重量は327キロと軽く、駄載なら分解して5頭の馬で牽引した。車輪外径は不整地でも通過が容易になるよう90センチと大きくなっていた。これは歩兵砲、大隊砲といわれた92式歩兵砲(口径70ミリ、203.5キロ)では戦力にならず、車輪の中径70センチでも対戦車火力にはならなかったからだろう。

(2)無線機の投下が不安だった。内地では何回か試行したが、成功率が低かった。これは物料傘の性能や梱包の強度にも関係があったのだろう。


(3)降下技術を取得していない要員は敵飛行場占領後でなくては進出できなかった。

 いずれも滑空機(グライダー)があれば、すべて解決できることばかりだった。そこで降下の当日に「ロ式輸送機」1機を飛行場付近の草原に強行着陸させるようにした。それには挺進団長、第16軍参謀の井戸田中佐(ドイツの空挺部隊視察の報告者)、通訳や報道班員などが搭乗する。速射砲1門と、現地で使う軍票などの梱包もいっしょに運ばれた。

 

このような経緯から滑空機の研究・開発も行なわれたようにみえる。

▼海軍の教訓を生かして

 海軍落下傘部隊がセレベス島メナドに降下したのは、1月11日のことだった。そのとき、海軍部隊は飛行場の真上に降下した。それで大きな損害を出した。

 陸軍落下傘部隊のパレンバン降下(2月14日、挺進第2聯隊)の次はビルマのラシオへの降下だった。このときの1聯隊将兵の装備は、シンガポールで奪取したトンプソン短機関銃300挺だった。胸の前の予備傘を外し、そこに短機関銃を縛り付けた。兵営の真上に降下しても、ただちに混戦に巻き込んで敵兵力を圧倒できると考えていた。まさに、「降下即突撃」だった。

 これを実現するための工夫をしたという。ラシオ飛行場に降下したのは3個中隊だったが、輸送機に搭乗する時から混合編成にした。幅500メートル、長さ1000メートルほどの地積に降下者は散布(さんぷ)されるが、各機とも先頭の3分の1はA中隊、真ん中の3分の1にはB中隊、後尾の方にはC中隊というように1機から降りる隊員は3個中隊の混合だったわけである(A、B、C中隊は仮の命名)。

 そうしておけば降下したときには、中隊ごとに散布するようになるというように考えた。とにかく降りる、まず中隊レベルの散布ならそれほど指揮系統上の混乱もないだろう。敵に肉薄して攻撃、混戦乱闘のうちに勝敗を決してしまおうというわけである。戦闘規範には『無組織の組織』という言葉があった。

 興味深いのは奪取した飛行場をどのように確保するかという防禦計画に類するようなことは予め計画されていなかったという。兵力が小さかったからだろう。

 次回は団の増強の話を紹介する。

(つづく)

荒木肇(あらきはじめ)
1951(昭和26)年、東京生まれ。横浜国立大学大学院教育学修士課程を修了。専攻は日本近代教育制度史、日露戦後から昭和戦前期までの学校教育と軍隊教育制度を追究している。陸上自衛隊との関わりが深く、陸自衛生科の協力を得て「脚気と軍隊」、武器科も同じく「日本軍はこんな兵器で戦った」を、警務科とともに「自衛隊警務隊逮捕術」を上梓した(いずれも並木書房刊)。陸軍将校と陸自退職幹部の親睦・研修団体「陸修偕行会」機関誌「偕行」にも軍事史に関する記事を連載している。(公益社団法人)自衛隊家族会の理事・副会長も務め、隊員と家族をつなぐ活動、隊員募集に関わる広報にも協力する。近著『自衛隊砲兵─火力戦闘の主役、野戦特科部隊』。