空挺団物語(10)パレンバン(1)─見よ落下傘空を征く
□ご挨拶
記録的な猛暑、線状降水帯、台風による被害が続いています。皆さまにはいかがお過ごしでしょうか。わたしは朝から夜の夜中までエアコンを作動させて、なんとかしのいでいます。今のところ、ほとんど雨も降らず、気温が下がる様子もありません。
この7月半ばからここまでの間、外出もなるべく控えていますが、それでも落下傘についての研修は続けております。入手できる文献ほか、実物を製造し、検査をし、使用にともなう破損を補修し再使用できるように畳み直す、そういった作業を行なう方々から教えを受けてきました。
本日は、陸軍落下傘部隊の初陣、スマトラ島パレンバン飛行場、製油所への降下戦闘の前の制空権確保のための航空部隊の戦いなどをお知らせします。タイトルは『空の神兵』の一節、「見よ落下傘空を征く」から取りました。
▼空からの奇襲
当時、蘭領インドネシアといわれオランダ軍が守備していたスマトラ島は、南北に細長い広大な島である。その面積は約47万平方キロメートル、日本の約1.3倍もの大きさになる。政経の中心地のジャワ島の西、マレー半島の南にあり、北部、中部、南部に大きな油田が存在した。当時のわが国の年間消費量600万キロリットルを超える合計800万キロリットルの産出量だった。
パレンバン空挺降下には2つの目的があった。1つはジャワ攻略戦において、パレンバン飛行場を押さえ在地敵航空兵力を一掃すること、つまり制空権を確保することだった。
2つ目は当時のわが国の必要量をまかなっても、なおゆとりがあった産出量を誇る大油田とその精油施設を入手するためである。施設を敵が破壊する前に確保するには、奇襲作戦が最適だった。そのためにも空挺作戦が企画された。
作戦実施の計画段階では、いくらかの食い違いも起きた。挺進団では新田原で団司令部を編成したときから、パレンバン製油所を奪取するという方針が理解されていた。ところが、現地に行くと南方総軍からの命令では飛行場を占領確保ということになっていたという。戦争全体のことから見れば製油所の確保は重要である。しかし、挺進団の1個聯隊の兵力では両方を襲うのは難しいと考慮されたらしい。
苦慮していたのは南方総軍だった。司令部内部で議論が交わされたが、1月31日にはとうとう「飛行場確保を優先」と決定する。そこで挺進団の上級部隊の第3飛行集団には飛行場を攻撃占領すべしという命令が下された。挺進団ではこれを拡張解釈して、製油所と飛行場の両方に降下させることとした。
飛行集団というのは翌17年に飛行師団となった。飛行戦隊を複数もつ部隊になる。開戦時の戦闘序列は、大本営直轄の南方軍(寺内寿一大将)総司令部の下に第14軍(フィッリピン方面)、同15軍(ビルマ方面)、同16軍(ジャワ方面)、同25軍(マレー方面)の各軍、それに第3と第5の飛行集団だった。
▼パレンバンの制空権のために
この頃、日本軍陸上部隊は2月8日の午前零時、ジョホール水道を突破し、シンガポール島に上陸しようとしていた。第25軍司令官の山下奉文中将の考えはパレンバンに航空兵力を割く必要はないということだった。軍はシンガポール攻略こそ最大の目的であり、また任務でもある。山下中将からすれば、砲弾のほとんどを射ちつくし、軍の状況はまさに瀬戸際にあった。
第3飛行集団では、山下中将にシンガポールが陥落前にあり、敵兵力が分散されている間にこそ少ない兵力で占領の可能性は高いと説いた。航空兵力は戦闘機隊、輸送機と重爆撃機の一部でしかないと説明したのだ。戦闘機隊が必要なのは、パレンバンにはオランダ軍の要地防空戦闘機隊が飛行場群を構成して、その機数も100機ほどと考えられていたからだ。
飛行第64戦隊といえば、新鋭「隼」戦闘機をもち、歴戦の精鋭を誇った戦闘隊だった。その中隊長の1人だった檜與平中尉(陸軍航空士官学校第53期、最終階級少佐)の回想録から、パレンバン制空戦闘の話を拾ってみよう(『つばさの血戦』光人社NF文庫、1995年)。
2月4日の朝早く、加藤戦隊長に呼ばれた檜中尉は明後日からパレンバンを攻撃するといわれた。ただし爆弾の弾痕を飛行場に残してはいけない、占領してから着陸が困難になってしまう、すぐにシンガポール北方約100キロ、クルアンから東に約45キロのカハン飛行場への進出と偵察を命じられた。パレンバンからは相当の距離があるし、シンガポールの敵兵力からは往復ともに妨害を受けるかもしれない、しかし、落下傘部隊と共に使えるのはカハン飛行場しかなかった。
▼7日の大空中戦
偵察機による航空写真を判読すると、パレンバン飛行場には大型機11、小型機54の存在が認められるという。2月6日14時40分、99式軽爆撃機と隼戦闘機は離陸を始めてシンガポール西方の海上で合流する。ところが雲が厚い。高度6000メートルあまりまで地上から白い壁がそそりたっているようだ。軽爆隊は3度も雲の隙間をねらって突入したが不成功に終わる。翼を振って帰投の合図をしつつ一列縦隊の突撃隊形からふつうの編隊に戻ったとき、掩護の位置についた加藤部隊長機は突然左に降下旋回に入った。
指揮官についてゆくと低い雲間からジャングルが見えた。そこから加藤機は機銃掃射を加え、檜中尉や安間大尉の編隊も射撃を行なった。戦果は確認できなかったが、対空砲火をかわしながら銃撃を続けた。
翌7日13時5分、軽爆隊と戦闘隊は合流し、パレンバンに進撃を始める。部隊長と第1、同2中隊は爆撃機の直掩で編隊の左側方、安間中隊は攻撃任務で右上方に位置した。前日と異なり天候はよろしい。しかし、赤道を越える頃から雲量が増えてきた。
15時30分、ジャブン岬上空で高度を3000メートルにとった。パレンバンの上空に進入すると、市街はうっすらと曇っていて、3000メートル付近には雲層がある。飛行場から市街にかけては、濃霧に覆われていた。
雲上からの爆撃は効果が期待できない。戦闘隊がかたずを呑んでいると、爆撃隊は突然、急降下態勢に入った。ただちに戦闘隊はまっしぐらに降下してゆく爆撃隊の掩護のために蛇行飛行を行なった。軽爆隊は高度300メートルで爆弾を投下した。各機は機首を左に変えて離脱していった。飛行場は砂煙が大きくあがって命中弾もあったようだ。この後、安間中隊は雲層を突破して降下し、飛行場の残存敵機に対して機銃弾を浴びせ始めた。
飛行場は火の海になっていた。爆撃で吹き飛んだハドソン爆撃機、銃撃で猛火に包まれるハリケーン戦闘機などである。
(つづく)
荒木肇(あらきはじめ)
1951(昭和26)年、東京生まれ。横浜国立大学大学院教育学修士課程を修了。専攻は日本近代教育制度史、日露戦後から昭和戦前期までの学校教育と軍隊教育制度を追究している。陸上自衛隊との関わりが深く、陸自衛生科の協力を得て「脚気と軍隊」、武器科も同じく「日本軍はこんな兵器で戦った」を、警務科とともに「自衛隊警務隊逮捕術」を上梓した(いずれも並木書房刊)。陸軍将校と陸自退職幹部の親睦・研修団体「陸修偕行会」機関誌「偕行」にも軍事史に関する記事を連載している。(公益社団法人)自衛隊家族会の理事・副会長も務め、隊員と家族をつなぐ活動、隊員募集に関わる広報にも協力する。近著『自衛隊砲兵─火力戦闘の主役、野戦特科部隊』。


